消えたいと思った。


考えること全てを悲観的に捉えてしまう。


いくら明るく考えようと思っても、僕のめぐり廻る思考を暗い何かが支配していて止まらない。


止めるためには、止めるしかない。


そんな考えに支配されていた。


ちょっと無理だ。

ブログに現状を残したいと思ったけれど、それも難しいくらい暗い何かにぐちゃぐちゃにされている。


カフェの席は端。

今日は外に出て気分転換をしようと思っていた。コーヒーでもすすり、静かに本を読む筈が、傍で話す社会人の出張がどうだとかという話が耳につき途切れてしまった。


そういえばあの子も、海外出張を前提に企業から内定をもらっていたっけ。


こんな状態でそんなことが思いついて、将来の宛のない不安に駆られた。


他人のことで病んでいる自分は相当だろうな。

わかってる。わかってるよ笑。

今だけは、全てを忘れてしまいたい。











だから生きるのは嫌だ。


独りで生きて、最低限の付き合いで人と接して、できることはできる限り自己完結させれば、多くが多く悩むことは無いのになぁ。


遺書に遺志だけ残して、他人の心を楽にさせられるだろうになぁ。


そんなことを考えても時間は流れているし、生命を司る身体は動く。


機械のように、1つスイッチで止める事が出来れば幾分楽だろうな。













どうすれば上手く死ねる?

どうすれば上手く生きれる?


誰か教えてくれ。









誰かに教わることしか出来ないのが憎くて仕方がないけれど。

 コーヒーのように苦い人生だ。


カフェでアイスコーヒーをすすりながらそんなことを思った。


でもそれは僕自身の甘さがそうさせているのだろう。


おともに頼んだクリームブリュレは、半分飲んだ頃には消えていた。


 過去の栄光に縋りたくはないが、過去という経験を無碍にしてはならない。


そんなことに気がついた頃にはもう事が過ぎていた。


人生を左右する出来事に失敗した僕は、かつてしていた努力というものを思い出した。


努力は言語と同じだと思った。

普段からして(使って)いないと頭の中にある要素は自然と消えていき、気がついた頃には思い出せなくなる。


一人暮らしの大学生活の中でやっと分かった1つの答え。

これが人生なんだろうなと思った。


そんな人生の中でする大学生活と一人暮らしとは、誰かからの支えが減っていく中で自我(ここではモチベーションとも言えようか)を保つことが出来るかという一種の修行であり、社会に出る前の実験でもあるのだろう。


そう感じたのは4年目が始まって少したった頃。


早いのかな?遅いのかな?

少なからず僕は遅いと思った。


人生はゲームだ。

攻略法を見つける為の試行錯誤。

"GAME OVER"はあれど ''CONTINUE?'' はない。


あまりにも理不尽じゃないか?


量は減れど、溶けても再び凍らせられる氷の方がマシな行き方してるよ。


 






