小さな悟りを求めて -11ページ目

☆おのれのやるべきところとて

「長生きすればいいものではない。これは同感。
目を醒ますのも大変結構。
でも夢を見続けて一生を終えることも、否定するには当たらない。
そんな物思いを楽しみながら、夢とうつつの間をさまよっております」

人さまの文章を読んで、そんな戯れ心を書いてみたところ、
「とりあえず死ぬまではオノレのやりたいことをなるべくやるしかない」
とのお言葉を頂戴いたしました。

まったく人生というものは「なるべくしてなる」以外にどうこうしようのあるものではありませんから、その言葉を受けて、我が意を得たりと嬉しく思うと同時に「はてしかし、拙者のやりたいこととは一体何であったか」とどうにも間抜けな疑問が頭に浮かぶ阿法者がこのわたしでございます。

子どもの頃より三年寝たろうやものぐさ太郎のごとき物語が何故か気にかかり、「やるべきことをやらなかったために幸せになった男の話」でも書きたいものだとくだらぬ思いつきを持て遊んだこともあるような人間としては、うちの奥方から「あんたはしたいことはないのか」となじられるように聞かれるたびに、「そんなことを聞かれてもなあ、それに答えるほどの欲求は拙者にはござらぬものよ、とほほほほ」と胸のうちで思うしかなく、しかし、その奥方さまが丁度しばらくの間、少しく遠方にて瞑想の修練などたしなんでおりますその隙きに、鬼のいぬ間に何とやらで羽根を伸ばしきっての自堕落三昧、当方も瞑想の真似ごとの効きめもあらたかに、
「おお、そうだ、拙者のしたかったことと言えばこれこの通り、自堕落に文でも読み耽り、喉が渇けば茶でも淹れ、腹が減りなばパンでも齧り、あとは眠気のままに寝倒せば、それが至福のあんぽんたん」
とばかりに、遂に我が人生の宿年の課題に玄妙なる神託がくだったのでありました。

中里介山の大長編、やや剣豪小説的その実、滑稽譚かつ仏教因縁譚の「大菩薩峠」などを気の向くままに読み進めておるもので、おかしな調子に相成りましたが、頭の螺子が一本ゆるんでしまった世捨て人のたわ言として、以上、お聞き流していただけたならば幸いというお話でありました。

心象異匠

電子仕掛けの石板にそぞろ神が取り憑いて
脳内の神経回路に流れるプールを作り出す

昔々まだ恐竜たちが跋扈していた頃に
捨てちまった腕時計を思い出してみても
茫漠たる日々に変容は見い出せない

やがて来る明日という日になればぼくらは
懐からカッターナイフを取り出してちきちきちきと

夢まぼろしを刷り写した紙切れをという紙切れは
紙吹雪へと切り刻んでしまって
切り刻まれた魂の宙に飛び散る雲塊に包まれることになって

今もヒマラヤのてっぺんで凍えているのだ
幾多の宇宙線に貫かれながら
夢見る体で舞い踊りながら

そうして膨れ上がった胃の腑の重苦しさが
少しばかりでも落ち着いてくれることにでもなれば

石板はとろけ
腕時計は気化し
カッターナイフも燃え尽きて

きみの心は久遠の黒水晶となって
ぬばたまの輝きを放ち続けるのだ

年老いた赤子の世俗まみれの無垢を
両のまなこから泫然と溢れ流して

☆[随想詩] 自己充足と相互承認としての世界

数学の世界の初めに空集合があるように、宇宙の初めには無限小の一点があり、空集合がゼロから初めてイチ、ニ、サンと無限への階段を歩み続けるときに、宇宙は一挙に爆発して素粒子の踊りを始める。
渾沌の玄妙空無なる道(タオ)から生まれいでたぼくたちは、個別性を背負って旅に出た。
個体という容れ物の中に臓器と魂を収めて、やがて訪れる死という次の旅立ちのときまでを、浮き世で仮住まいをして過ごすのだ。
一つの命を携えてぼくらは、自分の欲求を充たすことからこの世での姿を形作ってゆく。
自分というものの存在に気づくころにはすでに、他者という鏡に映された我が身が、もともとの自分と区別できないほどに他者を自分の中に取り込んでしまっていて。
きみを認めることはきみに映し出されるぼくを認めること。
ぼくを認めることはぼくに映し出されるきみを認めること。
だからぼくは自分を充たすことで世界を充たし、互いに認め合うことでこの世界の残酷さも認める。
もしも地獄があるのだとすれば、この世界そのものが地獄に違いないと、あるとき思ってしまったので、地獄にしてはなんて素晴らしく、なんて生ぬるい世界なんだろうと思うことも多々あるのだけど、地獄と天国の重ね合わせとしてのこの世界は決してフラットな空間ではなくて、科学技術がフラットな領域を広げれば広げるほど、しわ寄せがシャープに際立ってゆく。
もちろん人間以前や人間以後の自然環境にだって、統計と確率に支配されて無意味な偶然と不条理な必然によって地獄はそこかしこに現れるのだから、それをこの世の条理としてそういうものだと受け留める以外に正しい態度は見つからないのだけれど、だけれど、と言ってぼくの中の三歳児は諦めきれずに駄々をこねるのです。
駄々などいくらこねても切りがないので、たとえ霧の中、前が見えなくてもダダとして、こねようもない無意識の記憶の残像をこね続け、言葉では届かないあなたの心の奥底に、届きようもない言葉のつぶてを投げ続け、辛丑(かのとうし)の立春の日、ガンガーのほとり、菩提樹の木陰で、滔々と流れる水縹(みはなだ)色の水面のあちこちに白波のちらちらと立つのを眺めながら、しゃがみ込んだ足に少しばかりの痺れを感じていたのです。

