⑥-1「信じる」で、信仰の始まり、そして現代は多神教社会だと述べました。
⑥-2「再度、信じる」で、トランスと「てんかん」について述べました。
⑥-3の今回は「信じる。まだまだ続行中!!」です。
信仰は実践であり、祈ることが信仰への近道であることを書きました。そして、信仰の「外堀を埋める」ようと、「人格」探す人間の習性、「因果関係」に基づき原因を求める人間の習性、分業により成り立っている現代社会、トランス状態とてんかん、などなどについて書きました。
ここでは、信仰の在り方を見るための例として、パスカル、マザー・テレサ、そしてシモーヌ・ヴェイユを見てみましょう。
先ずはブレーズ・パスカルです(1623年 - 1662年)
天気予報に良く出てくるヘクトパスカル。これは気圧の単位で、圧力の研究に功績のあったパスカルに因んだものです。 パスカルは17世紀の数学者、物理学者、思想家、ジャンセニスト。日本だと徳川家光の時代、フランスだとルイ13世とかリシュリュー枢機卿の時代です。ベルばらの少し前の時代。
パスカルは理系人間で文系の著作は多くありません。変わり種の業績としては、乗合馬車の事業化があります。それまで、馬車とは金持ちが乗るものでしたが、乗合にすることで、金持ちでなくても乗れるようにしたそうです。私たちが利用しているバスの先駆けです。数学のできる人なので、採算計算に手腕を発揮したのでしょう。
大変に頭の良い人でした。信仰についても理知的に説明しています。
パスカルは、神がいるかいないかは、人間の理性では分からない。信仰とは賭けなのだ、と言っています。
「神がいる」と賭けて、その通りだったら天国の至福が得られる。賭けに反して神がいなくても、何も損はしない。負けてもともとだ。
ためらわずに、神があると賭けたまえ。
この「信仰の賭け」は一見して問題があります。
・神が存在したからと言って、天国の至福が与えられるとは限らない。
・間違った神を信じたら、本当の神から罰せられるかもしれない。
・賭けに負けたら、教会に毎週行ったり、献金したり、お祈りしたりしたことは無駄
になるので、「損はある」。
多くの神学者や哲学者が「神の存在証明」を試みています。「神がいるかどうか、人間には分らない」というところに出発点を置くところがパスカルの面白いところです。
この賭けの比喩が妥当かどうかより、パスカルは信仰を理性の問題ではなく、「心の問題」として考えていたことが重要だと思います。
パスカルには大変仲の良い妹がいました。彼は妹に向かって、こんなことを言っていたそうです。
「自分は神に全く見離されており、神の方からの招きを何も感じない。全力をつくし
て神に向おうとするが、自分を最善のものに向わせる力は、自らの理性と精神であ
って、神の霊の働きではない。自分のまわりのものに執着のなくなった今、もし以
前と同じように神を感じることができるなら、どのようなことも可能なのだが。」
妹にこのようなことを言ってから2か月後、あることがパスカルに起きました。彼はそのことを誰に話すことなく、一枚のメモに認めました。
パスカルが39歳で死んだとき、パスカルの着ていた上着に縫い付けられていたメモが発見されました。そこには、1654年11月23日の夜十時半ころより零時半ころまで、という日付とともに、下記の言葉を含む「覚書」と呼ばれる文章が記してありました。(全文は下に貼りました。)
「火」
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神ではない。確実、確実、直感、喜び、平安。イエス・キリストの神」
「あなたは哲学者や学者の神にあらず。
感動、歓喜、平安!
