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桶狭間の合戦まで 第二部

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「桶狭間の合戦まで」 第二部



なぜ、若い時には無謀な動きをとってしまうかは、それはよい閃きに流れを持って行けない蒙昧で経験不足である事、なおかつ、軍事力、及び、軍費が乏しいため、理想の体系を組めなかった、ということもある。また、ここで粗野な例として今川義元をあげるが、戦に素養のないものが大軍を持ってしまうと、それだけで勝てる、と錯覚してしまい、大群を使う事だけで満足してしまう。それ以上に策を練ろう、という所に行きあたらない。されど、体力も資金も未熟であれば、窮地に追い込まれていればいるほど、悪あがきをして、もがき苦しんで、思案する。そして、鼠が猫を咬むのである。

若いうちはそうするしかない。

若いうちはそれで良いのである。

若いうちは余もそうしてきた。

そんな、余には大きな後ろ盾となる、斎藤道三がいた。だから、尚の事、恐れるものなく、何事にも挑んでいけた。

余を一角の者と見抜く道三を称賛できる。

その道三の娘と余を政略結婚させた、余の父・信秀の眼にも称揚する。

しかし、道三の死後、道三の愚鈍息子・義龍が、余の幼馴染である織田信安をそそのかし、侵攻してきた。ほぼ同時期に鳴海城の山口親子も寝返り、余は痛い目を見せられた。

この山口の父・教継は、余の父・信秀の代から織田家に仕えていた。しかも、父・信秀の片腕として、小豆坂の戦いなどは特に、他でも多方面で、なかなかの仕事を見せていた、と聞く。中でも、一時は、父・信秀と、今川義元を和睦させた事もあるらしい。

が、しかし、そもそも、そこが怪しまれるところでもある。くせ者である。もう、その頃から、今川と繋がっていたのであろう。日和見主義なのである。しまいには、今川が絶対有利、と見るや否や、あからさまな造反で、調略や攻撃を仕掛けてきた。

その赤塚合戦も、余の弟・信勝との稲生の合戦も、余の初陣の吉良大浜合戦も、萱津合戦も、余が二十七になるまでの、桶狭間の合戦を含む、それ以前の戦いはすべて、頭数において余が不利な体勢で、余は戦に挑んだ。

危険であった。

今、また、それをやれ、と言われると、出来ないであろう。

当時は、当時で、また、己を神である、もしくは神になる、と信じきれていたから、突撃出来たのであろう。迷いはなくはないが、迷いを捨てようとする気持ちの方が勝っていて、結果、迷いを隠せていたのであろう。経験がない分、知識がない分、思いきれたのである。知恵と先見に乏しかったが、体力があった。

そして、更に、余には人望と人脈があった。

余の人望の作り方は体を張る事であった。

自らが大将である形をまずは作り上げる。

それは、強引にでも作り上げてしまう。口喧嘩でも、殴り合いでも。最後まで引かない事である。譲らないことである。自分が勝つまで勝負を終わらせなければ、喧嘩は負けない。囲碁や将棋や戦は、そうはいかないが、子供の喧嘩なら、諦めない方が勝つのである。

そうやって何人かをねじ伏せて、仲間を増やし、手下をつけ、子分にし、子分が子分を作り、舎弟が舎弟を作り、鼠溝式に規模が拡大して、陣が隊になり、隊が軍になった。

余は親玉として、城下町でのさばった。父・信秀の息子である事を傘にはせずに、腕っ節で、城下町の悪共を、実力で束ねた。

それが、余の人脈作りであった。

余は、幼小の頃より、既に人脈作りに着手していたのである。

そして、その人脈を拡げる為に、隣町、そのまた隣町へと、喧嘩をしに、殴り込みに、東奔西走した。

そう言った時にこそ、人望作りの好機であった。

自らが先頭に立って、体を張って、率先して、敵陣に乗り込むのである。それを見て、配下の者達が、我も我も、と忠誠心を惜しげもなく見せてくれるようになる。

これは、父・信秀の背中を見て、学んだ。

人脈作りに、父・信秀の名を利用しなかったが、人望作りには、父・信秀の手段を大いに参考にした。

人脈作りと人望作りは繋がっているのである。共に、連鎖して、共存しているのである。両者がうまくかみ合って、絡まりあって、両者が拡がり、育っていくのである。

余が、そうやって手中に収めた宝なる人脈を使って、余の弟・信勝と喧嘩をしたのが、稲生の合戦である。

余の勢は七百。

余に対抗する、信勝勢は千七百。

所謂、下克上であるのに、本筋である余の方が、勢力が低いという形であった。それもそのはずである。{おおうつけ}の余の見方をするのは、普通の考えであれば理解が不能である。だが、昔からの、幼馴染や、先にも記した、子分たち、子分の子分たち、手下ら、手下の手下ら、舎弟共、舎弟の舎弟共を掻き集めてなんとか、なるか…、…、百や二百は揃うか…、…? と思案に苦しんでいたが、思いのほかに、七百という数が、各々、自ら、余の元に集まってくれた。こちらから、願うまでもなく、かわいい子分・手下・舎弟がわらわらと群がってくれた。しかも、それらは皆、喧嘩慣れしていて、喧嘩っ早くて、喧嘩好きで、世人から見れば、手に負えない、といった奴らばかりである。つまりは、類が類を呼ぶ、という事である。余の周りには余に似た奴ばかりが集まったのである。そして、それらは、集まれば集まるほど、益々、似てくるのである。

対する、信勝勢は、常識人の大人、もしくは老いぼれの家老がなんとか結束の体を保ち、手の空いている若者を寄せ集めただけに過ぎない。そんな者をいくら束にして、千七百集めたところで、余の、意識の高い朋輩を打ち取ろうなんて事は出来ない。