 文字で表すのは至って簡単で、それを読んで心得たように思うのは朝飯前だ。

実感しないと君の中にそれは染みないから。


コーヒーの苦さが染みた頃に感じられる旨味のように。

薄すぎる。君じゃ僕の気持ちは上書き出来ない。

僕の悔しさはそんなんじゃ足りないの。


安寧に逃げた自分を否定し、挑戦に鼓舞する母親と、今も挑戦し続ける彼彼女。


何もかもが悔しかった。

自分はこうやって立ち止まることしかできないんだと思うと、情けなさと愚かさが僕を覆って、なにかに悩んでいたのが晴れたのに、また悩んでいる。


結局君に頼ることしか出来なかった。

混乱させてリセットさせて、また僕は走り出す、そのためのハイボール。


新たな道をを歩ませて欲しい、縋った君は薄すぎた。

















何よりも、親を失望させたことが情けなかった。

あてどなく、さまよっていた。


なににかというと、なにもかも。


覚めた焼饂飩のような人間関係を、酒のように狂った精神状態で流し込む。


宛所のような希望の光がいくつか差し込んでも、雲はそれを覆い隠すように広がり道筋をかき消す。


もしかしたら雲は、希望という不確かなものにすがらないようにしてくれているのかもしれない。

遠い空見ではなく、目の前の雲を見ろと。


けど今は、見たくないな。


消えたら楽になると思う自分と、消えたら終わりだと思う自分がいる。


ゆめゆめ消える覚悟などないのだ。

しにたいとか言ってるくせに。

夜の街、輝く街頭、人の声。


彩った蛍光灯がどこまでも続く風景。


少し路地に入ると、弾き語りをする若者、ただひたすらにお好み焼きを焼く屋台とオーナー。

そしてそれを求めて群がる人々。


そんな風景を脳裏で眺めて僕はこのブログを書いている。


あの日常に戻れるのはいつになるだろう。


もう一度あの輝夜の世界に飛び込みたい。


治安が悪いから荷物は最小限だ。


首にカメラを掛け、ポケットには1000円程度の小銭。

端からそうだが、格好はチープに。


明らかな余所者と思われたらそれが最後。


あたかもそこにさまよったかような旅人を装う。

まぁ実際そうなんだけど。


ナイトダイバー

夜の街をさまよう亡霊、僕は行く。


そんな景色を思い浮かべて

思いを馳せて

僕は書いている。

へたくそな文章だな。

目を開ける外が暗い。

スマホを確認すると20時にさしかかろうとしていた。


こんなことを16時くらいからずっと繰り返している。


ちなみに布団に入ったのは朝の9時半。


最近は少し病んでいる。

暇ができ始めてなにかに挑戦しようとする度壁にぶち当たる。

していることはいつも同じことでこれまで何度もぶち当たっている。

そういう時はただひたすらに体当たりしているだけなんだけれど、いざこうやって文章にしている時に限って思考は色んな方向から巡ってきて、じゃあネット検索でもなんでもすればいいじゃないかって言い出すんだぜ。

虫の良い奴だ。


はい。この話題解決。

次はどうなるかな。


真っ暗闇の中で毛布にくるまっていると、ずっとこのままでも許される気がした。


社会は刻一刻と前に進み、人々は身を粉にしてそれに貢献しようとしているというのに、僕は1日、朝までゲームして眠くなったら布団に包まり、目が覚めたと思いきやまだ眠たいなどとほざいてそこから離れない。


冬は寒いもんなぁ。温かさが心地よくていつまでもこうしていたいと温もりを続けていた。


次第に日は暮れ、そんな罪悪感も陽の光と共に薄れてきた。


もう24時間が経ってしまった。


空気が冷たい。

社会のはみ出しものを見る視線のようだ。

みんなすごいなぁ

こんな凍てつく中働いて、生きてる。


そんな事を思いながら腰をあげる気になってきたので僕は腰をあげることにした。


何をするかは決めていない。

中途半端について。

 

中途半端の何がいけない。

物事を途中で投げ出して何がいけない。

物事を途中までやってしまって何がいけない。

 

君がやりだしたことだから、そのことはついて回ってくる。

過去は忘れることができても消え去ることはない。

何だかんだの形になって残っている。

それが厄介。それがいけない。

 

残ったものは、後になってついてくる。

ああすればよかった。どうしてこうしなかったのか。

そんな念で潰されそうになる。

 

途中で止めるなんて、誰にもできない。

多くの人は、続きを求めるものである。

週刊少年誌、アニメ、ドラマだってそうだろう。

興味を引くように物語を終わらせる。

見ている誰しもが皆、続きを求める。

しかしそこにはいずれ結末という終わりがある。

 

同じことを物事に置き換えてはどうだろうか。

物事はそこで切ったらそこで終わりなのだ。

続きを求めても終わった物を、終わった時を戻してつなぎ直すことはできない。

求めてももう遅い。

続きを手に入れることはできないのだよ。

 

結局何が言いたい?

答えは一つ。

やるならやる。

やらないならやらない。

半分なんてない。

半分は一番質が悪い。

時間の無駄。労力の無駄。無駄な思考。

無駄無駄無駄!無駄でしかない!

 

今日僕がこれを書いたのはすべて親に成人式に行かされたからだ。

どうやらその日の夜に中学校のクラスで飲みに行ったらしいのだが、僕が中途半端に式に出てそれに行かなかったことによって後悔の念に押し潰されそうになっている。

 

きっと行かなければこんな後悔に押しつぶされることはなかっただろうな。

 

手に入りしは過去の憂鬱。

後悔から発展して「したかった」という欲望が僕の中にうずめいている。

不本意だけれどこれも中途半端な言動のせいだな。

 

中途半端はよくない。

酒に酔った大晦日。

おかげで何が書きたかったか完全に忘れてしまった。

 

そんなこんなで年は越え、ゴロゴロしていたら酔いも覚めてきた。

書きたいこともスマホを触っているうちに思い出してきて、今こうやってノートPCの前に座ってブログを書き始めた。

 

