子供の運動会でしたよ。
こんにちは、渋谷です。
昨日は子供の運動会でしたよー。
台風来てるし絶対ないだろうなーとタカをくくっていたんですが、朝の5時50分に「今日運動会やるよ!」とアプリの連絡が来まして。
ていうか、今緊急連絡網ってないんですよ。個人情報があれっていうことで。全部アプリで管理されてるんですね。すごい時代がきたものだとつくづく思います。
で、「台風来てるんだから運動会なんてないでしょー」と思っていた私は蒼白。弁当の準備してな―い!もうあかん!コンビニでのり弁買って臨むしかない!
で、まあのり弁で運動会に赴いたわけですが、いやー、疲れた。なんもしてないのに疲れた。幸い天気は良く、子供は楽しそうにかけっこで断トツのドベをとってましたが、私は精神的にも肉体的にも疲労困憊。親子競技もなかったし、椅子持ってってグラウンドの隅に一日座ってただけなんだけどねえ。
なんせ知り合いに会いまくるわけじゃん。日頃引きこもりを旨としている主婦には大変な苦行でございましたよ。引きこもりですが、私すごく人に愛想がいいんですよね。「○○ちゃんママは(○○ちゃん←子の名前=私のこと)いつも人に上手に合わせることが出来てすごいわー。人付き合いが上手よねー」とか言われるんですが、基本単独行動の生き物ですから。たまに会うと人に周波数合わせ過ぎちゃうんだよね。だから集団って疲れる!
でもま、何やかやで卒なくこなしてまいりました。これから子供は三連休。お疲れ私、そして子供。運動神経が皆無なのは母に似たせいだな。すまぬ、許してくれ。
そんなわけで秋の大型イベントもひと段落して本を読んだ話。辻仁成さんの「白仏」を読みましたよー。
フランスでフェミナ賞外国文学賞という、なんかすごそうな賞をとったこの作品。うん、うん、うんと、頷かされてばかりの、人間の真実に迫った作品でございました。
主人公は江口稔という男。彼の死のシーンからお話は始まります。時は昭和40年、明治に生まれ、大正昭和を生きた鉄砲屋・江口稔の生涯を描いた物語です。
この稔さんにはモデルがいまして、辻さんの実のおじいさんなんだそうです。九州の小さな島に生まれ、朽ち果て忘れられた墓の骨を粉にして、白い仏像を建立した辻さんのおじいさん。
彼の幼少期から死までの人生の記録なんですね。刀鍛冶の父の後を継ぎ、第一次世界大戦の頃には鉄砲の修理に明け暮れ、実際に自分も兵士としてシベリアに赴き、負傷して帰国したのちには耕運機や海苔の選別機などで財を築いた稔の一代記。
なぜ彼は島中の骨を掘り起こして、それで仏像を作ろうと思い立ったのか。ここに至るまでの稔さんの人生が、なんとも繊細な文章で描かれた物語なのです……。
テーマは「死生感」ですね。どうせ死ぬのにどうして人は生まれてくるのか。死とは何なのか。死の先には一体何が人を待ち受けているのか。
私もさんざん悩んできたアレですね。稔は初恋の人の死、兄の死、シベリアでの殺人体験、島に土葬された無縁仏の骨の残骸の発見などを通して、死とは何なのか、逆に生きるとは何なのかを探り続けます。
彼には幼い頃から「既視感」が付きまとっていたというのも、彼の思考をそういう方向へ向かわせた一端なのかなと思います。いわゆる「デジャブ」。あるよね。私もしょっちゅうある。「あ、この感じ、前に体験したことある」っていうアレですね。
稔はそれを前世の記憶なのではないかと考えます。そうかもね。脳の誤作動みたいな見方もあるらしいけどね。稔の長女は自分の前世を語る子供で、実際に長女の言った通りの場所に長女の墓があり、その子孫がいたりするものだから稔の中で輪廻転生の存在はゆるぎないものになっていくんです。
その思考を抱えながら、実際に現世の荒波を乗り越えていくのは並大抵のことではなかったでしょう。だって、「死んだらリセットできる」ってことが分かってる状態だからね。一緒に野山を駆け巡った親友の自死や、老母の痴呆、会社の倒産など、年老いた稔には様々な困難がのしかかります。
でも稔は困難を乗り越え、そのもう一つ上を行くんですね。ほとんど悟りを開いた状態。それが仏教でいうところの「倶会一処」。くえいっしょと読み、この作品の中でこれはいわゆる「ワンネス」の状態です。「すべての事象はひとつのものである」という、紅天女の境地とでも言えば分かりやすいでしょうか。金子みすゞさんの「蜂と神さま」という詩にもその境地が描かれていますね。
コピペするとこう。
蜂はお花のなかに、 お花はお庭のなかに、 お庭は土塀のなかに、 土塀は町のなかに、 町は日本のなかに、 日本は世界のなかに、 世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、 小ちゃな蜂のなかに。
要するに、「みんな結局は同じものなんだよ」ということですね。言葉で理解できても、なかなか現実に落とし仕込むことは難しい境地です。でもここに至った稔は思うわけですね。
「島の無縁仏を粉にしてひとつの像にしてあげよう。だってもともとすべてはひとつのものだったんだから」
……うーん、思うは易し、行うは難し。
でも、稔はそれを本当にやってのけます。要は辻さんのおじいさんですね。大野島という島に、実際に白仏はあるのだそうです。見たい。見に行きたい。
精神性の高い作品です。フランスで受けるのも分かる気がする。日本人にはあんまり響かない作品かも知れんねえ。でも私は好きだ。この作品で辻さんは真実を描き出すことに成功していると思う。だけど、だからこそか。
多分インスピレーションで書いたんじゃないかなあ、あんまり伏線とか張られてないのよね。流れでその時その時のシーンを書いたんだろうな。だから読み物として「トリックが」とか「盛り上がりが」とかはあんまりない。淡々と一人の男の生涯が綴られているだけ。でも、これがいい。
幼い頃の純朴さとか、青年期の葛藤とか、中年になって負う責任とか、老年になっての高い精神性とか、それぞれの場面で稔という男を感じられて、死の場面ではうっすら泣いてしまいましたよ。いい本を読んだなあ、と思います。
やっぱ、ツイッターで垣間見せるあの人徳の高さはこういうことだったんですねえ。なんか最近辻さんネットで人生相談とかもしてますよね。でもこの人の人生相談は、多分的を射んな。超越しすぎてるから。視点が普通の人と違い過ぎるから。
宇宙的な視点でものを見てるから、短いスパンの現世利益なんかにはご利益がなさそうだ。ご利益て。もはや神扱いか。
そんなわけで、辻さんはまた読みます。欲にまみれたシャレオツな辻さんも見てみたいな。ラブストーリーも読んでみましょうか。面白そう。楽しみ。
というわけで、またっ!