最近ブログを書いて後で修正できなくなって不本意な文章になっています。姪も母親が入院し福島市からなかなかきてくれません。彼女にはケアーマネージャーとの相談はすべて老人ホームのことも任せてあります。

帰国して25年になりますがテレビで24年間はバク食いの番組に出会うと嫌悪感ですぐ切り替えました。しかしこの1年近くそんな番組に嫌悪を感じなくなりむすろ喜んで見るようになりました。それは多分この1年は家内がせっかく用意しても一箸も手を付けないことがあったり元気をすっかり失っていました。そんなときバク食いのバカ番組が結構元気づけてくれるのです。この頃は料理番組も興味があります。若い時のように焼肉などばかばか食べれたらなあと思い出しながら喜んで見ています。食欲を失うというのは生きる元気を失うことで昨夜テレビで小林旭がでていました。85歳なそうで肉を毎日沢山食べて筋トレをしてそれが元気の源なそうです。最近北島三郎は出なくなりました。同じくらいと思いますが。里見浩太朗も同じくらいですが元気です。私も歩けなく両腕の力が無くなりましたがこれから肉をできるだけ食べ運動器具の助けで体力を回復して最後の仕事、パリ30年の銅板画家としての自叙伝をを出版を実現したいと念願しています。

3,4日前日本橋蛎殻町にあるヤマサ醤油東京本店の一部を先生と奥さんの南桂子さんのミューゼになって25年以上になるそこの主任学芸員から部厚い封書が届きました。彼女は長らく先生最後のパリ時代の摺師を捜していました。当時先生は180年続いていたパリでもベスト3に入るアトリエルブランで刷らせていました。先生のパリ最後の摺師がなかなか見つからなかったというのはアトリエルブランが存在しなくなったということです。存在していたらすぐ消息は分かった筈です。フランスから引き揚げて25年パリの版画界もすっかり変貌したようです。一流画廊街のAv.マチニヨンも今はどうなっているのだろうか。かつて版画の画廊でにぎわっていたrue de Seineは私が居た頃すでに画廊が半分以下になっていました。

その先生の最後の摺師の一人は70歳で1973年に弟子としてルブランに入って1980年までいたそうです。私が自分のプレスで刷れない大作は1973年ごろまでルブ本店がランに居たタゼという名摺師の工房に頼んでいまして直接彼が先生の作品21点刷ったと言ってました。先生が1981年にアメリカでベスト5に入る本店がシスコにあるVorpal garalyと契約して移住したとき持参したのが最後期の傑作「西瓜」でした。それはカリフォルニヤ大賞を受賞され同時期シスコ市の鍵もおおいわゆる名誉市民になり土地の美大に寄付もされました。アメリカというのはすぐ才能を受け入れ大輪の花を咲かせてくれるようです。大リーグに世界から集まるのは一流には一流の待遇,すなわち大金を払うということです。この先生に一度も会ったことはありませんがカラーメゾチントを残し発展させるため情熱を燃やしています。はばかりながらメゾチント作家で私ほど先生のこと知ってる者はいないと思います。1978年だったか先生のご自宅で最初電話では15分とおっしゃったのが2時間になってその間桂子さは市場に夕食の材料を買いに出かけて帰ってきて我々がいてギョッとしました。その時先生は私の作品に器質的に似ているところを感じたきがします。以来半年に一度先生からお電話を頂くようになりました。この頃この主任学芸員も認識してくれるようになっています。これからカラーメゾチントをやる者が世の中から消えないためには経済的に応援しないとそれでは食べていけません。実際私も食べれませんでした。二人の姉が少し残してくれたので中断せずに78歳までメゾチントができました。先生は高く売れたので年間3作ちょっとで悠々といきられました。4版全部メゾチントでやったらたいへん時間がかかりメシは食えないでしょう。私は1971年に渡仏して腎移植で80日入院以外長期間制作を中断したことはありません。実にラッキーでした。それとパリのど真ん中にしかも17世紀の建物家主がその建物全部所有していて10ケ月家賃滞納しても御出されません。私も原版にメッキを発注できないときもありまた帰国して腎臓が悪化して帰仏できなくて家賃10ケ月滞納した時もおんだされませんでした。こういうところに34年いたからこそ50年メゾチントに沈潜できたと思います。今は歩くのと書く、描くことが困難ですが78歳まで現役だったことに感謝してます。また先生のミューゼの主任学芸員がこうしていろんなことを相談するようになって嬉しいです。年取ると忘れらることが案外一番怖いのかもしれません。これからも新しい心理上の経験に出会うことでしょう。

