一つ星のホテルに38日泊って炊事はビデに1㎝のベニアを渡してその上にアルコールランプを置きそこで飯を炊きおかずを煮て外食はたった1回中華の店でチャーハンと餃子をとりました。ボーイは学生のアルバイトらしく2品注文すれば十分とOKしました。15フランでした。宿代が38,8フランでしたので久しぶりに食べた中華は美味しかった。そんな中アクシデントが起きました。家内がアルコールランプの石油が無くなったと思いアルコールを入れようとした途端絨毯にアルコールがこぼれ燃え広がり二重カーテンの薄い方に燃え広がった。幸い私が居たのでカーテンを引きちぎって大事に至りませんでした。こんなこともあってなんとか部屋を見つけてホテルを出たいと日に日につのりました。そんな中日本に手紙を出しに郵便局に行って列に並んだら50⒟多ぐらいの品のある人がいるので声をかけたら日本人でしかも銅版画家で版画の技法書で参考作品として載っている人です。早速仲良くなって彼女の友人の台湾留学生の友人がアメリカにアルバイトに近々いくから空くというので紹介してもらいました。パリ近郊のヌイイという高級住宅街にあってそこのご主人の書斎の隣にあって一部屋、台所、シャワーがありベッドもあって即決しました。パリ近郊でメトロで乗り換え無しでルーヴル、パレロワイヤルに行けるので便利です。そこに25日ばかり住んだある日ご主人が実はパリのど真ん中に家内が建物を持っていて一部屋空いているので見てみないかと誘いがあり彼の車で案内してくれました。薄暗い清潔と言えない環境でしたがご主人の隣でなく全く独立しているのと壁に釘を打っても何してもいいと言ってくれるので借りることにしましたあああああああああ。17世紀の建物といってました。どうもヒッピーのカップルが住んでいたらしく電気メーターや窓の縁にローソクをたててパーテイをやってたらしくロウーソクがたれていました。また銀の針金と安い石でネックレスやブレスレッドなど作って大道で売っていたらしくその材料が残っていました。犬も同居していたらしくものすごく蚤がいました。それを駆除するのに1ケ月ほどかかり日本からも旅行者に駆除剤をもってきてもらいました。わずか9畳ばかりの部屋に大きなダブルベッドがありしばらくしてそれを捨て新しいダブルのソファーベッドを買いました。部屋もすっきりしました。夏には部屋も白く塗り制作に向かって準備を進めました。私たちが住み始めた地区はマレー地区と言いパエリ20区の3と4区をマレー地区といい沼沢地という意味でセーヌが氾濫すると1階が水浸しになるのでそう呼ばれるようになったそうです。だから住むには湿気があり良くありませんがパリ発祥の地で今も中心でノートルダム寺院まで徒歩12分ぱり支庁舎まで5,6分、ポンピドーセンターまで5分、カルナバレ美術館まで5分、ピカソ美術館まで6分という便利なところです。ルーヴル美術館はちょっと遠く徒歩25分くらいです。映画館の多いカルチエラタンは徒歩20分で大抵歩いて映画館やカフェにいきます。そこには古本屋があって初代オーナーはガートルードスタインというアメリカ女性でジェームス。ジョイスの「セネガンズウイーク」をそこで出版しました。ジョージは二代目アメリカ人で旅行者を本屋の床に泊めていました。店の仕事をやると泊めました。私は紅茶を2回ほどご馳走になりました。今は娘の代になりすぐ隣にレストランも出しています。あれから55年たちパリも大きく変われいました。画廊、本屋、骨董店など無くなりました。