監督:ギャビン・フッド
キャスト
ヘレン・ミレン(キャサリン・パウエル大佐)
アーロン・ポール(スティーヴ・ワッツ中尉)
アラン・リックマン(フランク・ベンソン中将)
バーカッド・アブディ(ジャマ・ファラ 現地工作員)
ジェレミー・ノーサム(ブライアン・ウッデール閣外大臣)
イアン・グレン(ジェームズ・ウィレット英外相)
モニカ・ドラン(アンジェラ・ノース政務次官)
フィービー・フォックス(キャリー・ガーション上等航空兵)
(ネタバレかもしれないストーリー紹介)
「戦争(戦闘)」という言葉から私たちが思い浮かべるのは,軍隊と軍隊が正面からぶつかり合い,銃撃戦やミサイルを撃ち合うというイメージだ。しかし,この映画で描かれているのはそれとはまったく異なる現代の戦争の姿である。
戦闘の「直接の」舞台になるのはケニアのナイロビ。イギリスの諜報がそこにある民家にソマリアのイスラム武装勢力・アル・シャバブの主要メンバーが来るという情報を入手する。アル・シャバブは過去何度も自爆テロを繰り返してきた非常に過激な武装組織で,その主要メンバーの一人はスーザン・ダンフォードというイギリス人女性である。そして,アメリカ人のモハメド・アブディサラームとイギリス人のラシード・ハムードもナイロビに到着することになっている。彼らを逮捕するために英米合同軍事作戦が組まれる。ロンドンには常設統合司令部が置かれており,キャサリン・パウエル大佐が実際の軍事行動の指揮をとる。米国ネバダ州の空軍基地にはスティーヴ・ワッツ中尉とキャリー・ガーション上等航空兵が待機していて常設統合司令部からの指示に従って行動する。さらにハワイには画像解析班が置かれている。そして,ロンドンの内閣府作戦会議室には政府の高官が集まっていて,常設統合司令部に最終的な指示を送るのである。また,ナイロビのアル・シャバブの主要メンバーが集まっている民家の近くにはケニアの特殊部隊が待機していて彼らを逮捕するために突撃の準備をしているのだ。これらの組織は衛星通信によって繋がれており,人工衛星から送られてくる映像を共有しているのだ。
さて,アル・シャバブの主要メンバーと思われるテロリストたちが車でその民家にやってきて中に入っていくのだが,女性はヒジャブのようなもので顔を覆っており,スーザン・ダンフォードであるかどうかが確認できない。そこで常設統合司令部の指示によって現地の工作員が昆虫の形をした小型のドローンを飛ばして室内の映像を撮影し,ハワイの画像解析班がスーザン・ダンフォードを特定する。いよいよケニアの特殊部隊の突入かと思われたとき,小型のドローンが驚くべきものを撮影する。それは,自爆テロ用に準備された爆弾とそれを体に装着している姿であった。彼らはこれから自爆テロを実行しようとしているのであって,容易に突入することはできないのだ。作戦を変更してその家にミサイルを撃ち込むことは可能なのか?ミサイルを撃ち込めば彼らは確実に死ぬだろう。スーザン・ダンフォードは英国人であり,仲間の米国人も死亡するだろう。それは法的に問題はないのだろうか?結局,問題はないとのことになり,ネバダ州の空軍基地からの遠隔操作によるドローンに搭載されたミサイルで殺害を実行しようとするのだが,そのときにケニアの少女アリヤがその民家の近くまで歩いてくる姿が映像に映し出されるのである。彼女はそこでパンを売ろうとしているのだ。ミサイルを撃ち込んだ場合,彼女の身に起こる致命的な予測は65~75%,市街地で自爆テロが行われた場合,推定80人の死傷者が出る。常設統合司令部はジレンマに陥る。
英米合同軍事作戦を実行しようとしている登場人物たちが口々に発するcollateral damageという言葉。文字通りには「付随的損害」。映画の字幕でもそのように訳されていたが,要するに「軍事行動に伴って巻き添えを食う民間人死傷者」のことである。映画を通じて問われているのはまさにこのcollateral damageに関する問題なのだ。これは倫理学でよく問題になる「トロッコ問題」だと言った映画解説者がいるが,はたしてそうなのだろうか?似てはいるが,私には「似て非なるもの」に思われた。
すべての決定はロンドンの内閣府作戦会議室で行われる。法務長官と政務次官はミサイルを発射することに反対。中将は攻撃に賛成する。彼らは外遊中の外務大臣に連絡を取る。
政務次官「私なら危険を承知で少女を救います。」
外務大臣「追求されるのはきみか?それとも私か?80人が殺されるテロを知りながら止めようとしなかったと。」
政務次官「あなたです。でも私なら政治的にも80人の殺害はアル・シャバブを糾弾します。少女を殺すドローン攻撃は弁護できません。」
法務長官「ジェームズ,アンジェラの指摘は正しい。アル・シャバブが80人を殺せば我々が“宣伝戦”に勝つ。我々が少女を殺せば彼らが勝つ。」
外務大臣は首相の指示を仰ぐようにと言う。首相の指示は「“付随的損害”はできるだけ小さくしろ。」
この会話で彼らが語っているのは倫理学上の問題ではない。どちらの選択肢を選べば自分たちが糾弾されなくてすむかということだ。そして,誰もが自分の責任を回避しようとしているのだ。
世界は圧倒的な非対称によって成り立っているという分かりきった事実をこの映画はあらためて私たちに突きつける。会議室の中でクッキーとコーヒーで他人の命の軽重を議論する人たちがいる一方で,ただパンを売っているだけなのに生殺与奪の権を他人に握られている人が存在する。そしてそれを傍観する以外の術を持たない私たちの無力感…。ひょっとしてそれはギャビン・フッド監督の無力感でもあるのだろうか?
映画の結末については話さないほうがよいだろう。いずれにしてもハッピーエンドにはならない話だが,現代の戦争の姿を通じての105分間の緊迫と緊張の連続,それにいろいろな意味で疲労感が残る作品であった(褒めています)。