結果、余は、いとも簡単に、安々と、弟・信勝を退けた。

信勝には、謝罪と忠誠を誓わせることで領国を安定させた。

しかし、悲しい事に、信勝は、その後にも謀反を起こした。二度目は許されることがなく、自害に追いやった。この二度目の謀反は、当時、信勝の家臣・柴田勝家が密告をしてくれたおかげで、未然に防げた。この事で、余は弟を失ったが、勝家という、家臣を手に入れられた事は大きかった。

当時、勝家は余の敵であったが、余の味方として、森の親父がいた。これは非常に心強かった。

森の親父は勝家よりも以前から、尾張に仕えていた者である。

余が人望と人脈で獲得した尾張の町の、百戦錬磨の、海千山千の、面子七百を一束ねにしたものと、森の親父一人とを天秤にのせ、比べてみれば、同等な位に、この存在の心強さはあった。

余が、尾張の町の猛者七百を仕切れたのも、土台は、この森の親父の賜物である。

余の、幼き頃の悪さは森の親父に仕込まれたのである。森の親父あっての余なのである。

幼き日の余は、おおうつけと呼ばれるに不釣り合いな、公家まがいの上品な顔で、しかも、尾張の中ではある程度に名の通った信秀の倅という事もあり、町のおなご共にもてはやされた。同じくらいの歳のおなごは遠慮と恐れであまり近寄ろうとはしなかったが、その分、年上の女には滅法もてた。そういった手解きも森の親父は忘れることなく、面白がって、余に施した。

森の親父に、お礼として、余が、森の親父の子らに悪さを仕込んだ。

この、森の親父は、名を森可成という。森長可や蘭丸の父である。

長可も蘭丸も、親父の血をしっかり受け継ぎ、立派に育っておる。



勝家の密告の他にも、この頃、もう一つ、密告を受け、余は助かった。

当時、尾張で実権を握っていたのは、信友であった。

信友は、他の、代々の尾張を仕切る者がそうするように清州城を居とした。それを気に入らなく思っていた、余の父・信秀が位としては、信友よりも下であるが、度々、信友に対して手を出していた。だが、父・信秀は、死を前にして、信友と和睦した。

和睦後に、父・信秀が亡くなり、余が家督を継いだ。その折、山口親子が小賢しい事をして、勝家にそそのかされた信勝が動き、そこに便乗して、信友も余を責め立てた。

三つ共、乗り越えたのだが、内、二つはぶり返した。

信勝は二度目の謀反を起こし、信友は余の暗殺を企てた。この暗殺は斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門から、密告を受け、事前の対応をとる事が出来た。

この密告の流れも、余の若き、悪を演じていた頃の繋がりである。密告者の簗田弥次右衛門は、当時の余の良き子分であった。

信勝にしろ、信友にしろ、甘さを見せられた者は図に乗る、という事を教えてくれたようである。



もともと、余と信勝はあまり馬が合わなかった。余が、嫡男であろうと、もし、信勝が余の兄であったとして、余が、信勝の弟だったとしても、いずれ、余が天下を取るのであるから、結果は同じく、余が信勝にとどめを刺していた事であろう。この戦国時代の、乱世の中では、兄弟も、親子も、同盟も、信じられない。運命が何もかもを決めている。



まだ、そんな、一国として、基盤の固まっていなかった尾張に今川義元が攻め入ってきた。

余にしてみれば、なにもこんな時に来ることはないだろう、と思えたが、隣国にしてみれば、傍近に、いとも簡単に手に入る馳走があるのであるから、時機を得た、というものである。これもまた、戦国の世の習わしである。角逐が常であり、鬩ぎ合いであり、弱肉強食である。優勝劣負の非常な世界である。





狙い通り、幼き頃より、織田家の勢力以上に余のうつけ加減は京にまで響こうとしていた。まずまずの満足だった。

 だから、初陣も派手なものにしたかった。

 そこに、打って付の上物が目の前にぶら下げられた。

 今川だ。

 今川とは、先々代から続く、争いを持っている。常に今川が上で、織田が下であった。



 今思えば、小さな事だが、当時にしては、なかなかの大仕事であった。織田家にとっては今川に関わる事は全てが一大事であった。

 だからこそ、余にはおいしき獲物に見えた。

 ここで、今川に痛手を加えることが出来れば、煮え湯を飲ませることが出来れば、なんと愉快痛快なことであろうか。想像しただけで、腹が捩れんばかりに余は楽しくなった。

 誰もが負け戦(いくさ)と憚るところを突き進み、逆転して見せる。いや、余に言わせれば、逆転ではない。緻密な策略による、勝ち戦である。最後に勝ち人になる者が、勝ちを確信した、勝つ為の戦である。

 あの初陣は、振り返って見れば、今の余の持ちえる戦略と、持ち積もらせた経験を織り交ぜて、計算をすると無謀な面も、たしかに、無い事はない。ただ、血気盛んな当時は、己の勝ちしか見えていなかった。己の勝ちがもたらしてくれる価値、それ以外は信じられなかった。それで良かったのだろう。それが良かったのだろう。我武者羅に出しゃばって、はしゃいで、勝ちを強引に捥ぎ取った。

 敵陣に入り込み、火を放ち、大火の海に溺れさせた。

 余がした事は、ただ、火を放っただけである。後は小競り合いをニつ、三つ、からかい半分に演じただけである。

 たったそれだけだが、国に帰った時には、大きな喝采で迎え入れてもらえた。



 それから十三年がたった。




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