信長日記
前回を見る ←クリック
「信長日記」
織田信長
第一章 「桶狭間」
事が順調に進んでいた。
全てが策略通りである。
今川本陣は油断をこちらに見せつけている。
大将の義元は酔っているかのようである。これで大高城を陥れ、丸根砦、鷲津砦もおとした。その度に御唄を披露している。もう、御唄が三番目である。悔しいが、作戦上仕方ない。大将義元を油断させ、隊全体を骨なしにするには、これが最善にして、唯一の策であった。
大将がそんな、ていたらくであるから、家臣も一緒になって、調子に乗っている。まるで阿呆だ。こうはなりたくない。
東海一の弓取り、と恐れられたのは昔の話で、腹には肥大した肉が垂れて幾重にも重なっている様である。あれが、牛や、豚であればいかなることか。馬であれば使い物にならんと、殺されているであろうし、人であっても、余であれば、まずもって、殺してしまう。至って、殺す事は確実なのであるが、あ奴を殺す価値があるのかと、疑うほどである。
そして、今まで、あ奴如きに苦しめられていたのであるかと思うと情けなくなってくる。
太守としての風格も威厳も、成りに全く滲み出るところがない。京被れした、風態は、間の抜けた自惚れにしか映っておらず、挙動が怪しくさえ見受けられる。
これならば、今ならば、この、過去に怪物と恐れられていた、今川義元を討てる!
確信を持てた。
「ゆけぇ~っ!!!」
余は、突撃、の合図を出した。
今こそ、佳境だ。
最初に飛び込んだのは一番槍の小平太である。
続いて、新助も追随した。それに負けじと犬千代も鬼畜の如くに喚きながらの突進である。
頼もしい。
余も家臣の前でいい格好がしたくなってきた。抑えきれぬ衝動のままに草むらを飛び出し、前に、前にと猛進してみせた。
余の後に、愛しき精鋭が連なった。中でも優秀な者は余を追い抜き、前へ、更に、前へ、一歩でも前へと進む。
もう、この様な入り乱れた争いの中では勢いを持った方が断然優勢になる。
この場でも、まだ、今川勢の方が頭数で勝るにしても、それでも、余に軍配が向けられている。
敵衆は混乱に動揺して、あたふたとしている者がほとんどである。内乱と勘違いをしている者もいるようである。そして、ほとんどの者が兜や甲冑をはずし、雨宿りの為に、大木の下で休息をとっていたのである。とても、戦闘態勢に入れる状態ではない。
一方、こちらは殺気立ち、闘志をみなぎらせている。
寄せ集めのへっぴり腰集団とはわけが違う。
こんな時の為に、普段から、塩分をたっぷり採らせ、塩っからい物をふんだんに、惜しみなく食させていた。あえて、攻撃的な性格を作らせんがための、余の策は食にまで、密に練り込まれているのである。尾張の味噌は塩辛いのである。
京料理の様な、はんなりと上品な味ばかりを、好んで、毎日、そんなおしとやかな物ばかりを口に運んでいる様では、男の根まで腐りきってしまう。
そこにきて、我が愛しき精鋭は、短気で、喧嘩っぱやくて、歯止めが利かない。若さと、意気の良さが身上である。狂暴である。我が精鋭は寿命の短さと引き換えに気の短さを会得している。この乱世に兵であるからには長生きは無用。どうせ、いつまで生きていられるか分からないし、いつ殺されてもおかしくない。殺されるのを待つよりも、殺されないように、殺そうと思う位でちょうどいい。臆病であるよりも血気盛んなぐらいでないといかん。特に若いうちは。そうでもしないと国は守れん。ましてや、国を広げんと思うなら、死に物狂いで、死なせるまでじゃ。
…、余の精鋭たちは、それを理解している…。
高貴で優雅を処世訓としている、公族まがいの義元には分かるまい。
「各々、今が攻め時よぉ~。今こそが力の見せ時よぉ~」
「おぉ~」
御大将、義元はようやく気付き始めたようである。紫に塗られた輿が、今川勢の旗本から構成されている人垣の向こうに、ムクリ、と持ち上げられて、上八分目以上を見せた。
おそらく、そこに、義元が担がれているはずである、
「輿だぁ~! あの、紫の輿を狙えェ~。あの輿に、義元がのっているはずだぁ~」
「おぉォォォ~」
義元は自らがここにいる、と宣言しているかの如くに、紫の、敢えて目につく、興しに揺られている。
我が織田軍がここに攻め入る事をまるで警戒していなかったのであろう。
「義元の首だけでいい!」
むしろ、
「義元の、首! だけがいい!」
戦前から、それだけは皆に言い聞かせておいた。そして、ここでも、それを連呼した。
我が精鋭は狙いを定めた。
「雑魚はよい。そんな者、どうでもよい。構うな、目もくれるな。狙うは義元の首のみぞぉ~」
一点集中である。
小蠅の如き煩い敵兵を払いよけた。こ奴らに刀をさし向けるのさえ煩わしい。こ奴らを斬りつけたところで、一つの利も生み出さぬ。ましてや、刃が欠けるだけ損である。いざ、余が、義元の面前に対峙した時に、刃が毀れていては、気持ちよく義元の首を落とせまい。切れ味も、切り口も、いま一つでは、せっかくの勝ちに、華も咲ききれぬだろう。義元も余にきられる名誉を気持ちよく受け入れられぬであろう。だから、小蠅どもは蹴るか殴るか打つだけである。
