「自分で考える」「自分自身で判断する」ことが重要であるなどと、いったい誰が言い出したのでしょうか。今日では、この自由主義的な呪いの言葉が、およそ「正しい判断」と呼ぶべきものから、人々をできるだけ遠ざけるよう機能しているように思えてなりません。これらの言葉は、誰もがしかるべき思考・判断の手続きによって、あたかも正解に向かうことが可能であるかのような錯覚を与えている。明らかに不適切な妄言です。
 多くの人は、悩んで自分で考えている時ほど、良い判断を下せないということを忘れてはいけません。もっとも優秀な判断をできる人は、常に問題が提示された瞬間、考えるまでもなく反射的に正解を導くのです。ああでもないこうでもないと考えを巡らし始めていることが既に、暗闇に向かって立ちすくんでいることを意味しているわけです――もちろん、幸運にもゴールに到達できる場合があることを否定するわけではありませんが。

 思い出してみればよろしいでしょう。私もそうですが、高度な数学の問題や政治の問題について、どうすべきか問われたとしましょう。自分で考えてわかるでしょうか? 自分自身で判断できますか? できるはずもない(いえ、あなたができるなら失礼)。通例ですとせいぜい、教官や、あるいはどこかの政治学者がもっともらしく語っていたことを、そうと気付かれないよう脆弱に反復することができるに過ぎないのです。
 最初からそのような虚飾をやめて、信頼できる何かを探すほうが賢明です。数学の問題が出たら教授に聞きに行く。政治の問題が出たら専門誌を読む。自分で考えたり判断したりするよりも、100倍もまともな答えが出るに違いありません。
 唯一許されるかに見えるのは、自分自身が本当に力を注いで取り組み結果を残した対象について、自分が知っている2,3の事情をそれとなく語ることだけです。

 もちろん、自分で考えることが必ず悪いとは言わない。ことによると、大発見ができるかもしれないですし、まあそういった特権的な夢物語はともかくとしても、「自分の判断だから、失敗しても納得できる」といういささか冷静さを欠いた退屈な安心感のために「考えたそぶり」をすることが愚劣とまでは言いません。
 ところが実際に振り返ってみると、運不運程度ではとても解決できない高度な問題については、俗な人間が「自分で考えて」うまくいったためしなどない。
 人間の認識や思考には、心理学的にあるいは認知科学的にしかるべき錯誤があるので、皆が自分で考えることによって同じ間違いをしでかす可能性があるわけです。具体的なアドバイスとして、私たちは、自分にとって心地よい結論ほど疑ってかからねばならないのです。なぜなら、心地よい結論は私たちに「正しい」と信じ込まれたがる傾向を持つからです。

「思想」的な側面においてはとりわけそれがひどい。数学や政治学と違って、学ぶ機会が少ないからでしょう。
 なぜ「自分で考える」などという非常に下らないことがそもそも必要なのか、「自分で考える」ことがいかに見苦しい結果をもたらすかを疑うことさえできない程度に、思考停止が行われつつあるのが現状です。
 その結果、メディアなどに用意されたできあいの「自分で考えた末に行き着くべき結論」の数々を自虐的な形で先取りして享受せざるを得ないのです。
 情報社会だと言っても、これでは昔と何一つかわりません。かつては権威的な何か、例えば身近には父親ですとか、もう少し高級になると哲学ですとか、そうしたものが思想のために既に用意されていて、それに従うことがいわば「正しい」とされていた。もちろんそれらは正しいとは限らなかったけれども、今はそれがより楽な、消費されがちな、単調なものに変化しただけに過ぎません。それを自分で考えたと過信するから、いかがわしい事態がもたらされるのです。
 何の知識も努力も必要とせずに、なぜかいつのまにか誰にでもある当然の権利として習得されたことになっている「個人の判断力」などに任せていたならば、しょせん、周囲に迎合して自分に都合の良い風潮を「自分自身で正しいと判断」してしまうのが落ちに決まっているわけです。そうして自分で考えて、どれだけ多くの人が宗教やら素朴なヒューマニズムやら、それに類する恐ろしくずさんな「思想」の虜になってしまっているかを見てください。アメリカのイラク侵略戦争について「愛・平和」とだけしかスローガンを掲げられないおかしな連中の一連の動きを想像してください。

