覚醒〜新しい人類史がはじまったという確信⑤

<改装前のuchikawa六角堂>
今思うと、尊敬するスティーブ・ジョブズさんは覚醒していたはずです。もちろん、僕とは比べものになりません。人間の存在や生まれてきた意味を考える(感じる)と、少しずつではありますが、明らかに一歩一歩、真実に近づいている気はします。でも死ぬまで答えはわからないのです。もし、答えを知っている人がこの世に生きていたなら、それはジョブズさんだと思うのです。今頃は「やっぱりな、俺の考えは間違ってなかった」と満足げな笑みを浮かべているでしょう。
なぜ、知っていたと思うのか、それは彼の伝記を読むとわかります。まさに「学知にあらず」の体現者です。自分の心の声に正直に、自分という存在に尊敬をし、自分を信じ、自分の成功を通じて社会を豊かにしようと願った、その徹底ぶりは普通の人間ではなく、悟りの境地にいる仙人です。専門家を信じない、マーケティングなど無意味だと思っていた方です。
そして、彼の偉大な発明と事業の成功を導いたのが「喜び」です。朝起きて好きな仕事をすることに幸せを感じていたそうです。自分が創設した会社を追い出された時も諦めなかったのは、その仕事が大好きだったから。どんな苦しいことも喜びのプロセスだったのだと思うのです。母校の卒業式に呼ばれたときの有名なスピーチに、そのエッセンスがふんだんに盛り込まれています。もう何十回観たことか( ̄▽+ ̄*)(笑)
以上は長い前置きですが、ある日、ジョブスさんが言っていることと、心の教育、成功哲学、仏教、神の啓示、精神論、宇宙観、など様々な教えの共通点が見つかり、リアルに稲妻が落ちたかのような衝撃を受けました。その教えとは「もし、今の仕事がお金のためであり、生きる糧であるとして、他に好きなこと、喜びを感じることがあるなら、それを仕事にするべきだ」です。
頭では理解できても心ではきっと無理だと思うアンバランスな関係が一気にバシッと腑に落ちた状態で理解できた瞬間でした。今から6年前くらいだったでしょうか、図らずも自分のブログのタイトルが「学知にあらず」であることにも衝撃を受けました。タイトルをつけた当時はもっと違うニュアンスの意味を込めたものでした。仕事や生活への向き合い方、ぐらいのレベルだったと思います(/ω\)
もう一度考えてみよう。もし、自分が経済的な問題、人間関係での不安がないとしたら、何を仕事として社会に貢献したら喜びを感じるか…?そこから「喜び見つけ」の長い旅をしました。自分が仕事をしている「まちづくり」という分野は、「コーディネーター」という職種は、いったい誰を幸せにしているのか、多少でも社会を良くしているのか、忙しくても定期的に立ち止まりながら考えました。随分と考えました。ところが、いくら考えても喜びの種を見つけられない…。でも間違いなく好きな方向性には向いているという確信はありました。もしかすると、その確信も実は勘違いかもしれないという不安もありつつ、転職も頭をよぎります(((( ;°Д°))))
後でわかったことは、この探し方が間違っていたということ。対象をあまりにも広い面や大きな塊として捉えすぎていました。もっとシンプルに、感覚を研ぎすませ、直感的になること…、これを忘れていました。そうすると、喜びの種はもの凄く些細なところに隠れていることに気付きます。そのときは自分でも自覚がないかもしれないので、とにかく感覚が「曇らない」よう自分を監視するのです。
たまたま手に取った雑誌の気になったページにあった写真、友人の長話のなかで印象に残ったひとフレーズ、信号待ちで見つけた道路沿いの看板の気になったキャッチコピー、誰かが「気付けよ!ほらこれだよ!まだわかんないの!」と言わんばかりに日々アピールしているのです。おまえの喜びはこれだよ!と。その誰かとは1人しかいません。すでに答えを知っている潜在意識の自分自身です。
もし、自分の喜びの仕事に確信を持ったら過去の自分の行い、境遇などを振り返ってみてください。点と点が線となってつながり、これから面になろうとしています。これもスティーブ・ジョブズさんのスピーチの中身そのものですね。僕は彼を尊敬する理由を明確に答えられます。それは自分の未来の可能性、本来のやるべき仕事を見つける沢山のヒントをくれたからです(°∀°)b
