日本は、敗戦国です。勝てば官軍、負けたら賊軍です。
私たちが、小学校、中学校の頃、戦地に行った経験のある先生
は、フィリッピンで、空腹に耐えられず、ねずみを捕まえて食べ
たことがある、などというような話をしてくれることもありました。
そういう話は、子供の私たちにとって、日常性を逸脱している
分、面白く、普通の授業より、興味をもって、真剣に聞いていた
ような記憶があります。
授業中に先生が脱線して、武勇伝というような話を聞くのは、
楽しかったのですが、そういう話は戦争美化につながるという
のでしょうか、実際は、あまり、聴いたことがなく、「日本人は
アジアで罪を犯した」というようなイメージの教育が施こされて
きたような感じです。
そこまではないにしても、日本がした「いいことの話」は禁句だ
ったのでしょう。私が大学に入る頃は、多くの学生が左寄りの
考えをしていたし、学生運動の絶頂期でした。左寄りのほうが
インテリだ、知識人だという風潮がありました。そうでなくても、
日和見といって、見かけは、左寄りのことをいい、内面では、
無関心層が多かったと思います。
あまり、保守的なことを言うと、時代遅れとか、軍国主義とか、
帝国主義だとか言われかねないので、本当は保守的な考え
の人でも、「言わぬが花」となっていたのです。
その後、運よく、経済の高度成長の方に目が向き、一斉を風靡
した私の愛したコメディアンの植木等の「無責任男」のように、
そんなことはどうでもいいということで、たちまちのうちに、日本
は経済大国第二位のところまでいきました。イケイケムードの
日本でした。
ところが、経済成長が止まると、国家として、大事なものをない
がしろにしてきたことのツケが、最近になって、やっと、感じられ
るようになりました。安部元首相が、「戦後レジームからの脱却」
と言われていましたが、これもつかの間でした。今や、完全に
逆戻りですね。マスコミが元安部首相叩きにをやっきになって
いたのはわけがあります。安部元首相の信条、指針は、マスコ
ミがやってきたこと、言ってきたことの逆さまで、都合の悪いお方
だったのです。
私も、ご多聞にもれず、「連合軍は正しい、悪いことをしたのは
日本軍」というアメリカ占領軍指導の戦後教育で洗脳された
一人だったと思います。どちらかと言えば、保守の学生応援団
に所属していた私でさえ、学生当時、学生デモに参加したこと
があるくらいです。積極的にデモに加わったわけではなく、不和
雷同だったのでしょう。
ところが、約39年前の1972年、伊藤忠商事の語学研修生として、
ジャカルタのインドネシア人家庭に下宿するようになって、それ
まで知らされてきた事情と、実態は、かなり、様相が違うことが
分かりました。
日本軍の軍政監部で、通訳をやっていたというご主人とその奥
さんが、ダンボールにはいっている日本の国語の本や兵隊さん
にもらったという浴衣など思い出のものを見せる時の顔を見る
と懐かしさに、涙をこぼしそうになるのです。「回れ、回れ、風車」
と国語の一節を朗読したり、「真白き富士の高嶺より、心の強い
盾となり、、、」と私も知らない戦時中の歌を、なつかしそうに、
奥さんが唄うのです。これは戦時における女性の歌です。
「前へならい」「休め」なども、日本人は教えてくれた、という
のです。そんな当たり前のようなことを感謝されて、戸惑うの
はこちらですよね。そして、「オランダ人は、その間、なんにも
教えてくれなかった」と続くのです。
ここでの生活は1年間でしたが、何度となく、同じような話をお聞
きしました。よほど、当時のことが懐かしかったのでしょう。
ジャワ島一周の貧乏旅行をした時も、行く先々で、大歓迎され
ました。学校出たての青二才の私に対して、狭いバスの中で、
席を作ってくれるのです。私の横に座りなさい、というわけです。
スラバヤからマランへ行く車中で、「見よ東海の空明けて、、、」
という日本軍歌を、なんと、インドネシア語で唄ってくれた中年
の男性がいました。
そして、「私の先生は、戦後、すぐに日本に帰った」というので、
学校の先生かと思ったら、そうではなく、自分の「人生の師匠」
というのです。そういう意味で、先生と言ったのですね。
「厳しかったが、やさしかった」「たくさんのことを教えてもらった」
というのです。
*今、鳥元でも、従業員が嫌がることも言っています。でも、
愛があれば大丈夫と思って言っているのは、その人の言葉
が支えになっています。私がいなくなったからでも、「あの人
はよかった」と、あとで、思ってもらえばいいのです。
その後、数年、アジアの国々を回りましたが、反日教育を進め
てきた国以外のアジア諸国では、概ね、親日で、私の方が、
勘狂うほどでした。
