3,4日前日本橋蛎殻町にあるヤマサ醤油東京本店の一部を先生と奥さんの南桂子さんのミューゼになって25年以上になるそこの主任学芸員から部厚い封書が届きました。彼女は長らく先生最後のパリ時代の摺師を捜していました。当時先生は180年続いていたパリでもベスト3に入るアトリエルブランで刷らせていました。先生のパリ最後の摺師がなかなか見つからなかったというのはアトリエルブランが存在しなくなったということです。存在していたらすぐ消息は分かった筈です。フランスから引き揚げて25年パリの版画界もすっかり変貌したようです。一流画廊街のAv.マチニヨンも今はどうなっているのだろうか。かつて版画の画廊でにぎわっていたrue de Seineは私が居た頃すでに画廊が半分以下になっていました。

その先生の最後の摺師の一人は70歳で1973年に弟子としてルブランに入って1980年までいたそうです。私が自分のプレスで刷れない大作は1973年ごろまでルブ本店がランに居たタゼという名摺師の工房に頼んでいまして直接彼が先生の作品21点刷ったと言ってました。先生が1981年にアメリカでベスト5に入る本店がシスコにあるVorpal garalyと契約して移住したとき持参したのが最後期の傑作「西瓜」でした。それはカリフォルニヤ大賞を受賞され同時期シスコ市の鍵もおおいわゆる名誉市民になり土地の美大に寄付もされました。アメリカというのはすぐ才能を受け入れ大輪の花を咲かせてくれるようです。大リーグに世界から集まるのは一流には一流の待遇,すなわち大金を払うということです。この先生に一度も会ったことはありませんがカラーメゾチントを残し発展させるため情熱を燃やしています。はばかりながらメゾチント作家で私ほど先生のこと知ってる者はいないと思います。1978年だったか先生のご自宅で最初電話では15分とおっしゃったのが2時間になってその間桂子さは市場に夕食の材料を買いに出かけて帰ってきて我々がいてギョッとしました。その時先生は私の作品に器質的に似ているところを感じたきがします。以来半年に一度先生からお電話を頂くようになりました。この頃この主任学芸員も認識してくれるようになっています。これからカラーメゾチントをやる者が世の中から消えないためには経済的に応援しないとそれでは食べていけません。実際私も食べれませんでした。二人の姉が少し残してくれたので中断せずに78歳までメゾチントができました。先生は高く売れたので年間3作ちょっとで悠々といきられました。4版全部メゾチントでやったらたいへん時間がかかりメシは食えないでしょう。私は1971年に渡仏して腎移植で80日入院以外長期間制作を中断したことはありません。実にラッキーでした。それとパリのど真ん中にしかも17世紀の建物家主がその建物全部所有していて10ケ月家賃滞納しても御出されません。私も原版にメッキを発注できないときもありまた帰国して腎臓が悪化して帰仏できなくて家賃10ケ月滞納した時もおんだされませんでした。こういうところに34年いたからこそ50年メゾチントに沈潜できたと思います。今は歩くのと書く、描くことが困難ですが78歳まで現役だったことに感謝してます。また先生のミューゼの主任学芸員がこうしていろんなことを相談するようになって嬉しいです。年取ると忘れらることが案外一番怖いのかもしれません。これからも新しい心理上の経験に出会うことでしょう。