僕はマンガや絵を描くのが大好きな少年でした。広島の田舎にある里山で友達と一緒に廃材で「基地」をつくり、何でも手作りするのが好きでした。木材が好きでした。自分で家具をつくったこともあります。親から自分の部屋を与えられてからはとにかく部屋をいじるのが好きでした。数ヶ月ごとに模様替えをしていました。インテリア雑誌を見るのが好きでした。もしも自分の家をつくったらと想像して図面を描くのが好きでした。3Dソフトでシュミレーションもよくしました。ブロックで家をつくるのが楽しい時間ですね。複雑な路地やトンネルを探検するが好きでした。廃墟を見つけて「基地」としてリフォームしたことがあります。歩くのが好きでした。一人遊びの天才でした。中学生の途中から高校生にかけて、随分と悪い遊びをしました。バンドでギターをしました。女の子にモテるためにファッションやオシャレな店の開拓に余念がありませんでした。家系はバリバリの商売人です。美術大学に入学してプロダクトデザインを学びました。在学中にまちづくりに出会いました。珈琲専門店のオープンスタッフとして入ったものの、当分は外装工事のお手伝いをしました。引っ越しが趣味でした。就職してからは地方ばかりに出かけていました。人との出会いや酒の席が大好きでした。よく出張先の農山村で古民家に泊まりました。農家民宿のマニュアルづくりもしました。よく考えれば古民家再生の関わる仕事も多かったなーと。自分の考えを発進するのが好きでした。瀬戸内生まれなので漁村が懐かしい。アレルギーひどいし。本当は都会的な暮らしが好きなのになぜか田舎へと導かれる…、えーっときりがないぞ…( ̄ー ̄;
とにかく今まさにしようとしている仕事が今までの多くの必然性の積み重ねだ、という言い方もできれば「よー、お前、やっと気付いたのか、どんだけヒント出して手をひっぱってきたと思うんじゃー」と潜在意識(昔の魂)が叫びつつ頑張ってきたとも言えます。気付かなければまったく法則のない突発的な体験や思考ですが、気付いてしまえばよく出来た人生です。
嫁との結婚、富山行きの決断、数千万円の累積赤字だった会社の代表就任、嫁の定住コンシェルジュという富山に来てすぐの仕事、内川との出会い、気付けば富山で沢山やることがあるなと。
僕の仕事は「マチザイノオト」です。
絶滅が危惧されている様々な「まち財」をノーティング(発掘・記録・支援)する活動です。
その地域の歴史や文化に育まれた「物語性」を背景として、その地域だからこそ生まれた「必然性」を有して創作・継承されたモノ・知恵・景色(超ローカルコンテンツ)のことを「まち財」と呼んでいます。それらは、単体を一見するだけでは、なかなかその価値や本質が理解されにくいという特徴を持っています。
「まち財」は、経済性や効率性とは一線を画しているため、市場経済では成り立ちにくいものが多くあります。しかし、日本人のアイデンティティ(心のよりどころ)を支えている「見えざる価値」を内包しているため、理屈抜きで次世代に受け継いでいきたいと考えています。
宇宙よ、ジョブズさんよ、ありがとう。
覚醒〜新しい人類史がはじまったという確信④

<瀬戸内の紅い月>
今の自分の生き方が、自分にとって正しい生き方なのか、考えたことがありますか?僕の場合は、ある時期とても深く考えるようになって、今では自分なりの答えが出ました。
そもそも「正しい生き方」とは、という定義を考えないといけませんが、ここに多くの時間を費やし、本を読みあさる日々が続いたのです。なぜ「正しい」にこだわるのかは、人間にはある程度、天なり神なり宇宙なりから与えられたミッションがあるはずと思うのです。言ってみれば「正解」です。
で、実はそれって、この世に生まれる前の自分の魂が決めていたこと、なのだろうという仮説も持っています。ちなみにその仮説は死んだときにわかること( ̄ー ̄;
つまり、ですよ。生きている間は「正解」がわからないのです。でも、そのヒントはしっかりとインプットされていることに気付きました。苦労して探す必要はまったくなくて、とてもシンプルな方法で自分を導いてくれます。それはズバリ、「感情」です!(°∀°)b