体と心の認識を分ける

「体が疲れている」という身体的状態と、「疲れていてしんどい」という心理的状態は、普通ほとんど同時に知覚されるので、別々の二つの状態として認識することが難しい。

けれども瞑想の練習を続ければ、やがてこの二つが別のものであることが、体験的に分かるようになるってくる。

そして、そうなるにしたがって気分に左右されることが徐々に少なくなっていく。

#今日の気づき

[随想詩] リトミックどデカダンス

心の波打ちを止める意識の特異点を身につけよ。

心の蔵の脈打ちを止める秘法を身につけよ。

存在の生滅のちらつきが消え去る彼方からの視点で世界を見よ。

ええつまり、そういうことなんです。
いつもそういうことだったんです。
なのに気づいたときには巻き込まれてしまってるんですよね。
だからこれからもやっぱりそれしかないのかな。
それはそれでいいと覚悟を決めればいいのかな。

ポカホンタスにぽかりと本でも足して。
レジスタンスなどとうの昔に投げ出して。
ノルウェイの森でダンス・ダンス・ダンスでも踊ることにして。

何しろ世界は数学的実存でありますから。
何しろ世界は共的唯心論でありますから。
何しろ世界は無意識的物語でしかありませんから。

公理的に人生を構築しても、
華厳的に宇宙を考察しても、
神話的に通貨を交換しても、
実存の虚しさがどうにもならなくて、
生存の愚かしさがどうにも滑稽で、
存外の豊穣性にどうにでも打ちのめされて。

恋とか愛とかそういうものに救いがあるかのような勘違いをしたこともありますし、幼稚園に入って母との関係性が壊れたものですから、肉体的な快感だけが慰めだった幸せな時期も経験しているのですけれども、だからといって性的・金銭的・権力的・自己承認的欲求の充足を否定するなんて、そんな大それたことを考えてるわけじゃありませんで、だってあなた、まだ新世紀が始まったばかりだというのに、こんなに末世的な状況が急展開するわけですから、目を見張って、目をぱちくりして、目を開けるのはもうやめちまって、ただただ心の底から驚きながら、まあしかし世界ってそういうもんだよなと一人ごちてるだけなんでございますよ、はい。

だからもう書物を開き、歴史を紐解く必要などどこにもないのだ。
それよりも、頭の中の万華鏡をこそむしろきちんと追いかけてみるがよい。
世界の中心から君の中心がどれだけずれてしまったかを確認することのろうがよほど先決なのだから。

そうしてくそでかい天竺の神へ捧ぐために謳い奏でる
腹の底まで圧倒されるほどの音量が重々しくも磁石の振動を引き起こす
電磁波の複素空間上を踊りまくって夜も明けて
その身をヘドニークな点描で埋め尽くし

ぼくは春の野の土筆んぼう
と化した黄色いお猿さんの
木星旅行の幻覚トリップを楽しんだ過去も忘れて
三歳児並みの今だけの虚存に多分
最期の解答が秘められているはずと信じることにするんだよ、
シミュレーションの連鎖反応
カリビュレーションの連続生起
ファイナライゼーションの練習継続
ニルヴァナイぜーションの連綿生滅

というわけで、
鴉の勝手に空元気を出すのだ、
おれは。

むしろアトミックどデカダンスで
その意識に終止符を打つ日でも夢見ることにして。

[facebook/noteより転載]

詩人・石原吉郎の「世界がほろびる日に」

メモとしてリブログ。
石原吉郎、破滅型アウトサイダー詩人とでも言うべき人か。
「世界がほろびる日に」は今の世相にもぴったり。


宮沢賢治「大菩薩峠の歌」

宮沢賢治が「大菩薩峠の歌」というのを作詞作曲していると知り、おもしろいなと思う。法華経つながりとのこと。

 

 

意識と宇宙の不思議

短い記事を書きました。 
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意識と宇宙の不思議|としべえ2.0β @tosibee #note 

☆意識の調律・呼吸の力

☆意識の調律・呼吸の力

ストレスのない生活はありえませんが、過大なストレスは不幸のもと。
ではストレスに圧倒されないためにはどうしたらいいか。

「気づいたら鼻から三回深呼吸」という川柳をしばらく前からお知らせしていますが、呼吸に注意を向ける方法が手軽で有効です。

朝晩と、ちょっとした空き時間に、鼻からゆっくり息を吸い、鼻からながーく息を吐いてみてください。これを三回繰り返すだけで、あなたの意識は軽くリセットされます。

全身の余分な緊張が取れて体が楽になり、頭の中のもやもやがすっと晴れるところを想像してみるのもよいでしょう。

調律されていないピアノで、素敵な名曲をいくら上手に弾いたとしても、美しい演奏は生まれてきません。

人間の意識も同じこと。運動をして体の調子を整えるだけでなく、意識の状態を調整することも、ストレスに圧倒されずに、落ち着いて振る舞えるようになるためには、まったく大切なことです。

呼吸は意識と無意識をつなぐ魔法の扉。
意識の調律のために、この年末年始、まずは三回の深呼吸から始めてみてはいかがでしょうか。

弱さも愚かさも受け留めて

自分の中に弱さや愚かさがあることは、自然なことであって恥ずかしいことではない。 

弱さも愚かさも隠さずに認めることができるようになれば、そうした影の要素は力を失い、やがて弱まっていく。 

そんなことを思いながら、ふた月近く続いた護摩の儀式の最終日の朝を過ごしています。
#今日の気づき