 ますます知識が細分化され高度化されつつある情報社会において、全ての物事にいちいち自分が取り組んで考えようなどと思わないことです。まず最初にいったん、自分で考えるという愚鈍な行為を止めなければならない。それぞれの方面にしかるべき専門家や先行者がいるから、まずはその情報を集めることです。ゆっくりとした時間の中で知識を蓄え習得し、その各々の差異や違和感に敏感になることです。
 それでも敢えて自分の考えを持つという蛮勇をふるいたいのなら、最低限、自分の思想は文章にしなければならないでしょう。文章にできない思想など、ないも同然です。文章にしてみて数行で終わる程度ならとても恥ずかしくて思想などといえないでしょうし、コトバが浮かばないなら概念がきちんと整理されていないわけです。
 自分自身の考えや判断、ということを口にするのであれば、それが形に残っていて、なおかつ他者に向けて開示されていなければならない。他者の前にさらけだされる瞬間の、その他者の視線を意識することで、初めて思いが思想となり得るわけです。もちろん批判されることもあり、往々にして、全てが終了した後で自分の浅薄さに気づかされる事態に陥るでしょう。その過程で、思いの連鎖が言葉として形作られ、整形され、変化し、ようやくおぼろげに思想の輪郭が形成されてゆくわけです。
 こうした一連のやりとりを繰り返すことなく、ぽっと出た「考え」だか「思想」とやらを大事に持って生きるなどという野蛮な振舞いを、一体どうしてできるのでしょうか。

 私の母親は、50にもなって、ラジオのパーソナリティーか何かの「どんなことがあっても人を試したりしてはいけない」という言葉を聞いて、「なるほどなぁと思ったわ」などと中学生の私に漏らし、私をひどく失望させました。そのような言葉の真偽については(それがどちらであるにしても)、その歳になったころには、既に幾度となく想定され、そのたびごとになにがしかの知に基づいて判断され、「既に選択されたもの」になっていければならなかったはずなのです。どれだけ永い間、精神が粗野なまま野放しにされ続けていたかを、中学の子供に薄々でも感づかせてしまうような惨めさを私たちは持っていてはいけないのです。
 今お話ししたのはやや極端な例ですが、「考える」作業というのは、それなりの作法で身につけていかなければ絶対にできない。5年間真面目に考え続けて生きてきた人と、40年間とりたてて何もせず生きてきた人との間に、恐るべき差が生じることは、「才能」などという意図の見え透いた前提を置くことなしに、自明でありましょう。

 どうかあなたがたが、他人の高度な判断に対して「自分で判断する」などという滑稽な言説を振りかざして、事態を隠蔽してしまわないよう、自由主義的蒙昧とでも呼ぶべき言い逃れに騙されてしまわないよう、そして他者との齟齬のうちに真の「考え」を磨いてゆくよう、願わずにはいられません。
「信じる」という言葉が発話される際に生ずる違和感について

「あなたを信じる」という言明がなされるときに、痛々しい押し付けがましさがどうしても滲み出されずにはいられないのは、信じられるはずのないものを「信じる」と言い張ることに一種の道徳的高揚とでも呼ぶべき感動の安売りを見て取れるからというだけではない。「信じていたのに!」という見え透いた責任の水増しにつながる下品な伏線として感じ取れるからというだけでもない。そうではなく、「信じる」ということが明示的に語られるときには、多かれ少なかれ、「信じない」という選択肢が現実的に存在したという事実が、否応なく私たちの前に顕在化されてしまうからである。
「私はバスの床が抜けないと信じる」と表明することが想像できないほど、バスの床抜けに対してあまりにも無防備すぎるかに見える私たちの振る舞いは、「信じる/信じない」という文脈と無縁であり続けられるバス床の特権的な強固さを、これ以上になく明晰に物語ってしまう。「あなたを信じる」という発話は、話者によって、往々にして無制限の信頼の表明として口にされるのにもかかわらず、その限界がおのずとバス床の堅牢さを下回る部分に位置づけられねばならないという白々しい必然性が、私たちに違和感を与えるのである。

 去年1年間で総額183億円もの被害を出した「振り込め詐欺」と呼ばれる詐欺行為のうち、「おれおれ詐欺」に該当する手口には、「バス床的なもの」への絶対的な信頼感を利用する手順が存在する。
 本来、聞いたこともない口座にお金を振り込むという、明らかに疑わしい行為を正当だと信じさせるためには、数々の「疑い」を順に消去していく手続きが必要不可欠である。信じる状態とは、疑いのない状態に他ならず、あなたは誰なの、本当に息子なの、なぜお金が必要なの、どうして今すぐ必要なの、といった全ての疑いをきれいに払拭し「あなたを信じる」的蒙昧に追いやらなければ、およそ詐欺は成功しないからである。
 ところが「おれおれ詐欺」は、「おれ、おれ」という最初の一言とそれに続く一連の身振りとによって、先に挙げたいくつかの「疑い」のうち最初の2つを「信じる/信じない」の文脈から削ぎ落とす。老夫婦の多くにとっては確かに、電話口でいきなり「おれ、おれ」と叫びながら助けを求めてくる相手は、せいぜい息子でならなければならなかったのであり、件の詐欺がうんざりするほど報道される以前には、このことはほとんどバス床の固さと同じ程度に蓋然性の高いことだったのである。
 電話口で最初に「私はあなたの息子です」と宣言する手法が詐欺の成功を恐ろしく困難にしてしまうことと対比させて考えれば、相手が「信じるかどうか」を判断する文脈を新しく作ることをできるだけ避け、バス床的なもの、「疑われることなく放置されているもの」にうやむやに乗じるのが、上手な詐欺のやり方と言えるのだろう。相手が偽りの前提を滑り込ませてくるならば、こちらも同様に「落ち着きなさい。こないだの30万も降ろして振り込むけど、いいね?」のように切り返してみるのもよろしかろう。