私は人生で20代後半に一度がけ自分に哭いたことがあります。直後哭いた弱さを恥じて以後60年近く映画で泣くことはあってもどんな難事に遭遇してもたったの一度も自分自身に対して哭いたことはありません。人生は絶対おたおたするものじゃなくそれに対峙し乗り越えることを楽しむくらいじゃないと負け犬になってしまいます。常に渦中から一歩外にいなければならないと思います。パリに居を定めて丸3年の元旦家内に元旦からお互いのアトリエで仕事を始めようと言ったのが相手は「元旦にお互いのアトリエで自殺し」と聞こえました。彼女が統合失調症に罹っているとは全く気がついていず朝の3時になってもかえらないのを全く不思議にも思わず私はベッドで本を読んでいました。彼女のアトリエは別の会談

Aの5階にあり当時私は午前3時まで仕事をしてましたから異常が起きるなんて想像もしていませんでした。ところが3時に帰ってきました。全身濡れて特に髪は濡れて光っていました。最初に発したのは「生きていて、よかった!」ベッドに寝せて近くの郵便局の公衆電話に駆け込んでルーシーと15歳年上の毎週あっている素人画家のアムセルに電話しました。彼はすぐ来て救急車を呼び私が便所で糞をしている間に病院に行ってしましました。まもなくルーシーがやってきました。少しいて勤めが終わってから来るといって帰りました。20メートルにある取引のあるギャラリーが開くのを待って行きました。事情を話すと消防署に問い合わせて病院が分かりました。ノートルダム寺院となりの大きな「Hotel Dieu]

という病院で割合元気でした。医師は筆洗オイルと溶き油のテレピン油を沢山飲んだので腎臓で分解できるか心配だったがクリアーして峠は越えたと言ってくれました。3週間後無事退院2ケ月郊外のリハビリの施設を紹介されましたが当時まだフランスの健康保険を取得してないのと家内は家で休むことを主張し行きませんでした。家に帰って2,3日4したとき3軒で使っている共同トイレの扉が常々きつく押して脇腹筋肉をひねり3日っぐらい揉んだり湿布したり大変でした。あとから扉をはずして摺らないよう調節しました。後に入院費の請求が来て何十万で日本に置いてきた金を送ってもらえば払えましたがルーシーが我々が住む4区の区役所の生活支援課のようなところに只にするよう掛け合ってくれ担当が我が家の生活の状況を見にきてOKが出て1フランも支払いませんでした。これがフランスの国に世話になった最初贈り物です。その15年後腎移植で円で13000,000すべて支払ってもらうことになります。フランスに脚を向けて寝れないと感謝は常に持っています。この事件を乗り越えてフランスに住む覚悟と何がきても何とか切り抜けていけるという自信ができました。家で休んでいたら知り合ってまだ1年くらいのカナダ人でエールフランスの事務系統に勤めている詩人から彼はパリから180㎞のベリー地方に大きな農家を買って別荘にしていて普通使ってないからいつまでいてもいいとofferがあり受けることにしました。そこにはカナダ人の友人で銅板画家の6,7歳若いフランス人とスペイン女性が家7を守っていました。カナダ人は私も銅板画家で一緒に滞在するのは退屈しなくていいと考えたことでしょう。すぐ仲良くなってパリに戻ってからも仲間になりました。残念ながら私の画廊をいくつか紹介してもあずかってもくれませんで薄っすら涙を浮かべていました。この二人10年以上暮らしましたがあるとき誰だったかのオープニングでばったり逢ったら若いドイツ人のすごい美人を紹介されました。もちろんスペイン女性は故郷に帰ったそうです。私には彼をそんなに魅力ある人間にはみえませんでした。その後彼に会うこともありませんでした。私がフランス製のプレスを買ったのが機縁でそのメーカーの弟が兄がプレスを売ると分解して運んで買い手のところで組み立てる手伝いをしていて私も知り合いました。彼は摺師でもありいろんな企画(詩画集、展示など)をして彼のアトリエはにぎやかでした。5年たったころはフランス人版画家では一目置かれるようになりました。そして金も少し残るようになりました。