信長一人称
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「桶狭間の合戦まで」 第二十二部
余の傍に、岩室が馬を寄せた。余と岩室は馬を並行させて歩かせた。
「殿!」
「…、…」
余は何も言わずに岩室を見た。あまり良い表情に見えなかった。
(次は何が起きたのじゃ…?)
「今しがた、塩焚き人夫の話を聞きつけたのですが、もう間もなく雨が来るそうです」
「?…、何、…、あめ? 雲さえ見当たらない上に、夕立にしては早すぎる。そもそも、いくら暑さが続いているとはいえ、夏でもあるまいに…」
「いや!」佐久間が口を挟んだ。「岩室の言う通りです。塩焚き人夫は正しい。間違っていません。これは来る。雨が来る。しかも、これまでにないほどの強烈な豪雨です! この湿った嫌な風は、確かに…」
佐久間は顔を上げて、それまで、暗く、淀んだ様な目に、光を取り戻したような、希望に満ちた目でこちらを見つめた。
「殿、これは、危険です。雨ならば、益々、戦がしにくいです。今川軍とて、同じこと。わざわざ危険に身を寄せて、戦いに挑んでこようとは思えません。しかも、桶狭間は湿地であります。足場が悪く、動き辛い上に、豪雨とくれば、視界が悪い事でしょう。いつの世も戦は晴天の日に限ります。今日は一旦引き返して、また、戦日和の好天を待ち、その日に臨みましょう」
「…、…」
「さぁっ! 殿」
佐久間の眼は凛々と輝いている。引き返す為の口実を並べる為に思考が、創造的に、全開で機能している。
「さぁっ! 殿っ。さぁっ! 善は急げ、です。早く戻らねば、我々も濡れ鼠ですぞ。また、武具を乾かすのに一苦労ですぞ」
余は、
(この男、政務においても、戦においても、常に、このくらい積極的であってくれれば良いのになぁ)
と佐久間に対してあきれてしまった。
余は、もう、佐久間の目も見ずに答えた。
「いや!」
「…、…。へっ…、…?」
余の返答に佐久間は驚いた様で、馬を止めた。佐久間以外の馬はそのまま行軍を続けた。「いやっ! 此処は…、此処こそは打って出るべし!」
ぽつりっ!
いつの間にやら、余の真上の青空は消えていた。もう、重そうで、鼠色の雲に、空の端から端までが覆われていた。その鼠色を、更に覆い隠す様に東からも西からも、あちらからも、こちらからも、全方位から、それこそ地からも沸いてくるかの如く、しかも、猛烈な速さで、ごう、と地鳴りまで轟かせんばかりの雲が余の真上に寄せ集められてくる。止まることなく、次から次へと、まだまだ、暗雲が、夜を創り出すのではないかと疑うほどである。驚きや恐怖を超えて、美しくさえ見えた。見事であった。
「今こそ時よぉ~っ! 皆、いざ、行かん!」余は馬を急かせた。「陣を一旦、下げようと考えるのは、敵も同じこと。道理でいけば、当然、そうするであろう。しかし、正直、今だから、本音を言おう。まともに行ったら、この戦い、…、…負ける! しかし、この雨を見方につければ勝機はある。油断を曝け出している大群が、更にこの豪雨に打たれている、その、今を衝くべし! 今なら行ける! 神が見方についている! 神が雨を降らしてくれている! 神が背中についていてくれる! 神が背中を後押ししてくれている!」
余は更に、馬を急がせた。鞭を入れた。
「いや!」先までの己の発言を否定した。己の間違いを指摘し、皆に正しき教えを与えた。「さっき、熱田で見ていただろうぅ! …、…、神が見方なのではない! 余が神なのだ!」
余はそう言い放って、桶狭間へ猛進した。
暗雲の集結は完成したようだ。
ぽつり、…。
ぽつり、ぽつり…。
ぽつり、ぽつり、ぽつり…。
ぽた、…。
ぽた、ぽた、…。
ぽた、ぽた、ぽた…。
…、…。
ざぁぁぁ~…、…。
ごぉぉぉ~。ごごぉぉぉ~。ごごごぉぉぉ~。
激甚なる雨が投下された。
我が愛しき信長精鋭隊は、一丸、桶狭間を目指して、駆け降りた。
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