私は人生で20代後半に一度がけ自分に哭いたことがあります。直後哭いた弱さを恥じて以後60年近く映画で泣くことはあってもどんな難事に遭遇してもたったの一度も自分自身に対して哭いたことはありません。人生は絶対おたおたするものじゃなくそれに対峙し乗り越えることを楽しむくらいじゃないと負け犬になってしまいます。常に渦中から一歩外にいなければならないと思います。パリに居を定めて丸3年の元旦家内に元旦からお互いのアトリエで仕事を始めようと言ったのが相手は「元旦にお互いのアトリエで自殺し」と聞こえました。彼女が統合失調症に罹っているとは全く気がついていず朝の3時になってもかえらないのを全く不思議にも思わず私はベッドで本を読んでいました。彼女のアトリエは別の会談
Aの5階にあり当時私は午前3時まで仕事をしてましたから異常が起きるなんて想像もしていませんでした。ところが3時に帰ってきました。全身濡れて特に髪は濡れて光っていました。最初に発したのは「生きていて、よかった!」ベッドに寝せて近くの郵便局の公衆電話に駆け込んでルーシーと15歳年上の毎週あっている素人画家のアムセルに電話しました。彼はすぐ来て救急車を呼び私が便所で糞をしている間に病院に行ってしましました。まもなくルーシーがやってきました。少しいて勤めが終わってから来るといって帰りました。20メートルにある取引のあるギャラリーが開くのを待って行きました。事情を話すと消防署に問い合わせて病院が分かりました。ノートルダム寺院となりの大きな「Hotel Dieu]
という病院で割合元気でした。医師は筆洗オイルと溶き油のテレピン油を沢山飲んだので腎臓で分解できるか心配だったがクリアーして峠は越えたと言ってくれました。3週間後無事退院2ケ月郊外のリハビリの施設を紹介されましたが当時まだフランスの健康保険を取得してないのと家内は家で休むことを主張し行きませんでした。家に帰って2,3日4したとき3軒で使っている共同トイレの扉が常々きつく押して脇腹筋肉をひねり3日っぐらい揉んだり湿布したり大変でした。あとから扉をはずして摺らないよう調節しました。後に入院費の請求が来て何十万で日本に置いてきた金を送ってもらえば払えましたがルーシーが我々が住む4区の区役所の生活支援課のようなところに只にするよう掛け合ってくれ担当が我が家の生活の状況を見にきてOKが出て1フランも支払いませんでした。これがフランスの国に世話になった最初贈り物です。その15年後腎移植で円で13000,000すべて支払ってもらうことになります。フランスに脚を向けて寝れないと感謝は常に持っています。この事件を乗り越えてフランスに住む覚悟と何がきても何とか切り抜けていけるという自信ができました。家で休んでいたら知り合ってまだ1年くらいのカナダ人でエールフランスの事務系統に勤めている詩人から彼はパリから180㎞のベリー地方に大きな農家を買って別荘にしていて普通使ってないからいつまでいてもいいとofferがあり受けることにしました。そこにはカナダ人の友人で銅板画家の6,7歳若いフランス人とスペイン女性が家7を守っていました。カナダ人は私も銅板画家で一緒に滞在するのは退屈しなくていいと考えたことでしょう。すぐ仲良くなってパリに戻ってからも仲間になりました。残念ながら私の画廊をいくつか紹介してもあずかってもくれませんで薄っすら涙を浮かべていました。この二人10年以上暮らしましたがあるとき誰だったかのオープニングでばったり逢ったら若いドイツ人のすごい美人を紹介されました。もちろんスペイン女性は故郷に帰ったそうです。私には彼をそんなに魅力ある人間にはみえませんでした。その後彼に会うこともありませんでした。私がフランス製のプレスを買ったのが機縁でそのメーカーの弟が兄がプレスを売ると分解して運んで買い手のところで組み立てる手伝いをしていて私も知り合いました。彼は摺師でもありいろんな企画(詩画集、展示など)をして彼のアトリエはにぎやかでした。5年たったころはフランス人版画家では一目置かれるようになりました。そして金も少し残るようになりました。