誰もが持っている「感情」という機能(ツール)は、今更ながら素晴らしいものだと思います。生きる指標のようなもの。自分のミッションを知るときに役立つ感情は「喜び」です。「楽しい」と似ていますが、悪い行いをする人が楽しいと感じることをしても、感情の働きとしては「喜び」ではないはずです。
この「喜び」ですが、感情フィルターが曇ってしまうと、そもそも何をやっても喜べません。そんな方は、まず自分の感情フィルターを注意して監視してみる、ということから始める必要があります。
ん、今しているこの瞬間の行動って、自分が喜んでいるかな?といちいち考えてみてください。僕も当分の間やってみましたが、すっかり曇っている自分に気付きました。楽しいけど心から喜んでいない自分に絶望しました。
ちなみに「喜び」は子どもほうが素直なので敏感です。何をやるにしても、喜んでいる子どもの行動を否定しないのは、とても大事な教育かもしれません。
以上は前置きです。本当に伝えたいのはこれからです(* ̄Oノ ̄*)
(まだあるんかい?!(;´Д`)ノ)
本題は「仕事」です。その捉え方はちょっと説明が必要でして、いわゆる会社で勤務している仕事とは違います。でも出来れば一致していたほうが良いです。
仕事は、有償無償を問わず、立場や分野も問わず、その人に与えられた才能を発揮し、社会(地球)に貢献すること、だと思います。「働く」のほうがシックリきます。その才能を活かした仕事には喜びを感じるはずだと思うのです。自らがやるべき仕事には喜びを感じる、しかも才能までセットで!素敵すぎますよねー( ̄▽+ ̄*)
以前、80歳で絵を描く才能に気付いたおばあちゃんの話を聞いたことがあります。キッカケが趣味の教室だったか、知人のすすめだったか忘れましたが、もう楽しくて楽しくて絵を描くことが喜びに変わって、朝から晩まで描きまくって、ついに個展をひらくまでに作品がストックされて、それを世に発表したら、思わぬ値がついて、一気にブレイクしたとのこと。そのおばあちゃん、死ぬ直前まで絵を描いたそうですが、もう80歳を過ぎているのに、10年後は、20年後には…、という話を家族にしていたそうです。
その才能に気付く日は、「喜び」の感情さえしっかりと曇らぬよう磨いていれば、いつかきっとやってくるのだと思うのです。早すぎることもなく、遅すぎることもなく。
僕にもその日がやってきました。42歳が早いか遅いかわかりません。すでに動きはじめています。もうその仕事をしています。会社の経営をしているものですから、もちろんビジネスとして発展させる必要があるのですが、心のどこかで「お金はなんとかなるんじゃない」という気持ちが湧いて出てきます:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
「喜び」は楽しいとイコールじゃないと言いましたが、苦しいことも包容してしまう、そんな力があります。間違った方向に進んだとき、楽しいけど喜びを感じないという経験をしたことがあります。もちろん、間違った方向というのは後で気付いたことです。逆に、辛いのになんだこの喜びは?!と思ったこともあります。
そんなことを考えているとき、ワンちゃんを思い出しました。楽しくても、怒っていても、シッポを振っていますよね。あれって、喜んでいるという感情を持っている動物である証拠で、ワンちゃんは人間よりも嬉しいことに正直なんでしょうね。本人は気付いてないと思いますが。
次は僕の喜びを感じる仕事について書きます。
今日も、宇宙よ、ありがとう。
覚醒〜新しい人類史がはじまったという確信③

<新湊大橋から見た立山連峰(2012)>
タイトルはついに「覚醒」です(`∀´) とくに内容の激変はありません。
本題の前に、とてもいい番組があったので、ちょっとその話を…。
先日、NHKスペシャルで放映した「至高のバイオリン・ストラディバリウスの謎」の録画を観ました。この通称「ストラド」が誕生して以来、300年以上経った今も、このバイオリンを超える名器がつくられていないそうです。番組は、ストラドをつくった天才バイオリン職人の故郷、イタリアのクレモナという町の当時の様子や最新の研究から、ストラド誕生の秘密を探るという内容のものでした。