 唐突だが、ある風景を想像してみよう。
 デート中、やや高級なホテルで食事をするカップル。女性が食事を残してしまったために、いささか過剰に装飾された器に、相対的には異質とも言い切れない肉片が無造作に散乱している。まさに直前に「あなたを信じる」とそそのかされた相手の男性の心の奥には、女性が食事を美しい作法で食べなかったこと、食べきらなかったことに対する、さほど深刻ではない苛立ちがくすぶりはじめている。男性は「育ちのいい」家庭環境を過ごしたのだ。
 男性の不機嫌を嗅ぎ取った聡明な女性は、頭の中で言葉遊びを開始する。食事のマナーのことを非難したいのかしら。満腹であっても眼前の皿上に配置された食物は必ず胃壁の内側に移動させられなければならない、とする不自然で不健康な戦時的教育を守るように要請するのは、アフリカの恵まれない子供たちという陳腐な概念へのオマージュのつもりなの。それとも慎重なはずのあなたが、バス床と同じ構造で信仰してしまっている禍々しい風習に過ぎないの。「アフリカの猛獣」がフィクションでないと仮定するまでもなく、猛獣だってきっとおなかがいっぱいなら食べ残すに違いないのに。苦しい思いをしてこの残飯を平らげることが、腹部の肉の増加に加担し、私の女性としての美学的価値の低下を引き起こすことについてどうお考えです。もし「料理は中腰で食べる」というマナーがあったなら、あなたは社会問題になりつつある腰痛患者の急増を横目に、忌々しく顔をしかめながら、みすぼらしい格好で食事したかしら。病的なまでの持続的な愚劣のことを「伝統」とか「しきたり」と読み替えて喜ぶのは、しかるべき人たちだけで充分――。
 男性が、ついに口にされることのないこの女性の純粋な戯れを、それとなく看取でき、ただ「残す」という控えめな形で反対の意を表明した女性の俊敏さと謙虚さとを褒めてあげられるかどうかは、このカップルの知的素養に依存していると言ってよい。

 巧妙な詐欺師の言葉にも、人々の篤い信仰を一身に受けるバスの床にも、しゃがむことなく食べられる料理のあり方にも共通して見出すことができるものは、いったい何か。
 それは、おびただしく流通し続ける不自然としての自然の姿である。不気味であってしかるべき混沌とした何かが、「意味」や「制度」によって覆い尽くされ、それが私たちから違和感を拭い去るとき、すなわちすべての物事がバス床的に処理されるとき、私たちは恍惚とした盲目を体験する。
 もはやこのとき、「信じるべきかどうか」といった私たちの問いはほとんど無力である。信じるかどうかを選択できる時点で、その対象は私たちによって既に疑われていると言わざるを得ない。少なくともそれは「バス床的なもの」ではない。「私はこれを信じる」という形で信頼される占いや健康食品は、疑われつつも支持されているのであって、必ずしも常に盲目的とは言い難い側面がある。どちらかと言えば盲目はむしろ、それらを安易な「意味」を用いて――科学的に効果がないとか、お金がかかるとか――批判してみせるときのやり方の中にこそしばしば存在する。
 私は、取るに足りない「マナー」への人々の徹底的な無批判ぶりが、人間関係に余計な軋轢を生むという事実を、今ここで殊更に取り上げて糾弾してみせたいわけではない。バスの床の固さに対してさえも疑念を抱くような姿勢が、何かまるで知的なことであるかのように喧伝する連中の肩を持つつもりもなければ、「結局全ての判断は一種の信仰である」などといった「簡単な説明」を声高に叫ぶ輩の、言い尽くしがたい無残さを嘲笑したいのでもない。
 ただ、挿話の中に登場した架空の女性がそうしたように、スムーズに流れる意味の連続の中に、それと逆らうもの、わずかに調子の外れたもの、冗談めいたものを意図的に放り込んで違和感を強制的に作り出し、それらと繰り返し戯れることが、「信じるかどうか」の文脈を奪われつつあるバス床的なすべてのものに対する私たちの一つの態度となり得ることを、これといった目的もないまま書き記しておきたく思っただけに過ぎない。
「いちご」レベルに頭の悪い公務員批判記事を書いている自称ジャーナリスト、「磯山 友幸」という人間の書いた記事につっこみを入れておいたので報告する。

