家内に認知症が進んで日々その格闘で疲れます。例えば前朝食パンをオープントースターで焼きますが家内はそれをデンシレンジで5分設定しますのでもうもう煙がたちます。切り餅でも2回やらかして2つしか残ってなく連続してやらかしたので食べられませんでした。認知症はカタチと名称が一致しないので目の前にあるものが見つかりません。うろうろするだけです。私が歩ければ問題ありませんが日に日に歩けなくなっていて身近なものも取れないのでやたら時間がかかります。その上両腕が麻痺になり動作がかったるくなって動作が面倒になっています。今日は5年ぶりで浄水器のカートリッジを取り換えようと2日前に到着して取り換えの実行にはいりましたが古いのが取り出せず工業高校の教師だった友人にSOSしたらすぐバイクで小雨の中来てくれ難なくとりはずせましらた。しかし本体は30年近く使っているので水漏れがします。あと馬鹿し馬鹿し2年も使えば老人ホームに入りますので多少水漏れがあっても使います。今のところ辛うじて一人で風呂にはいれます。ただ朝服を着るのが結構大変でズボンを着たまま寝ます。家内には1階のベッド寝るよう言われますだが8割は屋根裏で着のみ着のまま寝 ます。そのほうが安眠します。日中訪問看護師、リハビリ師、ヘルパー、配達人など来るのでにぎやかです。自分の城から特別老人ホームに移ったらどんなになるのかわかりませんがパソコンと携帯があれば社会と繋がりつ続けられると思います。フランス語でon verra bien. どうにかなるさ。
一つ星のホテルに38日泊って炊事はビデに1㎝のベニアを渡してその上にアルコールランプを置きそこで飯を炊きおかずを煮て外食はたった1回中華の店でチャーハンと餃子をとりました。ボーイは学生のアルバイトらしく2品注文すれば十分とOKしました。15フランでした。宿代が38,8フランでしたので久しぶりに食べた中華は美味しかった。そんな中アクシデントが起きました。家内がアルコールランプの石油が無くなったと思いアルコールを入れようとした途端絨毯にアルコールがこぼれ燃え広がり二重カーテンの薄い方に燃え広がった。幸い私が居たのでカーテンを引きちぎって大事に至りませんでした。こんなこともあってなんとか部屋を見つけてホテルを出たいと日に日につのりました。そんな中日本に手紙を出しに郵便局に行って列に並んだら50⒟多ぐらいの品のある人がいるので声をかけたら日本人でしかも銅版画家で版画の技法書で参考作品として載っている人です。早速仲良くなって彼女の友人の台湾留学生の友人がアメリカにアルバイトに近々いくから空くというので紹介してもらいました。パリ近郊のヌイイという高級住宅街にあってそこのご主人の書斎の隣にあって一部屋、台所、シャワーがありベッドもあって即決しました。パリ近郊でメトロで乗り換え無しでルーヴル、パレロワイヤルに行けるので便利です。そこに25日ばかり住んだある日ご主人が実はパリのど真ん中に家内が建物を持っていて一部屋空いているので見てみないかと誘いがあり彼の車で案内してくれました。薄暗い清潔と言えない環境でしたがご主人の隣でなく全く独立しているのと壁に釘を打っても何してもいいと言ってくれるので借りることにしましたあああああああああ。17世紀の建物といってました。どうもヒッピーのカップルが住んでいたらしく電気メーターや窓の縁にローソクをたててパーテイをやってたらしくロウーソクがたれていました。また銀の針金と安い石でネックレスやブレスレッドなど作って大道で売っていたらしくその材料が残っていました。犬も同居していたらしくものすごく蚤がいました。それを駆除するのに1ケ月ほどかかり日本からも旅行者に駆除剤をもってきてもらいました。わずか9畳ばかりの部屋に大きなダブルベッドがありしばらくしてそれを捨て新しいダブルのソファーベッドを買いました。部屋もすっきりしました。