2020年を振り返る。

僕に新しい目標ができた。

それに向かて何かできないか模索して、結局ほとんどやらずじまい。

 

そう、僕は何もできていなかった。

 

もっと言ってしまえば、僕は自分を過信し過ぎていたのかもしれない。

自分はいざやればできるとか言って、やらずじまいのまま今は力を蓄えているみたいな言い逃れをしている感じ。

そんなだから、いざやろうとしてうまくいかず、結果もついてこない。

ハッキリ言って情けない。

 

2021年は僕にとって転機の年でありたい。

僕を取り囲むものから必要なものに手を伸ばしていけるようになりたい。

そして伸ばした手で確実につかむ。

 

誰かが何かを言ったとして、それが僕にとって不利益なものだとしても、そんなのはほっといて自分の道を確固として進める人間でありたい。

言わすだけ言わせとけ。

そいつはやらない。やるのは俺。

もう一回言う。やるのは俺だ俺の物語の主人公は俺なんだよ。

 

そうやってもっとぶれない軸を。確固たるものとして確立させて生きていけるようになりたい。

 

20代に入った自分は、10代のころのように理想を語るのではなく、現実を追いかける人間でありたい。

 

確固たる人になりたい。

こんにちは。

ここで言うのは始めてなのですが、僕には将来の目標があります。

今日はバイト先の先輩が劇団に所属しているという友人から紹介してもらったとのことで、劇団エンゲルスさんの「おーい ゴドー おーい」という作品を鑑賞させていただきました。

 

小さな劇場は初めてで、観客数もそこまで多くを想定されていなかったのか、座席は基本取り置きというか・・・事前予約しておく感じだったそうで、僕はとりあえず当日券みたいな感じで入ることができました。

 

いきなりの当券はびっくりですよね・・・

対応ありがとうございました。

 

ここからは内容について。

 

「ゴドーを待ちながら」自体見たことなかったので、家を出る前に家事をしながらYouTubeで少し動画を見たり概要を見たりしてから行きましたた。

 

内容も大まかにはよく似たいたのではないかと思います。

しかししっかりと見たのはこの作品が初めてなので、今回は見させてもらったこの作品を基に感想と考察を書こうと思います。

 

 

 

僕が思うに、僕たちはこれを見て何を思うかというのが重要だと思う。

待っている彼らはその使命と全うしながら日々を過ごす。

同じことの繰り返す日々に付け足しで起こる出来事。

彼らは行ってしまっても、またあそこに戻ってくるだろう。

 

期待して期待して持ちぼうけても、待ちぼうけているだけでは何も来ない。

その先は動いていないので、距離は広がりも縮まりもしない。

 

印象に残す。記憶に残すために軽く、そして人づてにマーキングをさせても、やはりその人本人が印象的だと感じなければ、次の日には、次あったときには忘れてしまうのだろう。

それが当然の結果かもしれない。

 

僕が覚えていて、あの人のいいなりの通りに待ちぼうけていても来ないのだ。

 

それは、「何事も人頼りにしないで自分の脚で動け」

 

そう伝えているのではないかと考察しました。

 

それを観た僕はおもったことを日常生活に当てはめることはできるか。

なかなか難しいと思います。

 

 

例えば待ちぼうけた結果に拾えてもらえたとする。

 

拾ってくれた人からそれを切られたとき、私は何ができる?

 

答えは明白。何もできない。

 

だから拾い主にすがってどんな立場、扱いでもそこにくっつこうとする。

自分でそこから去って新しい環境を探すことをしてこなかったから。

 

その例として、主演の2人の後に出てきたあの2人がいるのだろう。

 

そして最後には拾い主でさえもどうしようもなくなってしまった。

それでも拾われたものはすがり付いていた。

拾ったものは意味もなく扱いを続けていた。

 

ここでもやはり同じことが言えると思います。

結局は自分で動かないと何も起こらないのです。

 

この作品では他にももっと伝えたいことがあったと思いますが、僕にはこの発見と解釈しか見つけられませんでした。

創作演劇、「ゴドーを待ちながら」という作品を使っただからこそ深く考えることができる作品だったのでしょう。

 

それを考えさせてくれるような素晴らしい演技をされていた役者さんは本当に素晴らしかったです。

スタジオまでが少し遠かったですし、天気も良くなかったのですが、わざわざ脚を運んで観に行ったことはこの考察を踏まえてより一層いってよかったと感じています。

 

今後もこのような心向きで生きていきたいですね。

 

いずれは僕もああいう存在でありたい思っているのはココだけの話。