しかし、こ奴ら、今川勢の小蠅どもは軟弱すぎる。気合いの面でもそうであるし、技術面でもそうである。まるで、お話しにならん。想像通り、今川領地の農民や商人まで駆り出されているのであろう。頭数の確保のためだけに、駆り出された、寄せ集め集団なのであろう。…、…可哀想な話である。それが、内政というものか…、…。駿河が世に知らしめんとする、内政というものか…、…。
雨は激しいままである。
余の精鋭たちは突き進む。
余もそれに引っ張られる様に、前にでる。
幾つもの屍が転がっている。それらを、飛び越し、ときにはそれさえも面倒で、踏みつけて前進した。雨に濡れ、泥が跳ね、刀と槍が散乱している。この様子、一流の戦場として、見劣りがしない感がある。
後世に残る一戦、と言ってもいいものかもしれない。
清州に残った家老共、年寄りが、さぞや悔しく思う事だろう。林や佐久間の歯ぎしりする顔が目に浮かぶ。
もう、義元の姿が見えてもいいころであろう。
随分と中心まで来た事であろう。
「どこじゃぁ~。義元はぁ~。義元は、どこじゃぁ~」
余に多くの小蠅どもが一斉に群がった。こちら側が義元のみを狙う様に、敵方はやはり余の首が欲しいのであろう。この混乱の中で逃げずに、余に立ちはだかろうとするだけ見上げたものよ。
(少しは相手をしてやろうか)
とも、思ったが、よくよく見れば目がおびえている。やはり、ずぶの素人である。かたぎである。逃げずに立ち向かって来ているのではない。逃げ遅れて、立ち向かわざるをえないだけなのである。
やはり、小蠅どもは、蹴散らすだけにした。
(さぁ、早く消えろ。消えてくれ。余は忙しいのじゃ。頼むから、失せてくれ。余に、もっと大きな仕事をさせてくれ)
小蠅どもを追い払い、前に進んだ。
そして、前に進めた。
小蠅どもは瞬く間に飛んでいく。
散り散りになって消えていく。
どんどん、どんどん、飛んでいく。次から、次へと、消えていく。しかし、それでもまだまだ、蠅はいる。さすがは、三万とも四万とも言われている今川軍だ。数の評価だけは一級だ。
そこに、一人、現れた。
余の前を憚った。
「邪魔じゃ。どけ」
男はどこうとはしなかった。それもそうだろう、はじめから殺気立てていた者が、どけと言われて、「はい」と、どく訳がなかろう。他の蠅と違って線が太い様であるし、目にも底が入って感じられる。
「糞田舎侍が。図に乗るな! 成敗してくれる!」
そう言われて、余は頭に血が上った。
こいつは殺したくなった。他の小蠅どもと違って、こいつは八つ裂きにして、切り刻んでくれよう、と思った。
男が、声を上げながら、長い槍を振り上げて突進してきた。余は構えた。男が長い槍を振り下ろそうとした時、横から、飛び交う鳥の影の如き速さで、余の前を横切った一閃があった。刹那、長い槍を持った男は、余の前で倒れていた。やってくれたのは、森であった。
「殿、怪我はありませぬな」
「あぁ。無事だ」
「殿は手を出すまでもありませぬ。どうぞ、前にお進みくだされ。若者どもを鼓舞してくだされば、それで良いかと思います」
「かたじけない。おぬしも頑張るなぁ」
「はぁつ。まだまだ、頑張りまするぞ。それに、また、子供が出来ました。ますます、頑張らねば。殿から、たっぷりと報酬をいただかなければ」
「ふッ。相変わらずだ」
余と森は小蠅を追い払いながら、前に進みながら、話を続けた。森のおかげで、逆上していた気持ちを落ちつかせることが出来た。
「おぬしはなかなかの子だくさんよのぉ」
「はい。頑張っております」
「おぬしは子供が好きなのであろう」
「はい。子供が好きでありますし、おなごが好きであります」
「ふっ。相変わらずだ」
「はい。すべて、殿の為、と思い、励んでおります」
「よし。この戦、生きてかえって、おぬしの子供らをすべて余に預けよ。悪い様には致さぬ」
「はい。ありがたきお言葉。また、一つ、頑張ってまいります」
そう言って、森は、余よりも一足も二足も先に、前へ、前へと進んで、道を開いてくれた。
と、その時、前方で、
「どどーん」
と大きな物が崩れ落ちた様な音が轟いた。続いて、
「がしゃ、がしゃ、がしゃん」
と金属がぶつかり合い、割れて、飛び散っている音が響いた。
紫の派手な輿が、落ちて、崩れて、壊れているのが、人垣というか蠅垣というか、そういった物の合間から、覗けた。その派手な輿から、これまた派手な紫の羽織に無様に絡まった、丸々と肥えた、不思議な生き物が転がり落ちてきた。
「いたぞぉ~」
「義元だぁ~」
「首は目の前だぁ~」
声が飛び交った。
「さ、さ、さ、さ、さぁ~」
と瞬時に、落ちて壊れた輿の傍らで不細工に、しどろもどろする者とは思えない物を守ろうと、「腕に覚えあり」といった面構えの者達が円陣を組んだ。こ奴等は円陣の中の物体を、今まで見た事もない生物を守ろうとしている様であった。こいつ等は、少しは骨がありそうだが、こいつ等の中心にいる、中で蠢いている、紫色の絹地の布に不器用に絡まった物はまるで戦の場に似つかわしくない風だった。
「あれが、…、…。あれが、義元…、…」