「あれれれ、ちょっとちょっと」「なにか変?」という感じでしたね。
ベトナムのサイゴン(今のホーチミン)にも、繊維素材の売り込
みで、何度も行きました。遠くで米軍の空爆の音が聞こえてい
ました。そこでも、サイゴンの方々には、本当によくしていただ
きました。
「日本はアジア侵略などしていない」「有色人種を人間扱い
しない欧米諸国の植民地主義と戦った」と主張して、自衛隊
の元空軍陸幕長を首になった田母神敏雄さんの講演
http://www.youtube.com/watch?v=xvt4ALz8VDQ
を聴いてみてください。冗談気味に、自分のことを危険人物を
名乗る方ですが、立派な保守の論客です。
私の体験した実話とつながる部分があります。
私も、当時、生きて、現場を見たわけではないので、本当
のことは知りません。だから、この講演の内容を100%盲信
することもありません。ここは大事です。私は裏づけのない
ものは信用しません。
しかし、少なくとも、私が、小中学校、高校、大学で、知らさ
れてきた面とは別の面が多いことは間違いありません。
田母神さんの講演にあるように、私の母校九大の開校に、
少し遅れて、京城帝国大学、台北帝国大学が出来たことな
ど、まったく知りませんでした。今まで、旧帝国大学は現在
の7大学とばかり思っていたのですが、一時は、9大学あっ
たのですね。こんなことは誰も話ませんから、知る由もあり
ません。まさか、田母神さんが作り話をしているわけじゃな
いでしょうよ。
日本政府は、韓国と台湾に、国立大学まで作ったのです。
自国を守るのも精一杯の時代に、すごい出費だったと思い
ます。今、日本が国も企業もいっしょになり、世界の隅々で、
農業や工業の技術指導をしたり、留学生を日本に招き入れ、
国際貢献をしょうとしている姿とダブってみえます。
元々、日本人とは昔からそういう国民なんだと思います。
「富は分かち与えよう」、「一人占めは止めよう」というのが
古来の日本文化なんでしょう。東日本大震災が起こった時
のことを思い起こせば、その文化が今でも生きづいている
ことは明らかです。
鳥元ジャカルタ、鳥元バンドンを設計した一級建築士の楠
さんは、以前、パパヤニューギニアに、長期間、学校建設
のため、滞在したことがあったそうです。「ラバウル小唄」
で、有名で海軍のラバウル基地があったところです。
「日本が勝っていたら、何十年も、白人に搾取されずにす
んだのに」と愚痴を言い、「若い日本の海軍兵は、村の若い
女性に指一本触れなかった」と、その村の村長さんは、日
本海軍の規律正しさを、いつも賞讃していたとのことです。
どの国の軍隊がそこまでキチンとやれますか?
最近の戦争でも、とんでもないことをやっている軍はたくさ
んあります。あの人権尊重を声高に叫ぶアメリカの兵隊で
さえ、アフガニスタンの多くのタリバン兵を射殺し、土に埋め
る前に、小便をかける映像が、ネットで流出しています。
つい最近のことです。 「死人に鞭」よりひどい話です。
いずれにしても、日本人に関する美談は、戦後ずっと、一切、
封じ込められてきたのです。日本のマスコミや教育界も、も
ともと、GHQにより、反戦の旗印の下、左傾化した人たちで
固められていたので、それが、今日でも尾を引いているのが
現状なんでしょう。
「発つ鳥、あとを濁さず」の諺どおり、シンガポールの日本兵
は、敗戦を聞くと、一斉に町に出て、清掃を始め、それを見た
のちのリーカンユー大統領が、「日本は必ず、立ち直る」と
予言し、それから「日本を見習え」と言って、LOOK EAST
政策を推し進めてきた話も、最近、色あせてきました。
マスコミがそういう話は取り上げないし、取り上げても、紙面
の端っこで、お付き合い程度に、取り上げるだけです。
その兵隊さんたちは、敗戦の悔しさを胸におさめ、「お世話に
なりました」「迷惑もかけました」という思いで、ほうきを手にし
て、町を清掃していたのでしょう。
これ以上言うと、私は、日本愛国党の危険人物だと言われ
そうですから、止めときます。(笑い)
日本を好きなことは間違いないですね。だって、私は日本
人ですから。
でも、私は、決して、好戦派の右翼などではありません。
多分、戦争が起これば、一番先に逃げますよ。(笑い)
念のため、言っておきます。私は、ごく普通の左右バランス
のとれた団塊世代のオジンと自覚しています。
逆に、私が右がかって見える人は、よほど、左がかっている
ということになりますね。(ここで、また、笑い!はいどうぞ)
いやあ、こんなことまで、わざわざ言わないと誤解されるか
もしれないと心配になるほど、日本は珍しい国なんですね。
「自分の国を愛している」、と堂々と言えない、または、言い
にくい国など、世界にないですね。戦後教育の悪い面が出
ているのです。