こちらのページの2人目、「磯山 友幸」の部分に記述した。

 頭が悪すぎる人間(私立文系に多い)というのは、常に、こういうものだ。
大森靖子『さっちゃんのセクシーカレー』本当にいい歌だなぁ。
「成長しないで さっちゃん/茶髪にしないで さっちゃん/彼氏つくらないで さっちゃん/僕だけの特別 僕だけの特別」。
自分の感情・想いを、道徳や常識など一切切り捨てた素振りで、直球でぶつけるこの上ない愚直さ。

川崎中1殺人事件(少年らが上村君を惨殺した事件)の公判で、被害者の父親が「(犯人は)『上村君の命を背負って生きる』と言うが、とんでもない。うちの息子の命は犯人ごときに背負えるほど軽くはない」「復讐してやりたい」と、涙ながらに語ったという。
「さっちゃん」に通じる魂の慟哭。

人は、感情の、心からの吐露に共感するよう進化してきた。
強く色濃く想いがつまっていればいるほど、我々は『感動』の念を抱く。
感動とは何も、下らない悲劇や成功譚を見て下種な喜びを味わうことではない。
心が強く突き動かされ、揺さぶられ、無条件に涙が出るような何かを感動という。

その意味では、私は『さっちゃんのセクシーカレー』を聴いて涙したし、川崎中1殺人事件の被害者の父親の言葉にも耐え得なかった。
冷静で冷徹と捉えられがちな私でも、である。てわけで、おススメ。『さっちゃんのセクシーカレー』
AmazonでのCDはこちら
おれのwiki『名言と愚行に関するウィキ』の記事より)

 霞むように遠い昔の断片的な記憶の中にも、特権的に保持され続ける印象的な場面がいくつかあるものだ。私にとってそれは例えば、幼稚園の2階の廊下に理不尽に放置された積み木を、同園児が踏みつけて転び泣き出してしまった際に、彼に対して「くやしかったらボクを叩いていいから」と言ってみたことがそうである。あるいは、小学1年生の頃、祖父が亡くなった数日後に、母親に向かって「さっきな、畑でおじいちゃんが見えて、おじいちゃんって呼びかけたら消えた」と言ったこともそうである。これらが今でも鮮明に思い起こされるのは、自分が取り立てて慈悲深かったからでも、稀有な神秘的体験をしたからでもない。「この場面では、こういうことを言うと、良いのではないか」といったような確信じみた気持ちを幼心に感じながら、特に自分が望みもせず、体験してもいない単なる「嘘」を吐いたからなのである。
 自分にとってそれらは、明らかに「自然には出ない」はずの言葉だった。何かわざわざしかるべきものを用意してきて、これをこの場面で投げ出すと褒められるのではないか、気を引けるのではないかというつながりを、薄々感じながら行動したまでのことだったのである。自分の「自然な」感情とは途方もなく程遠い言葉を並べる行為に対する、今思えば一種の猜疑心のようなものが、おぼろげながら自分の中に生じているのを、不思議な冷静さとともに感じたものだった。

 幼い子供の取るに足りない嘘だけに限らず、私たちは生活の中で、この種の「不自然な」言葉の体験を繰り返し生きることになる。
 とかく不気味に感じられた学級会での討論や、道徳の時間の生徒の返答を思い出すと良い。「別に、部落差別は自分と関係ないからどうでもいい」という一番ありそうな意見は決まって語られず、その代わりに「本人の努力と関係ないのに、生まれで人を判断するのはよくないと思います」などという誰のものでもない意見が、妙な感動につつまれながら語られ、まるで部落差別が、はなから誰の得にもならなかったかのように処理される様子は何だったのか。
 同様に、会社の採用面接や事故被害者遺族へのインタビューもまた、私たちが生きる上での現実とは著しく乖離した「暗黙に用意された返答」を口にするための儀式と化している。「御社が業界で着実な実力を伸ばしてきた」ことや、「自分がステップアップできる」ことが平均的な大学生の「御社を志望した動機」とやらを表すはずがない。およそ志望動機に「正解」があると仮定できるならば、「あまり、ありません」がそれだろう。「夫が死んで、少し悲しいけれど、どちらかというとほっとしました」と感じる妻がこの世に存在しないことになっているのは、いかなる理由からか。

