「信じる」という言葉が発話される際に生ずる違和感について

「あなたを信じる」という言明がなされるときに、痛々しい押し付けがましさがどうしても滲み出されずにはいられないのは、信じられるはずのないものを「信じる」と言い張ることに一種の道徳的高揚とでも呼ぶべき感動の安売りを見て取れるからというだけではない。「信じていたのに!」という見え透いた責任の水増しにつながる下品な伏線として感じ取れるからというだけでもない。そうではなく、「信じる」ということが明示的に語られるときには、多かれ少なかれ、「信じない」という選択肢が現実的に存在したという事実が、否応なく私たちの前に顕在化されてしまうからである。
「私はバスの床が抜けないと信じる」と表明することが想像できないほど、バスの床抜けに対してあまりにも無防備すぎるかに見える私たちの振る舞いは、「信じる/信じない」という文脈と無縁であり続けられるバス床の特権的な強固さを、これ以上になく明晰に物語ってしまう。「あなたを信じる」という発話は、話者によって、往々にして無制限の信頼の表明として口にされるのにもかかわらず、その限界がおのずとバス床の堅牢さを下回る部分に位置づけられねばならないという白々しい必然性が、私たちに違和感を与えるのである。

 去年1年間で総額183億円もの被害を出した「振り込め詐欺」と呼ばれる詐欺行為のうち、「おれおれ詐欺」に該当する手口には、「バス床的なもの」への絶対的な信頼感を利用する手順が存在する。
 本来、聞いたこともない口座にお金を振り込むという、明らかに疑わしい行為を正当だと信じさせるためには、数々の「疑い」を順に消去していく手続きが必要不可欠である。信じる状態とは、疑いのない状態に他ならず、あなたは誰なの、本当に息子なの、なぜお金が必要なの、どうして今すぐ必要なの、といった全ての疑いをきれいに払拭し「あなたを信じる」的蒙昧に追いやらなければ、およそ詐欺は成功しないからである。
 ところが「おれおれ詐欺」は、「おれ、おれ」という最初の一言とそれに続く一連の身振りとによって、先に挙げたいくつかの「疑い」のうち最初の2つを「信じる/信じない」の文脈から削ぎ落とす。老夫婦の多くにとっては確かに、電話口でいきなり「おれ、おれ」と叫びながら助けを求めてくる相手は、せいぜい息子でならなければならなかったのであり、件の詐欺がうんざりするほど報道される以前には、このことはほとんどバス床の固さと同じ程度に蓋然性の高いことだったのである。
 電話口で最初に「私はあなたの息子です」と宣言する手法が詐欺の成功を恐ろしく困難にしてしまうことと対比させて考えれば、相手が「信じるかどうか」を判断する文脈を新しく作ることをできるだけ避け、バス床的なもの、「疑われることなく放置されているもの」にうやむやに乗じるのが、上手な詐欺のやり方と言えるのだろう。相手が偽りの前提を滑り込ませてくるならば、こちらも同様に「落ち着きなさい。こないだの30万も降ろして振り込むけど、いいね?」のように切り返してみるのもよろしかろう。

 唐突だが、ある風景を想像してみよう。
 デート中、やや高級なホテルで食事をするカップル。女性が食事を残してしまったために、いささか過剰に装飾された器に、相対的には異質とも言い切れない肉片が無造作に散乱している。まさに直前に「あなたを信じる」とそそのかされた相手の男性の心の奥には、女性が食事を美しい作法で食べなかったこと、食べきらなかったことに対する、さほど深刻ではない苛立ちがくすぶりはじめている。男性は「育ちのいい」家庭環境を過ごしたのだ。
 男性の不機嫌を嗅ぎ取った聡明な女性は、頭の中で言葉遊びを開始する。食事のマナーのことを非難したいのかしら。満腹であっても眼前の皿上に配置された食物は必ず胃壁の内側に移動させられなければならない、とする不自然で不健康な戦時的教育を守るように要請するのは、アフリカの恵まれない子供たちという陳腐な概念へのオマージュのつもりなの。それとも慎重なはずのあなたが、バス床と同じ構造で信仰してしまっている禍々しい風習に過ぎないの。「アフリカの猛獣」がフィクションでないと仮定するまでもなく、猛獣だってきっとおなかがいっぱいなら食べ残すに違いないのに。苦しい思いをしてこの残飯を平らげることが、腹部の肉の増加に加担し、私の女性としての美学的価値の低下を引き起こすことについてどうお考えです。もし「料理は中腰で食べる」というマナーがあったなら、あなたは社会問題になりつつある腰痛患者の急増を横目に、忌々しく顔をしかめながら、みすぼらしい格好で食事したかしら。病的なまでの持続的な愚劣のことを「伝統」とか「しきたり」と読み替えて喜ぶのは、しかるべき人たちだけで充分――。
 男性が、ついに口にされることのないこの女性の純粋な戯れを、それとなく看取でき、ただ「残す」という控えめな形で反対の意を表明した女性の俊敏さと謙虚さとを褒めてあげられるかどうかは、このカップルの知的素養に依存していると言ってよい。

 巧妙な詐欺師の言葉にも、人々の篤い信仰を一身に受けるバスの床にも、しゃがむことなく食べられる料理のあり方にも共通して見出すことができるものは、いったい何か。
 それは、おびただしく流通し続ける不自然としての自然の姿である。不気味であってしかるべき混沌とした何かが、「意味」や「制度」によって覆い尽くされ、それが私たちから違和感を拭い去るとき、すなわちすべての物事がバス床的に処理されるとき、私たちは恍惚とした盲目を体験する。
 もはやこのとき、「信じるべきかどうか」といった私たちの問いはほとんど無力である。信じるかどうかを選択できる時点で、その対象は私たちによって既に疑われていると言わざるを得ない。少なくともそれは「バス床的なもの」ではない。「私はこれを信じる」という形で信頼される占いや健康食品は、疑われつつも支持されているのであって、必ずしも常に盲目的とは言い難い側面がある。どちらかと言えば盲目はむしろ、それらを安易な「意味」を用いて――科学的に効果がないとか、お金がかかるとか――批判してみせるときのやり方の中にこそしばしば存在する。
 私は、取るに足りない「マナー」への人々の徹底的な無批判ぶりが、人間関係に余計な軋轢を生むという事実を、今ここで殊更に取り上げて糾弾してみせたいわけではない。バスの床の固さに対してさえも疑念を抱くような姿勢が、何かまるで知的なことであるかのように喧伝する連中の肩を持つつもりもなければ、「結局全ての判断は一種の信仰である」などといった「簡単な説明」を声高に叫ぶ輩の、言い尽くしがたい無残さを嘲笑したいのでもない。
 ただ、挿話の中に登場した架空の女性がそうしたように、スムーズに流れる意味の連続の中に、それと逆らうもの、わずかに調子の外れたもの、冗談めいたものを意図的に放り込んで違和感を強制的に作り出し、それらと繰り返し戯れることが、「信じるかどうか」の文脈を奪われつつあるバス床的なすべてのものに対する私たちの一つの態度となり得ることを、これといった目的もないまま書き記しておきたく思っただけに過ぎない。