
☆ニセ方丈記
流れゆく川の流れは決して絶えることはなくとも、元と同じ水ではない。流れの淀みに浮かぶ泡々も、現れたかと思うと、消え去ってゆき、長い間そこにとどまるものはない。
この世に存在する人もその住みかも、まったく同じことである。
コンクリートとアスファルトで地面をおおい、高層の集合住宅が高さと眺めを競い、あるいは豪壮な一戸建ての屋敷を高級住宅街に構える。
それほどの稼ぎのないものは、安普請の木造アパートに住むか、都心からは遠い不便の地に家を建てて、長距離・長時間の鉄道通勤で骨身を削る。
そうして一代限りの人生を全うすることが、浮き世の定めなのである。
生まれては死んでゆくこれらの人々は、どこからやってきて、どこへ去ってゆくのだろう。
仮初めのこの人生で、誰のために頭を悩ませることになり、何に喜びを見いだすのだろう。
住まいもそこに住む人も、やがて消え去る運命に翻弄される様子は、スマートフォンとその上で使われるアプリの関係と異ならない。
携帯は大切に使っていても、気に入っていたアプリはいつの間にか開発が止まり、時代遅れとなって、もはや使えない。あるいは同じアプリを使い続けていても、元々使っていた携帯は機種変更してしまって、すでに手元には残らない。
朝露が朝日に当たって消え、しぼんだ花が夕べを待つことなく落ちて しまうように、製品も家も、技術も人も、儚く消えてゆく運命にあるのだ。
この世に存在する人もその住みかも、まったく同じことである。
コンクリートとアスファルトで地面をおおい、高層の集合住宅が高さと眺めを競い、あるいは豪壮な一戸建ての屋敷を高級住宅街に構える。
それほどの稼ぎのないものは、安普請の木造アパートに住むか、都心からは遠い不便の地に家を建てて、長距離・長時間の鉄道通勤で骨身を削る。
そうして一代限りの人生を全うすることが、浮き世の定めなのである。
生まれては死んでゆくこれらの人々は、どこからやってきて、どこへ去ってゆくのだろう。
仮初めのこの人生で、誰のために頭を悩ませることになり、何に喜びを見いだすのだろう。
住まいもそこに住む人も、やがて消え去る運命に翻弄される様子は、スマートフォンとその上で使われるアプリの関係と異ならない。
携帯は大切に使っていても、気に入っていたアプリはいつの間にか開発が止まり、時代遅れとなって、もはや使えない。あるいは同じアプリを使い続けていても、元々使っていた携帯は機種変更してしまって、すでに手元には残らない。
朝露が朝日に当たって消え、しぼんだ花が夕べを待つことなく落ちて しまうように、製品も家も、技術も人も、儚く消えてゆく運命にあるのだ。
noteに前向きな詩を書きました。
前向きな詩を書きました。
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流れゆく力の果てにて迷えるは|随想詩|全文無料|としべえ2.0β @tosibee #note https://note.com/tosibuu/n/n363848a7760b
予備校時代の思い出
現役での受験を失敗して1年間予備校通いをしたときに知り合った女の子のことを、記事に書いてみようかと思い、少し書き出してみたのですが、いろいろな雑然とした思い出が浮かんでくるばかりで、なかなかまとまりそうにありません。
……というような途中経過をこちらにしるして、続きが書けるやら書けないやら、様子を見てみることにします。
……というような途中経過をこちらにしるして、続きが書けるやら書けないやら、様子を見てみることにします。
夜半のつぶやき
tedの講演でハリウッドの俳優さんが「注目を得ようとしたらダメ、注意力を上手に使ってフローの状態に入らないと」と言ってて、つくづく同感。
記事を書くときに「何とか注目を集めなくちゃ」という気持ちがあるのはよろしくない。
よろしくないのだけれど、それは現にある。
現にあるその「むさぼり」の気持ちをよく見てよく感じて、成仏させてあげたいのです。
そうして今この文章を書いているときのような、落ち着いた心の底から湧き上がってくるフローの流れを感じながら、いつも文章を書くことができたらなと思うのです。
noteに書きました→「麻雀と時代精神と「人間の多様性」の話」
記事を書きました。
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006 麻雀と時代精神と「人間の多様性」の話|としべえ2.0β
https://note.com/tosibuu/n/n7b32840e5654
noteに来た波に乗る
4月に入ってnoteに波がやってきて、エッセイやら小説やら5編書きました。
今日の5篇めは、エッセイと小説をからめ合わせた妙な作で、すでにnoteで感想もいただいていますが、読みにくいやら、わけ分からんやら、忌憚ないご意見いただければ幸いです。
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03 『11「spilt milk」さん』を巡る迷宮的思索、あるいは鮭でおっぱいの美味 [投げ銭歓 迎]|としべえ2.0β https://note.com/tosibuu/n/nb404323aad0b
横光利一と牧野信一
珍しく文学ネタです。
遠くなってしまった昭和の、戦前の作家・横光利一と牧野信一について。
久しぶりにはてなに記事を書きました。
お二方とも青空文庫でも読めますので、気が向いたらどうぞ。
[随想詩] 輝く懺悔の唄
目が醒めたら頭の中で、空がまばゆいほどに輝いていたんだ。
「きいいいぃぃぃーーーん」て耳鳴りみたいな音が、聴こえることあるだろ。澄み渡る冬の空を、ジェット機が一直線に雲を残して飛ぶときみたいにさ。
ベッドの中で体が、そのまま浮き上がっちまいそうなほど、軽くて、手足が自在に動くんだ。余計な緊張なんてまったくない、ヨガの達人になったかと思ったぜ。
けど、人生って難しいもんだな。
起き上がって気持ちよく、紅茶でも入れようと思ったら、缶の蓋を開けた手が滑って、茶葉を部屋中にぶちまけちまったんだ。
浮かれすぎていたのさ。
注意深さが足りなくて、輝く朝も台無しだ。
頭の奥に幕が降りて、一気に生きる希望が失せちまった。
大袈裟な話だと思うかい?
けどよ、人生なんて結局そんなもんだろ。
騙されて全財産を失おうが、津波で孤児になろうが、ホントは茶葉をその辺にぶちまけたのと、これっぽっちも違いはないのさ。
罰当たりなことを言ってるのは百も承知よ。
そのくらい訳の分からない感情のもつれが、心の奥底でとぐろを巻いているんだ。
百万匹の透明なヤマタノオロチが、冬の青空を埋め尽くして、ひっそりと暴れ回ってるってことよ。
乱暴なことを言ってすまんな。
許してほしいなんて思ってもいないさ。
こんなアンポンタンに、人様からの赦しなんて、似合うわけがないからな。
ぶちまけた紅茶の香りに包まれながら、ひざまずいて、両手を胸の前で組んで、天の神さまに祈るだけさ。
いつも人の神経を逆なでばかりしている、頭のネジが一本足りないこのウスノロ男に、どうか束の間の心の安らぎをお与えくださいってな。
体感としての理解
ふと思い出したこと。
ぼくは自分の感覚の大切な部分を物心がつく前に押し殺してしまった人間なもので、20年ほど前にきのこに出会ってその部分の感覚が開かれるまでは、「体感としての理解」の何たるかを知りませんでした。
そうしてこの10年ほどの瞑想の練習を通して、ようやく「体感としての理解」をシラフで垣間見ることができるようになってきたところというわけでして。