 さて、酷く不自然な言葉が執拗に繰り返されるうちに、私たちはいつのまにかそれを「自然な」やりとりであるかのように錯覚しはじめる。ドラマや映画の登場人物の話しぶりは奇妙と言う他ないが、見慣れてくるうちに、自分の日常のそれとは一致しないまでも、「こういうものだ」と納得してしまう。「不自然」が「自然」に置き換わるわけである。
 もしも、仮に今すぐ自分がドラマに出演するとしたならば、どうだろうか。誰に頼まれるでもなくこの「ドラマらしい」話しぶりを演じてしまうことになるだろう、という諦念めいたものを私たちは感じるのではなかったか。なぜそうでなければならないかが問われる以前に、そうであることを理由にそうしてしまうという行為の苦々しい愚鈍さを噛み締めながらも、かといって必ずしも不自然を暴いたり拒絶したりすることにさしたる意義を見出すことができないまま、万一問いただしたりするような機会があっても「みんなそうしているだろう」という返答しかこないのではないかと疑心を抱えつつ、「不自然」を気軽な形で受諾する自分の姿というものが目に浮かぶのではないか。
 必ずしも年齢に相応しい能力を身につけているとは呼びがたい「大人」と呼ばれる人々が、幼い子供の発言や行為のあまりの突拍子もなさにしばしば驚かされる事実は、べつだん子供の奔放さや純真さを意味しているのではなく、むしろ私たちの常識的ないし日常的な「自然な」発言・動作といったものが、いかにある種の偏りへと向けられ、意味づけられた「不自然な」ものであるかを示している。事実、子供はとりたてて純朴ではなく、私が6歳の頃にしてみせたとおり、純真さと対極の各種の社会的適応を、人は物心がつく頃には既に開始しているのである。

 かつて女性が哲学をすることは「なかった」ように、語る主体は、語りたがる主体であり、語ることが許される主体に他ならない。語ることを禁じられた主体こそが真実を持っていて、それだからこそ禁止されている、という事態がある。表層に顕在化する意見とその反対意見のいずれかが、ではなくて、沈黙している意見こそが真実ということが実際にある。
 郵政民営化など別にどっちでもよい、という民意を代弁する政治家はどこにいるか。郵政民営化は「すべきか、すべきでないか」で判断しなければならないように感じ始める瞬間を、私たちは見逃してはならない。
 あらかじめ用意されたある種の空間、ある種の関係、ある種の文脈において、特定の「語り方」が要請されることがある。主張や意味づけまでも規定されることがある。だからこそ、不自然な言葉、それも時として無様な言葉が、平然とまかり通ることになる。不自然であることが即座に悪であることと照応するかどうかは置いておくにしても、私たちはひとまず、そうしたものから自由であってよろしかろう。
おれはヘイトスピーチ容認主義者である。
例えば、先天的あるいは後天的に学力の低い人間を、徹底的に批判してよい、等の意見・思想を持っている。
おれは著書を出版したり大学で教えたりしている表現者であり、マイノリティへの憎悪増幅といった負の側面がよほど大きくない限りにおいて、表現の自由を最大限に守りたいと考えているからだ。

それに対して、「ちーちゃん」というバカが、批判精神ゼロで無教養であるがゆえに、おれについて「(ヘイトスピーチを認める)サイテーなやつだな」などとブログに書いている
だが、ヘイトスピーチという行為が、即座にあるいは無条件に「よくないもの」である、などとは、(宗教家でもない限り)到底言えない。
ヘイトスピーチについては、憲法等で定められた表現の自由との関係もあり、世界中の研究者・有識者の間でも、規制派・慎重派・規制反対派と様々な意見がある。

頭が悪く、大学等で思想的・論理的思考力を鍛え損ねた残念な人間は、物事や論理への批判精神を涵養する機会を一切持つことができないまま人生を無為に過ごした結果、「いじめはよくない」「いのちは大事」「ヘイトスピーチはダメ」程度の、浅薄で弛緩した、まるで子供か低レベルマスコミのような道徳的=宗教的価値観に支配され、極めて低劣な水準の妄言を吐くのだ。

加えて指摘すれば、「(ヘイトスピーチを容認する人は)サイテーなやつ」との旨の表現をすることは、ヘイトスピーチ容認主義者へのヘイトスピーチ以外の何物でもない。
こうした自家撞着に陥る類型の人間を、世間一般では「バカ」と呼ぶのである。


