昨日急にポテトグラタンが食べたくなり家内にその旨言ったら彼女は作り方をすっかり忘れたというのでgoogleでしらべ家にはベーコンは普通おいてないので今朝必要なものを買いました。ホワイトソースをつくればあとはチーズをふりかけて250℃で焼けばいいので簡単です。年がら年中家内が食事、買い出しをやっているので今日こそは私がやってやろうとレシピを何回か読んで頭に入れ私は冷蔵庫やいろんな場所に脚を動かせないので家内に必要なものをテーブルに揃えてもらいあとは家内は玄関兼寝室で大相撲を見させました。一番大変だったのはジャガイモの皮むき指が動かないのと力が入らないことで大変でした。パソコンも右肩の付け根が痛くだんだんパソコン打つのも困難です。ノートパソコン両手で持ち上げるのがきついほどです。とにかくうなり声あげながら奮闘し何とか成功しました。5時ごろ大相撲を見ながらおいしく食べました。3割ほど残りましたが7時半ごろまた食べたくなり家内と感触しましたした。また作ってみたくなりました。料理しているとき5分以上立っていられないので普通の椅子では低すぎなのでカウンターの止まり木の椅子だとちょうどいい高さでそれに座って料理します。いろいろ考えて家内の労働を少なくし私のやる気を再開させるようにしています。もう1,2年と思っても死ぬ30分前まで眼光鋭く生き切りたいです。何回か書きましたが千利休の辞世の句は「人生わずか60年、えいなんじゃいな!」といったとか。明日はとりの唐揚げ、もうパソコンでレシピは用意してあります。

お袋は私が三歳のころから自分を主張して頑固だったと言いました。例えばスプーンでご飯やおかずを私の口へ入れるとき少しでも多いと「高い!」と言って絶対口にしなかったそうです。私の家は駅からちょうど4kmで街の繁華街に行くことはめったにありませんでした。しかしお袋はそうした活動的なところが好きでまた映画演劇が好きで気が滅入ることがあると私を背負って映画にいきました。私が今も覚えてるのは「女優松井須磨子の恋」という田中絹代が主演の作品でした。小学校上がる前でした。何しろ私が生まれる前父親が46歳で子供が6人のとき配偶者のお袋に一言も相談せずに僻地の小学校の校長を辞めました。当然一家はパニックです。三男は旧制中学校を2年で止め志賀県の予科練に入りました。そこは教育費も食費もただ小遣いまで支給されました。2年後おやじは東京の会社の寮の監督になって家を離れました。というのは次男は福島県で一番古い中学校を主席で通していて親はどうしても帝大に入れたいと念願しておやじが行動をおこしました。お袋はどれだけ心を痛めたか、後年夫を「卑怯者」と言っていました。しかし大恋愛の結婚で最後父親がッベーチェット病で3年入院した時は毎日見舞っていました。そして75歳で病院で亡くなりました。母親は百歳3ケ月で入院も薬も飲むことなく天寿を全うしました。私はお袋が42歳の時に生まれ57年付き合ってくれました。子孝行というべきでしょう。話がはいつものように横道に逸れました。街でにお袋おぶさっておもちゃ屋のウインドウで何か見見つけて欲しいと指の爪でお袋の後ろ首をカリカリ血がでるまでひっかいたそうです。当時家には金はありませんでした。お袋は寂しいから4㎞を歩いてにぎやかな雰囲気で気を紛らわせたのでしょう。そして映画館では現実を忘れて映画の世界に浸ったのでしょう。私のきょうだい兄3人、姉3人のうち画家の長姉と私が映画好きで私はパリの30年で2,000本以上見てます。月にすると3本です。姉は二十歳のころ日活のニューフェースに合格し3ケ月大部屋にいて1回セリフの無いシーンにでて止めて画家の道に入りました。パリに1年いたとき一緒によく行きました。私は子供のときはなかなか成長できずいつも2,3歳下の子の友達がいませんでした。家族はきょうだいというより孫みたいな存在でけんかする相手もいなく叔父叔母から小遣いもらうのは私だけ、家中何処に落書きしようと怒られたことはありません。長姉とはちょうど20歳違って私の名を「徹」とつけたのもこの姉で東京の音楽の友と同じ有名なシンフォニーという楽譜出版社の表紙の絵を描いて22,3歳のころ大学出よりも取っていました。その時社長の息子4で早稲田の学生で音楽をやっていて姉を好きだったと言うことで彼の名前をつけました。兄たちは健司、英司、敬司とみな司がつきます。私は自分の名前が気にいっています。

私が結婚し家内の絵の恩師が新制作の会員で私も新制作に出品することになり同じ県内在住の美校の同級生で新制作の会員のところに連れてってもらい紹介されたとき「奥さんの方が絵は上手だとのっけから言われました。心の中ではいい気分ではありませんでした。それから30年以上もたったある時「岩谷さんは頑固だから」とこの人が私にいいました。即私は言いました「パリでアジアの何もない資力も名もないアーチストが頭角をあらわすには頑固でないとやっていけませんよ」結婚当時彼は私がプロのアーチストになんぞなれっこないと思っていたのは明らかです。私の60年のアーチスト人生で学んだことはアーチストになるには才能は普通でよい、努力、持続、諦めないでそして高邁な目標を立てればプロ作家になれると思っています。浜口先生は「運、100パーセント!」が口癖でしたが運は大きいことは確かですが普通のプロ作家になるには努力と進歩の感覚が掴めればプロになれると思います。工芸家しかりです。私は人間にはみなすごい才能を秘めていると思います。生物しかりです。

今年は何とか熱中症を避けたいとエアコンも21℃に下げていましたが何か具合が悪いのでどうも熱中症なってしまったようで毎日気分が悪くまた膀胱から尿がでて人工膀胱に流れる

とき痛いというか気分が悪くなりとにかくずーっと気分が悪くすっかり食欲もない有様です。でも良くなった点もあります。毎日何回か両手のにぎにぎ運動で握力はかなり回復しています。あとはインスリンを完全に止めることができました。全く甘いものを食べたくなくなりました。そのせいか朝何とか7時ごろ起きて自分で服も着れます。これでむかむかがとれればなんとか7,8,9月を乗り切れます。今年は合計3ケ月入院しました。もうこれ以上入院はしたくありまえん。家内の足腰がいつまでもつか二人して老人ホームに入居するのはここ1年の問題と思っています。

話は変わりますが友人たちにパリ時代のことを話すと多くが本にしろと言ってくれました。そのたび本にしたって誰が買いますかと答えていました。しかしこの頃私の30年のパリでの経験は同じ時期パリに居た同業者と比べたら5倍くらい濃い特に人間関係を構築したのではと考えるようになりました。それで何とか金を工面してパリの30年だけの記録を残そうと決めました。大体書く人間は決まり入院中にまとめました。これから筆耕するわけです。私の話は面白いが文章にすると面白くなくなるかも知れませんが書いてみないことには始まりません。

今一番したいことはクルマで30分のところにある実にひなびた温泉の39℃の露天風呂で景色を見ながら1時間くらい入って熱中症を癒したいです。なかなか友人に付き合わせられないのでチャンスがありません。タクシーだと往復7,000円はかかります。今時このようなひなびた温泉、1日居て600円ですから。とにかく熱中症が軽くなることを願っています。