番組の結びとしては「その秘密はわからないまま」でした。最後には、日本を含む世界の技術者が結集して情報を提供し合い、現在の研究でわかった結果をもとにつくった最高のコピーモデルが登場し、そのバイオリンを番組ナビゲーターを努めた演奏家が、ホンモノのストラドと弾き比べをしたところ、予想以上の出来映えに驚いた、といった感想を述べていました。
でも、その表情からすると「とは言っても、まだまだね…」という印象を受けたのは僕だけでしょうか?( ̄ー ̄;
この番組を通して感じたことは、現代人のあまりにも視覚に頼りすぎた社会や生活です。番組のなかでバイオリンのコピーに大きく貢献したのがCTスキャンだったわけですが、それでは木材の複雑な多様性の前には太刀打ちできません。当時の木質、木材ごとの微妙な性格によって微修正が必要なはず。その中で一番共感したのが日本のバイオリン職人の話です。その方は、ストラドを含む古いバイオリンを修復している間に、板のどの部分を叩いてみても同じ響きになるよう厚みを調整していたことがわかったそうです。
近代で一番発達した技術を五感に振り分けてみると、圧倒的に視覚だと思います。テレビ、印刷、パソコン、モバイル、など視覚情報を司るもので、アートやデザインもそうかもしれませんね。教育もそうです。人を育てるためにつかっている道具が視覚的です。いわば「視覚教育」です。
偉大なるバイオリン職人アントニオ・ストラディバリは、視覚的な芸術性はもちろん、聴覚ついては言うまでもなく、もっと違う何かを「感じて」つくっていたとしか思えないのです。想像するに、多分彼は、バイオリンの材料となるマツの森をはじめとする自然環境への愛と感謝、仕事への喜び、によって人とは違う思考回路でバイオリンづくりに取り組んでいたのじゃないかと( ̄▽+ ̄*)
最近「生体エネルギー」という研究が進んでいるそうですが、これによる作用は結果として検証されているものの、その理由がわからないという部類のエネルギーです。実はこれを応用した商品は普通にお店で売っています。例えば電磁波を遮断するシールとか、クルマの燃費がよくなるグッズなど。現代の理屈で測る検査機器で素材を調べてみると他の同質のものとまったく同じなのですが、明らかに結果が違うのだそうです。あ、そもそも使う「ものさし」が違うので当然でしょうが。
演奏家のなかには、見なくても弾かなくても、さわっただけでストラドだとわかる、という方もいるそうで、やっぱり五感だけでは説明できない第六の感覚をもっと受け入れて、より良い社会づくりに役立てる方向に進まないといけないんだと思うのです。もし「生体エネルギー」的な存在を測ったり、見たりできる装置が完成してストラドを検査してみると、ビックリする数値が出るかもしれませんね。
地場の木材を使って建てられた日本家屋も同じで、職人さんのエネルギーと共に今の科学では理解できないエネルギーで家が守られているんじゃないかと思うんですね。物理的に強いものは自然現状のなかでは案外モロいかもしれません。
本題がどこからか、わからなくなりました…。
最近とくに思う事で、しかも富山に来てからさらに思うことは、自然や宇宙、精神世界に興味がわかいてきて、しかも波長も合ってきている気がしています。クラシック音楽は昔から好きですが、バイオリンの音色が心から美しいと思うようになってきたり、夜空に懐かしさを感じたり、雨音が心地よかったり、伝統的日本家屋が好きになったり、和食が美味しいと思ったり、という変化はここ数年のことです。それって年を取ったってこと( ̄ー ̄;?とも思えますが、この急激な変化は誰かからの指令でスイッチを入れられた感じがします。
もう1つは、「嬉しい」、「楽しい」という感覚こそが、生きるうえで大事な指標であり、自らが育てて行くべき感性だということを考えるようになりました。自分にふりそそぐ辛いこと、哀しいことは簡単に向こうからやってきます。ところが、嬉しいことや楽しいことは、普段の生活のなかで、いつも通りのリズムや波長で暮らしていると向こうからやってきません。自分で育てないと「鈍化」する感覚なのです。
そこに人生を豊かにするヒント(魔法)が隠されていると思うのです。真実は基本的に隠されている…、でも正しい解釈は目の前にヒントがあるのに見よう(感じよう)としない、かもしれませんが、視覚の信頼性に惑わされているのが今の世の中なのかもしれません。
では、今日も宇宙よ、ありがとう。