※追記

おれがこのブログを広場で宣伝していたところ、「ちーちゃん」が、「お前のブログなんて誰も見ない」という愚昧な分析wをしていたので、どの程度の人がおれの記事を読んでいるか掲載しておく。
みてるみてる
ご覧のとおり、このページ単体でも、たった数時間で164人が見ている。それを「誰も見ない」と認識するとは、噴飯ものである。
ちなみに、知恵の足りない者がよく使う典型的な常套句として、「みんなが○○のことを××だと思っている」「○○なんて誰も××していない」の2つが挙げられる。見事な大衆ぶりの発揮といえよう。
以前、「りおし」とTwitterでした「論争」を、一応紹介しておこう。

最初の20つのやりとりくらいでおれの勝ちが確定してるんだが、りおしが負けを認めず超伸びたせいで、りおしが数十名から叩かれまくった。
その結果、りおしは「ネットリンチを受けました。とつげきを懲戒処分にしてください」とかわけのわからないメールを職場に何度も送ってくることになる。
また、半年以上に渡っておれのピグを隠し続け、職場へのイタズラメール(「とつげきが強 姦しました、懲戒免職にしてください」、など)を50通以上送り続けているクズである。
最近は、「とつげきが2chで工作活動してる!」などの嘘をつく程度で、比較的おとなしいため、こいつがいかに最低で下衆な人物かを知らない人もいるだろうが、ここに証拠を残しておこう。

http://togetter.com/li/648559

りおし曰く「自分は論客」であるとのこと。
また、「論理学は知らない」が、「論理学くらい、私は論客なので、少し調べれば理解できる」らしい。
ところが、「AならばB→AでなければBではない、という推論は誤り」ということさえ理解できない。
また、高校1年生の数学が理解できればわかるはずの、「AならばBかつAならばBでないとき、BならばAという命題の真偽はどうか」という問題が、「難しい問題」だそうだ。

アホはすげえ。

最後まじで全員から死ぬほどバカにされていた。
論理学がわからない論客って、一体何?

そういえばちーちゃんも、「対偶」すら知らなくてもがいてたな。
「ケンカ師」ってみんなこんなんなんだろうか。

「月兎」という39歳(15/12/22時点)の女性と、以前に新宿『ラムしゃぶ 金の目』で食事をしたことがある。
おれが全額現金で奢ったのだが、「月兎」が、自分も払っただの、おれが親のカードで支払ってお釣りを奪っただのと嘘をついている。

月兎の発言の趣旨は、主に以下のとおり。

・支払いは、とつげきが、親のクレジットカードで決済した
・従ってご馳走されたというわけでもないように思う
・割り勘のお釣りがきたとたん、とつげきは「これもらっていい?」と言って財布に小銭をじゃらーと入れた
・ゆえにドン引きした
・(もう二度と)会いたくない

・(とつげきの顔は)貧相であり、貧乏くさい
・とつげきはよれよれのTシャツを着ている
・とつげきは中年太り気味であり、お腹が出ているのを気にしていたみたい

※ソースはこちら、全ての発言が画面写真で載っている。


しかし、これはおかしな話である。
まず、クレジットカードで支払ったなら、なぜおつりが出るのだろうか。
次に、事実を述べると、私はクレジットカードを保有していないため、全額(相手の分も)現金で支払っている。単なる月兎の嘘なのである。
「親のカードで支払ったことにしたい」という願望と、「お釣りさえ奪っていくケチなやつという設定にしたい」という願望が混在してしまったため、矛盾が生じている(そもそも、カードが親名義であるなどと、なぜわかったのだろうか?)。

これについては、後に、月兎が「クレジットカードと現金の併用ができる」という珍妙な説を唱えて、なんとか辻褄をあわせようとしている。
曰く、合計金額が8400円のとき、8000円分はクレジットカードで支払い、残り400円分は月兎が割り勘で出した(設定にしている)1000円札で支払うことにより、おつりの600円がとつげきの手元に返ってくる、という説明だ。

しかしこれもおかしな話ではないか。
そんなことをするくらいなら、月兎から渡された現金を全て懐に入れ、親のカードとやらで全額支払えば、おれが一番得するではないか。
なぜ、わざわざたった600円分だけ取得しようとするのだろうか。
まったく愚かな言い草である。

その愚かさに気づいたのか、今では「釣り銭をとったのがみっともないから、ウソってことにしたいため、カードで払ってお釣りを貰ったというありえないデタラメをとつげきが思いついた。」という話になっている。
いやいや、「カードで払ってお釣りをもらった」と言い出したのは、先のソースにもあるとおり、他ならぬ月兎ではないですか。それが最初でしょう?

