信長一人称
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第二章 「桶狭間の合戦まで…」
余はすべての事において、恵まれていたのである。
たとえば血筋に関してもそうであろう。
公家や、その筋の名門、今川の様に、つまりは公家の子分の様な、いわゆるいい所の血筋でなかった事が、余にしてみれば幸運だったのであろう。
間違って、その様な名門の出として生まれていたのであれば、余は、今のように、全てを欲する事を望みはしなかったであろう。
おそらくは蹴鞠や鷹狩りだけをして、一日をやり過ごし、何事もなかったかのように、消えていったであろう。
ところが、余は、ありがたくも、尾張という小国に生を受けた。しかも、とても名家とは呼べないものである。
代を辿れば、織田氏は、越前の織田庄の出自である。下四郡の守護代・織田大和守の分家筋でしかなかった。
越前の守護である足利幕府の管領家の一つである斯波氏の領国である尾張に織田家の一族が移り住み、尾張の守護代を務めるようになったのである。その点は、この日記にも後に記述いたす朝倉義景と似ている。そして、朝倉に対して、一度、嫌悪感を抱いてからは、全てが腹立たしく思え、似ている事でさえも、怒りの一部となり、結果、その怒りの一部と一部が組みあって、憎悪の塊となった。
余は、祖父・信貞の築いた勝幡城に生まれ、その後、父・信秀と那古野城に移り、余も、尾張で威を張るようになってからは、尾張の守護代が代々、清州城を居城としていた事に、余もならい、しばらくは清州城にいた。桶狭間の合戦の後には、それでは物足りなさと、その後の上積みを考え、小牧城や岐阜城などを転々とし、最後に安土城へと辿りついた。
安土城の出来栄えには、満足である。
余にふさわしく、煌びやかである。さすがのフロイスもこれには息を呑んでいた。好きなように書にしたためて、国へ報告するがよい、と余は胸を張った。
祖父、信貞も勝ち気であったが、父、信秀もかなりのものであった。
先代、先先代、共に、己よりも強く、己よりもでかい者に挑むのを好みとしているかのようで、また、敵といえる者、己以外の者が大概、己より強く、己よりでかい者であったから、そうするより仕方ない時代でもあった。だから、そうやって生きていたのであろう。
そこに、余の母である土田御前が掛け合わされ、余が、余として誕生したのである。
母・土田御前は短気で、気難しい事で有名で、そればかりがもてはやされてしまうほどに、実にそればかりの人間であった。その土田御前の血が、好みはしないが、いたしかたなく、余には、濃厚に、受け継がれている。しかし、これが、神になりえる資格と資質であったのだろう、と今は思える。
父・信秀が戦好きで、城を留守にしている事が多かった。だから、余と接する機会が少なかった。母・土田御前は余の弟・信勝を溺愛し、余を野放しにしたまま、信勝と末森城に住んだ。そういった、父と母の愛を受けなかった、父と母と触れ合いを持たなかった、だから、悪ぶれて、やさぐれて、手に負えない、{おおうつけ}になったのであろう、と何もわかっていないくせに、分かった面をしている、周りの大人ぶった、それこそ余から言わせれば{おおうつけ}共が、余を酷評した。
しかれども、実態はそう言ったところではなかった。
家康などは、二歳で母と生き別れになり、六歳で人質に出されている。不幸で不運な幼少期に思える。その点で余の幼少期と何やら接点がなくはない。しかし、出来上がった人間像は余の真逆である。
それは、それで良かった。
だから、余とうまくやっていけるのである。
だから、余とうまく吊り合うのである。
そして、余の場合、桶狭間の合戦当時に今川義元が、余の事を虫けら程度にしか思っていない油断をもったように、余は周りから{おおうつけ}と思われれば、思われるほど、後の余のためには、追い風となった。
父・信秀が往生した後、家督を余が引き受けた。この時は多くの大人ぶった、余から言わせる所の{おおうつけ}が織田家の危機を感じた。
しかし、余の正室・濃姫の父である、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三と同じく、人を見る目をもった父・信秀は、余の{おおうつけ}と見せかける暴れ振りを、他の、大人ぶった{おおうつけ}の様に嫌うどころか、頼もしくさえ思う様に見てくれていたのであろう。
