監督:入江悠
キャスト
河合優実(香川杏)
佐藤二朗(多々羅保)
稲垣吾郎(桐野達樹)
河井青葉(香川春海)
広岡由里子(香川恵美子)
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「SR サイタマノラッパー」「AI崩壊」の入江悠が監督・脚本を手がけ,ある少女の人生をつづった2020年6月の新聞記事に着想を得て撮りあげた人間ドラマ。
「少女は卒業しない」の河合優実が杏役で主演を務め,杏を救おうとする型破りな刑事・多々羅を佐藤二朗,正義感と友情に揺れるジャーナリスト・桐野を稲垣吾郎が演じた。(「映画.com」より)
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以前から気になっていた『あんのこと』を観た。映画の公式ホームページのキャッチフレーズには「『少女の壮絶な人生を綴った新聞記事』を基に描く衝撃の人間ドラマ」とあるが,ほぼ想像していたとおりの作品だった。私は映画を観ながら2014年に刊行された鈴木大介の渾身のルポ『最貧困女子』(幻冬舎新書)の内容を思い出していた。同書で鈴木は年越し派遣村などを率いた湯浅誠の「貧困と貧乏は違う」という発言に即して次のように述べている。
「貧乏とは,単に低所得であること。低所得であっても,家族や地域との関係性が良好で,助け合いつつワイワイやっていれば,決して不幸ではない。一方で貧困とは,低所得は当然のこととして,家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い,もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても,貧困で幸せな人はいない。」(p.49)
そして,鈴木は貧困女子の中でもセックスワークに吸収されていく最貧困女子にルポライターとして関わっていく中で,彼女たちに共通していることとして「三つの無縁」ということを挙げる。「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」ということだ。「家族の無縁」とは困ったときに支援してくれる親や親族の不在であるが,支援どころか親からの虐待を受けているケースも多いのだ。「地域の無縁」とは友だちの不在だが,要するに苦しいときに相談したり助力を求めることができる人間の不在である。「制度の無縁」とは社会保障制度の不整備であるが,最貧困女子の場合,たとえそのような制度があったとしても自力で行政手続きができないということもあるように思われる。
「お金がなかったから毎日スーパーを順番に回って万引きをしていました。それが学校にバレて噂が広がって小学校には行かなくなりました。売り(売春)をやったのは12の時で,相手は母親の紹介でした。…覚醒剤は16の時にヤクザみたいな男からススメられて,警察には捕まらなくて止めるきっかけもなかったしそのままズルズル使って…」
21歳のとき覚醒剤使用で逮捕され,自分を逮捕した多々羅刑事の計らいで更生施設に入った香川杏(あん)が自分の半生を語るシーンのセリフである。
杏の母親は杏が幼いときから彼女を暴力で支配し,売春までさせるような女であり,杏は小学校も卒業せずに売春で生活費を稼ぎ,覚醒剤を常用するようになり,21歳で逮捕されるのである。鈴木大介の言う「三つの無縁」の中で成人した女性だ。
映画は杏を逮捕した多々羅刑事の計らいで覚醒剤の更生施設に入り,多々羅の友人のジャーナリスト・桐野の助けを借りて新たな仕事や住まいを見つけ,更生の道を歩む杏の姿を追う。杏にとって必要なこと,それは母親によって閉ざされた世界の扉を開けてその中に入っていくことであり,鈴木大介の言う「地域の無縁」から脱することである。多々羅は杏の人生にとって初めて出会った信頼できる人間だったのだろう。自分を庇護してくれる他者とのつながり,そこに杏は人生で初めて希望を見いだすことができたようであった。漢字のドリルで漢字の練習をし,簡単な数字の計算を覚え,ボランティアで勉強を教えてくれる教室に通うようになる。しかし,多々羅の裏切り…。
私が監督の意図を特に感じたのは杏と同じシェルターで暮らしている女性に訳も分からず無理やり押しつけられた幼い男の子を母親のように甲斐甲斐しく世話をするシーンである。ここでは杏は男の子の庇護者の立場になるのであるが,おそらくそこにあるのは杏がそれまでの人生で持つことのなかった感情…,他者への愛情の芽生えであった。このエピソードが実話に基づいているのかフィクションなのかは知る由もないが,監督のメッセージは強烈に伝わってきた。それはやはり「つながり」ということである。そして,その「つながり」が強制的に奪われたとき杏にはこの世界で生きていくことがあまりにも過酷なものでしかなくなったのだ。杏がベランダから飛び降りることを示唆するドアのカチャンという金属音に続いて映る机の上の漢字ドリルがあまりにも悲しい。
この映画はたしかに格差社会の現実を扱ってはいるが,入江悠監督の視線は格差社会の歪みを声高に訴えることにはない。入江監督は徹底して杏に寄り添い,杏の目を通して現実を見つめる。その想いは十分に伝わってきた。それは人が生きるのに本当に必要なことは他者とのつながりの中にあるということだ。鈴木大介の言う「三つの無縁」。それはとりもなおさず「孤立」ということだ。「孤立」と「孤独」は違う。私は自分の人生を振り返ったとき,孤独だと思ったことはよくあるし現在でもそういう想いは持っているが,孤立していると思ったことは一度もない。だから本当の孤立感というものがどういうものかという実感はないが,この映画には孤立の扉を開け,そこから抜け出ようとする女性の努力とそれが踏みにじられてしまう現実を伝えるだけの迫力があった。その点でこの作品は成功と言ってよいだろう。
映画作りという観点からこの作品について述べておきたい。まず杏を演じた河合優実の演技に圧倒された。役作りに対する彼女の並々ならぬ決意を感じる。また,杏の母親役の河井青葉の毒親ぶりにも目を見張らされた。一方,ストーリー展開上で荒削りな部分が目に付いたのも事実である。特に多々羅の裏切りについて,これが杏の目にどのように映っているのかという点に関してイマイチ描き切れていないように思われたのだが,その原因は多々羅の人物造形の浅さにあるように思われる。この点はとても大切な箇所なのでもっと丁寧な描き方が求められるところである。また,杏が亡くなったあとの多々羅と桐野の拘置所での会話とか,杏に子供を押しつけた母親がエンディングで話すセリフなどは全くの蛇足でしかないだろう。この辺りはストーリー展開になんとか落し所をつけなければということから来ているのだろうが,昨今の邦画のセンスの悪さを引きずっているとしか思えなかった。しかし,この作品に関してはそれらの点を過度にあげつらうことは控えることにしたい。とにかく,私たち普通の市民にとっては不可視の問題を可視化したことの意味のほうがはるかに大きいのだから。