嘘はやめましょう。

月兎は現在、2ちゃんねるで死ぬほど叩かれているが(こちらのスレッド等)、不本意なので、他の発言についても反論しておく。


・(とつげきの顔は)貧相であり、貧乏くさい
→そうかもしれないが、月兎はもう40近いおばさんであり、顔も美人とは程遠い。
→そのような月兎に言われる筋合いはない。

・とつげきはよれよれのTシャツを着ている
→おれは月兎とTシャツで会ったことはない。Yシャツならよれよれだがw

・とつげきは中年太り気味であり、お腹が出ているのを気にしていたみたい
→おれは体脂肪率6.5%、身長175cm体重53キロ程度であり、かなり細い。全くの虚偽である。

・(もう二度と)会いたくない
→『金の目』で食事をした後日、月兎からの誘いで、焼き鳥屋『車』に行っている。
→その後も何度か食事に誘われたが、おれの好みに合わない女性であるため、全て断った。


ついでに言えば、最初の食事をしたのは、もう1~2年以上前であり、今になって「まるで最近の出来事であるかのような口ぶりで」こんな叩きを入れてくるのも不自然極まりない。
また、「とつげきは2ちゃんねるに連投している」「とつげきは、アメーバピグでサブを使っている」、等の嘘もつかれているが、おれは1度も2ちゃんねるに書き込んでいないし、サブもいない。

というわけで、月兎が、おれにフラれたことに対する私怨から、嘘を吐きまくっていることは明々白々なのである。

事実をここに記しておく。


※追記

やはりというか、「ちーちゃん」という嘘つきが、この文章に対して「反発」してきたので、見ていこう。
(※「反発」があった証拠はこちら:http://megalodon.jp/2015-1223-1242-56/ameblo.jp/sexy05070/entry-12109225977.html

>余談だが、またとつげきが自身のブログでうそならべて
>「カードで払ったのに 同時にお釣りもでた」とか言ってるらしい。

それを言ったのはおれではなく月兎であることは、画像の証拠つきで証明済みである。

>割り勘で月兎の払った分のお釣りまでとったくせに それがみっともないもんだから
>「カードでお釣りが出た」などとワケがわからん物語をでっちあげて ごまかそうとしてる。

割り勘はしていない。
おれが全額現金で払った事実については、うんざりするくらい何度も言っている。
「カードでお釣りが出た」かのような主張をしたのは月兎であり、おれではない。

>しかもそれを 俺が言ったというのだ。

!?
え!?
上記のうち、どこにそんな記述があるのか?
月兎が言ったとしか書いていないはずだが。
どこまで読解力が低いのか。
あるいは、嘘つきすぎ。
何でも自分の脳内で自分に都合よく変換して、「とつげきの嘘」にする。
汚らしい。

>当然こちらが言った証拠は出せないし証拠写真すらない。
>うそだもの。証拠だせないのはあたりまえだよな。

決定的な証拠となる画像を添えてあるのに、気づかなかったのだろうか。

>証拠があるかのように偽装までしてるwwww

再掲するが、証拠画像はこちらであり、全ての発言が画面写真で載っている。
ちなみにこの証拠画像は、見ての通り、「ちーちゃん」のブログに掲載されていた画像(現在はアメンバー以外には非公開となっている)であり、もし偽造であるとすれば、犯人は「ちーちゃん」である。

>毎度のパターンだが、これでコイツがいかにうそつきかわかっただろう。

お前がな。
どんだけデタラメなんだこいつ……。

ついでに、おれが芝浦工業大学に入ったことがあり、しかもそうだとおれが言った等の嘘も書いているが(おれはMARCH以下の大学は受けたことすらない。おれが現役時代に入ったのはセンターボーダー75%程度の国立大理系である)、事実無根である。
それどころか、ちーちゃんはおれのことを「高卒落ちこぼれで、現在は生活保護受給者」だといつも言っている。仮に芝浦工業大学だとしても、なぜ大卒に格上げされたのか謎である。

全てが無茶苦茶。
あまりにもひどい。


「ちーちゃん」のブログのコメント欄に「ゆうちゃん」というジャガー横田似のおばさんが「とつげきのブログなんて誰も見ない」旨コメントしているが(このおばさんも相当頭がアレな人である)、昨日(12/22)の当ブログのアクセス数は555件(12/23は691件、12/24は361件、12/25は470件)であったことを追記しておく。
※証拠画像
access


※追記

やべえやべえ、「ちーちゃん」のブログのコメントで簡単に反論したが、それに対する返答がうんこレベルに酷い。
こちらを参照。
相手が証拠画像を(わざわざWebサイトにアップすることにより)出していることにさえ気づいていない。
まあ、なんつーか、すげえな。まじですげえな。平常運転だけど。
自称「ジャーナリスト」若林亜紀の、『国家公務員ボーナス「厚遇隠し」のカラクリ』という記事をざっと見てみてください。以下URLです。

http://megalodon.jp/2015-1212-1257-33/news.livedoor.com/article/detail/10935205/


とりあえず公務員は今年2015年冬のボーナスで大もうけしていて、それを隠している、という内容。

またデタラメジャーナリスト若林亜紀が超嘘書いてるな、というのがおれの感想。

「公務員の過半数が管理職」だから、「管理職を除くボーナス平均額を出しても無意味」だって?