夏には部屋も白く塗り制作に向かって準備を進めました。私たちが住み始めた地区はマレー地区と言いパエリ20区の3と4区をマレー地区といい沼沢地という意味でセーヌが氾濫すると1階が水浸しになるのでそう呼ばれるようになったそうです。だから住むには湿気があり良くありませんがパリ発祥の地で今も中心でノートルダム寺院まで徒歩12分ぱり支庁舎まで5,6分、ポンピドーセンターまで5分、カルナバレ美術館まで5分、ピカソ美術館まで6分という便利なところです。ルーヴル美術館はちょっと遠く徒歩25分くらいです。映画館の多いカルチエラタンは徒歩20分で大抵歩いて映画館やカフェにいきます。そこには古本屋があって初代オーナーはガートルードスタインというアメリカ女性でジェームス。ジョイスの「セネガンズウイーク」をそこで出版しました。ジョージは二代目アメリカ人で旅行者を本屋の床に泊めていました。店の仕事をやると泊めました。私は紅茶を2回ほどご馳走になりました。今は娘の代になりすぐ隣にレストランも出しています。あれから55年たちパリも大きく変われいました。画廊、本屋、骨董店など無くなりました。
家内はそれまで17年間電電公社で電話交換手として働いていました。ところが交換という業務が自動化し交換手が要らなくなりました。それでその年の3月31日までに退職すれば正常の3倍の退職金が出ることになったわけです。あと3年働いて年金を確保するか今やめて3倍の退職金を渡仏に役立てるか考えましたがああ結局辞めることにしました。どのくらい出たのかわすれましたが。地元のデパートで158点の二人展をやって手取り100万弱当時お袋が持っていた土地を100坪売って買ったひとが小さな2階家を建て全部で100万円でできたと言っていたので100万円は半端な金ではありませんでした。出発前500万できたので現在の金で3,000万円はあったでしょう。ですから渡仏の準備としてはまあ悪くはなかったと思います。我々は現金で140万円を胴巻きに入れてあとは当時現金で500ドルしか持ち出せなかったので140万と500ドルで出発しました。1ケ月で渡仏を決定したわりには不安はほとんどありませんでした。最初横浜の小川港からソ連船で2泊してナホオトカに着き15時間夜行でハバロフスクにつき日本兵のシベリア抑留中に亡くなった墓地をお参りしプロペラ機で8時間かけてモスクワ到着そこに2泊し33時間かけてウイーン到着そこで15人ばかりのグループは解散各々の予定で北欧に向かうものデンマーク、オランダ方面またドイツやフランスに行く者など散っていきました。我々はウイーンが気に入り一泊しパリに向かいました。夜行の簡易寝台をとって翌朝パリの北駅に着きました。小さなカフェに入って早速カフェを頼みタバコは吸いませんがフランスコ語の実践とおして大衆のタバコゴロワーズをギャルソンに注文したらすぐ持ってきました。ついでにマッチ(アリュメート)をと言ったら持ってきてくれなんだ日本交通公社の6ケ国語で通じるんだとあまりの意外さに拍子抜けがしました。そこを出ると近くに大きな市場がありまずオレンジを3,4ケ買いチーズを2種カマンベールとヤギのチーズを買いました。ヤギのチーズは臭くて捨てました。しかしすぐ大好きになりました。出発のとき主にドイツから小型の工作機械を輸入している友人が日本からの荷物の送り先にエールフランスのシャンゼリゼの事務所に勤めている同じ歳の人を紹介してくれていたのでそこに電話したら1週間前に辞めたと同僚の日本人の返答でした。彼のアパートの電話を教えてくれました。その夜彼はカルチエラタンのホテルに日本から送った荷の書類を持ってきてくれました。彼はJALの航空代理店を開いたところでした。奥さんが何と会津の殿様のお嬢さんでした。彼はフランス人の御主人をを持つ日本女性と航空代理店を開いたのです。素敵な事務所です。そんなこんなでパリ生活が始まりました。