ああ、イエス・キリストの父なる神よ。
あなたが私の神となってくださったとは!」
「永遠の命とは、唯一のまことの神である貴方と、貴方の遣わしたイエス・キリストを知ることです。」ヨハネによる福音書 / 17章 3節
「イエス・キリスト。イエス・キリスト。
わたしは彼から離れ、彼を避け、捨てて、彼を十字架につけました。
しかしこれよりのち、私が彼から離れることが永久にありませんように。
福音書に記されたあなたこそ、実在の神です。
ああ、全き心。快い自己放棄。
イエス・キリストよ。」
これは神秘体験だったのでしょう。このメモを読むだけでも迫って来るものを感じます。
パスカルの同時代人であるデカルトも神秘体験について書いていますが、そちらには説得力を感じません。「無理してんじゃないの━?」と言う感じです。
パスカルの次に、マザー・テレサを見てみましょう。
マザー・テレサについては、ここで紹介するまでもありません。ノーベル賞を受賞したカルカッタの聖女です。マザーの生涯が神の光に照らされたものと私たちは考えますが、晩年のマザーは、神が自分から離れていくという感覚に苦しめられたそうです。
マザーの言葉を聞いてみたいと思います。
「神に望まれない、拒絶されて空虚であり、信仰も愛も熱意もないのです。人々の魂にも魅力がなく、天国の意味も皆無で何もない空間のように思います。」「暗闇の深さを表わす言葉がありません」「神に対する思いは痛いほどあるのに、闇はさらに深くなっています。私の心の中には何という矛盾があるのでしょう。内面の痛みはあまりに強いので、すべての評判にも人々の評価にも何も感じません」。(1956年のペリエ神父への手紙)
「わたしはたったひとりです。闇はそれほど暗く、わたくしは孤独です。望まれず、放棄された者。愛を求める心の孤独感は耐えられません。わたくしの信仰はどこへ行ったのか。心の奥底にも、空虚と暗闇以外には何もありません。神よ、この未知の痛みは何と辛いのでしょう。その痛みは絶え間なく続きます。(1959年7月、ピカチー神父への手紙)
宗教学では、このような心の状態を「霊的渇き」Spritual Drynessと呼びます。霊的枯渇状態とも言います。
ここでは「暗闇」と言う言葉が何度も使われています。キリスト教世界でも屈指の神秘主義者と考えられている十字架のヨハネも暗闇について話しています。神に近づく人は霊的渇きや暗闇を体験するそうです。
私たち一般人は、「曇り空」の下で光を見ているのではないでしょうか? ところが、神に近づいた人は、神の光を直接浴びている。ー 太陽を直接見ると、輝きの強さに目が眩んで暗闇を見ているかのように感じる。神が、後ろ姿しかモーゼに見せなかった理由もこれだと思います。出エジプト33-20
イエスさへ、十字架上では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」「私は渇く」と言っています。
大阪教区の和田幹男神父は次のように述べています。「命としての神を渇望しながら、この神によって突き放され、心引き裂かれる思いでいる。 それが郷愁として、神による見捨てとして、残酷な不在として体験されている。 この神の不在を嘆けば嘆くほど、その実、心のもっと深いところで神の現存の意識が芽生え、成長し、あらためて神への信頼が増幅する。 人間の心の中における神の不在の意識も、実は神の現存の一つのあり方ではないのか。」 「神は水のように、命にとってはなくてはならない方である。水はあまりにも身近かなものであって、その有難さがわからない。 しかし、水がなくなると、これが不可欠なものであることがわかる。これは渇きの中で、渇きの苦悩の中でわかるもの。神もそのような方だということ。」
神が、神概念から解放されることを望む
パスカルの覚書(下に、パスカル自筆のメモの写真があります。)
1654年11月23日の夜十時半ころより零時半ころまで
アブラハムの神、イサクの神、ヤコプの神よ。
あなたは哲学者や学者の神にあらず。
感動、歓喜、平安!
ああ、イエス・キリストの父なる神よ。
あなたが私の神となってくださったとは!
キリストの神がわたしの神。
わたしは、あなたを除くこの世と、その一切のものを忘却します。
福音書に示された神こそ実在の神です。
わたしの心は大きく広がります。
正しき父よ、世はあなたを知りませんでした。
しかし、私はあなたを知ります。
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙!
私はあなたから離れ、命の水の源を捨てていましたが、
わが神よ、あなたは私を捨てたりなさいませんでした。
どうか私が、これより後、永久にあなたから離れませんように。
永遠の命とは 、まことに、唯一の真の神であるあなたと、
あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることにあります。
イエス・キリスト。イエス・キリスト。
わたしは彼から離れ、彼を避け、捨てて、彼を十字架につけました。
しかしこれよりのち、私が彼から離れることが永久にありませんように。
福音書に記されたあなたこそ、実在の神です。
ああ、全き心。快い自己放棄。
イエス・キリストよ。
私はあなたとあなたのしもべたちに全く従います。
わたしの地上の試練の一日は永遠の歓喜となりました。
わたしはあなたの御言葉を、とわに忘れません。アーメン。