大人ぶった{おおうつけ}の代表格は柴田勝家である。
今では、その当時の、その件を、笑いながら、懐かしむ事が出来る。
余も、当時の勝家の状況であれば、同じく、余が織田家の家督を引き継ぐ事を認めず、余の弟・信勝に家督を取らせるために、働いたことであろう。
勝家が余に牙を向けた事は、短絡視すれば、罪である。
しかし、武功は武功である。
その場では、勝家の眼には、余が本当の{おおうつけに}に映っていたのであれば、勝家には人を見る目が無かったのであろう。しかし、今となれば、勝家も、大人ぶっているわけではなく、真に大人で、真に武将であるから、見る目が養われている。
もしくは、勝家は、弟・信勝を担ぐ事を大義名分に利用しただけで、織田家を乗っ取ろうという意図があったかもしれぬ。が、今は昔である。
弘治二年の事であった。
余の領地を余の弟・信勝が略奪した。
それが稲生の合戦のきっかけであった。
余の幼馴染であった織田信安が、余にちょっかいを出してきたり、山口親子の裏切りがあったり、と余の身辺がざわついていた。
そんなおり、信勝が手を出してきた。ちょっとした兄弟喧嘩である。
「子供の喧嘩に大人が口を出すな」
という事があるが、この稲生の合戦は、それとは反対に、大人が子供に喧嘩をするように仕掛けた。
余の父・信秀に元々仕えていた、柴田勝家らが、余の家督相続に異議を唱え、信勝を担ぎあげたのである。
信勝は無理やり、兄である余に喧嘩をするように誘導させられたのである。
信勝は千七百の兵で立ち向かってきた。
余は七百の兵で応戦した。
信勝陣は勝家をはじめ、林など、昔からの織田家重臣が家臣をそのまま引きずりこんでいたので、余の陣よりも多勢になるのは当然であった。
対する、余は兵を動員する、というよりは、幼き頃からの友人や、城下町で一緒に悪さをした仲間や、悪友、子分、そう言った面子をひきつれているといった感じであった。
しかし、それらの顔ぶれを知っておきながら、いくら誘導された、無理強いさせられた戦であるとしても、挑んできた信勝は度胸がある。さすが、微塵ではあろうが、余と血を分けただけはある、と言いたいが、本心は相当に及び腰であったであろう。
余はすぐに興奮する気質に見られがちであるが、確かにその一面もあるが、戦に関しては軽挙妄動に狂犬の如くに、只、吠えまくっているわけではない。
余の中で、それなりの段階を超えて、経路を辿り、答えに導いている。
余は他の並の武将とは違う。
内政と外政を生業としている。その為の手段として戦を行っている。戦で解決できぬ場合は他の手段を決行する。暗殺もあれば、話しあいもある。強引にねじ伏せることもあれば、猫なで声であまく騙すこともある。
余の民のためである。神である余が民の為に執り行っている。他の下等な武将どもが遊び呆けていたり、恐れて逃げているだけだったり、とそう言った事はしない。常に、四六時中、何かしらの策を考え、練り、揉んでいる。
だから、すぐに有事に対応できるのである。他の武将は事が起きてから、もしくは事を起こす為に思考を開始するが、余の場合はそうではない。いつも、思考圏内の中心にその事を置いている。その為に、素早く反応が出来るのである。そして、思考圏内の中心がその事であるからには、他の武将共が戯けた事を考えている時でも、余だけは常にその事を探究している。常にその事を計算している、という事は、それだけ、計算量が多いという事である。気が短く、急騰して、突貫しているのではなく、閃きが鋭いのである。電光石火なのである。
閃きとはつまり、それまでの経験と知識の賜物である。その場しのぎや軽はずみや思いつきとは違う。きっかけとなるものが、最後の一押しとなり、最終結論に導くための繋ぎ目となり、答えを編み出してくれる。そして、閃きが生まれるのである。
無知で無学な者に閃きは宿らない。
研鑽と経験が閃きを生むのである。
余が機に望んで才気煥発できるのはそこなのである。
とはいえ、余にも若気の至りに似た部分もあった。それが、今の余の閃きの為の肥やしになってもいるので、無駄ではない。それどころか、良い経験になった、と前向きに思える。
つづき
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