いやいやいや。
課長以上(管理職)が半分以上もいる職場とかあり得ないだろ。常識ゼロか。
実際は、管理職(企画官以上)は全体の5.00%ですね。
10倍に膨らませてます。

ちなみに以前、若林亜紀と直接Twitterで討論したときは、やつは「課長【補佐】以上の管理職が3分の1以上」と言っていた。課長どころか、課長【補佐】というワンランク低い役職ですら、3分の1ちょいしかいなかったはずです。
(証拠:http://totutohoku.b23.coreserver.jp/hp/wakabayashi.htm

それがいつのまにか「課長以上が過半数」に変わっている。自分のウソでどんどん肥大化していくデタラメ(ちなみに、課長【補佐】は管理職ではありません)。


アメピグ政治広場のメンバーで言えば、ちーちゃんやいちご、月兎が、自分でウソをつきまくって、それを信じて、ますます大きなウソをついていく過程とそっくりだ。
こういった連中は、ずっと自分がウソを言っているうちに、無自覚にそれを信じるクセがある。
彼らは、最初に自分が言ったウソを本気にし、かつそれを肥大化させてしまうのである。


若林亜紀のウソは、他にもたくさんある。
記事によると、国家公務員の「成績優秀者」が全体の6割を占めるそうだが、実際は4割である。嘘まみれ。
加えて、自分で「6割の成績優秀者」はボーナスが「2.125か月分」と書いているくせに、全体の平均ボーナス額を俸給月額の2.125倍と計算している。
いやいや、2.125か月分もらえるのは6割だけなんでしょ? なんで全体が2.125か月分になってるの?
さすがバリバリ文系のアホであるというべきか、虚偽のためならわざと計算間違いをするものなのか。
これは若林亜紀の常套手段で、この女は以前に俺とTwitterで真面目に討論している途中、ブロックして逃げていった、卑怯で最低なやつだ。


そうだねぇ、やっぱりちーちゃんそっくりだね。

ウソばっかり言って、最初は「とつげきは東北大卒ではない」と言っていたのに、「とつげきは日大卒」になり、「とつげきは帝京平成大卒」になり、「とつげきは高卒」になり、今では東北大学の成績証明書までうpしたのに「捏造だろ。とつげきは高卒落ちこぼれで生活保護受給者」にまでなったのと同じ形式。
で、完全に自分が嘘つきなのに「とつげきは嘘つき。デタラメしかしゃべったことがない」と臆面もなく喧伝するバカ。

「じゃあTwitterか掲示板、またはSkypeで直接議論しよう」と誘うと、それはさすがに負ける自覚があるらしく、毎回逃げるw

「若林亜紀=学歴が高くなった版のちーちゃん」
でFA!(←FAって古!!)
ほんのりとしたやりとり。

高卒落ちこぼれのとつげき東北

ちーちゃんによると、おれは東北大学工学部通信工学科卒などではなく、高卒落ちこぼれなのだそうだ。もちろん「証明ずみ」である。

どんなウソデタラメを言ってでも、相手が自分より低くなければならないらしい。
なんせおれが普通自動車の運転免許証を持っていると言っただけで「嘘だろ、自慢するな」「ネットは嘘ばかり言えていいよね」とか食いついてくるヤツだからなw
こいつより低い社会的立場になるのは相当難しいぞw

妄想の世界で永遠に生きていけ。

ちなみにこの「ちーちゃん」という人の嫉妬捏造ブログはこちら。著しく暇な人は、見てあげてね。


それと一応東北大学工学部通信工学科の成績証明書貼りつけておくねw
当然だけど、文字通り「可もなく不可もなく」、「優、良しかない」成績ですね。落ちこぼれどころか、成績上位卒業生なので。


成績証明書3
成績証明書1
成績証明書2


※追記

これらの画像は、「ちーちゃん」によると、「捏造」であり、やはりおれは高卒の落ちこぼれだそうですw
それを喧伝するブログを書いて、「みんなで」おれのことを笑っているそうです。
うわあ……w 哀れ……w