「桶狭間の合戦まで」 第五部
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「桶狭間の合戦まで」 第五部
乱暴に扉を開けて、佐久間信盛が闖入してきた。
「殿。なりませぬ。この度ばかりは、なりませぬ。度が過ぎます。織田家の存続にかかわります」
「信盛よ。そう、血相を変えなくてもよいであろう」
「殿。何を呑気に…、…。これは一大事ですぞ。血相が変わるのも無理はない事でしょう」
「まぁ、まぁ」
「殿。今までの殿の狼藉とは訳が違うのですぞ。殿のお命もさることながら、織田家の滅亡につながります。あの世でこの信盛は、信秀さまに合わせる顔がございませぬ」
「何を今さら。もう、おぬしの顔ならさんざんこのわしが汚してやったわい。もう、父上も呆れておるじゃろう」
そう言って、余は高らかに笑って見せた。
信盛は悔しそうに唇を噛み、膝から崩れ落ちて、板の間に拳を打ちつけた。
「殿、…、…。やはり、ここは他の家臣らの言うとおり、籠城が一番かと…、…」
「信盛よ、籠城の結果、誰が助けに来てくれるというのじゃ? 助けが来てくれる見込みのない籠城で、勝った歴史がないだろう…、…。籠城をした所で、おぬしも勝てるとは思わないだろう」
俯く信盛から涙がこぼれているのが分かった。この男はすぐに涙を流す。それを身内は皆、分かっているから、この涙にはそれほどの効果が発揮されない。信盛は、また、拳を板の間に打ちつけた。咽かえり、鼻水を啜りあげる音が聞こえた。
「信盛、それはおぬしの本心か?」余は小さな声で問いただしてみた。
「…、…」
「…、…」
信盛は答えられずにいた。
「もう、良い。酷な質問をして悪かった。おぬしの気持ちはよう分かった。汲みしておこう。もう、さがれ。今日はもう休むとしよう。明日、また、軍議を行う、皆に伝えておいてくれ」
「…、…。殿ッ!!」信盛はくしゃくしゃの顔を持ち上げて、低い声を、喉をひきつらせつつ放った。「命だけは、どうか、お命だけはお大切にしてください」
「…、…」
「開城いたしましょう。もう、負けを認めましょう。もう、勝ち目はござりません。殿の言うとおり、籠城しても勝てるはずがありませぬ。恐怖を長引かせているだけにすぎません。家臣以下、下の者や女子供を悲しませるだけです。果ては首をとられるのが目に見えております。かといって打って出るのも無謀すぎます。あまりに脳がありません。信盛も武士の端くれ、負け戦と分かっていながら挑んで見せる事を好む殿の美学が分からないではありません。しかし、それは、殿がいつも言われる様に、危険の中に勝機を見いだせて、一手一手緻密な計算の上で勝利を導き出せる、殿にとっての勝ち戦であります。しかし、この度ばかりは、相手が悪すぎます」
「…、…。では、どうしろと…?」
余は、意地悪く、とぼけてみせた。
「ですから、開城を…」
「か・い・じょ・う、…、…?」
余は目を瞑り、一つ呼吸を置いた。そして、叫んだ。
「開城は致さん! 籠城も致さん!」
信盛の体が、びくっ、と後ろに下がるのが見えた。信盛は顔を上げて、驚いて、大きく見開いた眼で余をみつめた。おそらく、信盛の中では余はまだ、おおうつけの吉法師に過ぎなかったのであろう。ところが、現実は、目の前で立ちはだかる、天下を取ろうという男であった。
「開城とは、つまり、今川に頭を下げろという事だろう。忌々しい義元様の糞野郎に、お仲間に入れてください、という事であろう。子分にしてください、という事であろう。籠城するという事は、戦う前から、勝敗を放棄してしまう事であろう。戦いの舞台にも上がらずして、土俵に立ちもしないで、何が男よ。開城も、籠城もわしには似合わん。好みに合わん。趣味に合わん。嫌いじゃ、好かぬ。天下をとると豪語している男が、こんなところで躓いてなるものか。わしは何としても、出陣致す。義元の首を獲ってみせる!」
「…、…」
信盛は怯えたように余を見上げている。膠着した体が、小さく震えているようでもあった。
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