永平寺に行ったこと、修道院に泊ったことを書きました。そして聖フランシスコについて書きました。 今回は祈りと音楽について書きます。
修道院では祈ります。沈黙のうちに祈ります。
クリスマスには「東方の三博士」が、イエスの誕生を祝って贈り物を持ってきました。黄金、乳香、没薬などなど。 没薬はミイラを作るものです。赤ちゃんの誕生祝に、お線香や骨壺を持ってくるようなもので、マリアは不審に思ったはずです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせていた」 マリアは黙っているんです。私なら「どうして??」と言ってしまいます。
質問したり意見を述べることは良いのですが、どうしても自己主張が紛れ込んでしまいます。自己主張なしに考えを巡らし祈る、黙することになります。「アーメン」とは「その通り」という意味です。私たちは「論破の時代」に生きていますが、疑問があっても一旦は「その通り」と答え、マリアは相手の考えを知ろうとしました。
永平寺の只管打坐は、「ひたすら座って考える」ことらしいですが、手掛かりなしに考えることは、大変難しいと思います。そもそもキリスト教には「修行して悟りを啓く」という発想がありません。仏教が「修行する宗教」なら、キリスト教は「信じる宗教」です。修道院とは祈りを通じて信仰を深める場です。仏教は、お釈迦様や道元が編み出した修行法の有効性を信じる宗教かもしれません。
キリスト教では、イエスが教えた祈りの言葉「主の祈り」や、キリスト教の教義を短くまとめた「ニケア信条」を唱えます。自分の言葉でも祈りますが、その比重は軽めです。カトリックでは15世紀頃からマリアを讃えるアヴェマリアを唱えます。女子修道院では、一日に数百回のアヴェマリアを唱えます。ロザリオという数珠を使って、祈った回数を数えます。
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
同じ祈りの言葉を何回も繰り返していると、その言葉の意味をあれやこれや考えたり、全く関係ないことを考えたりしている自分がいます。自分の声が、他人の声のように聞こえたりします。「パブロフの犬」現象かもしれませんが、アヴェ・マリアを唱えると心も祈りモードになるようです。祈りは、人間と神との対話です。祈ることは務めではなく、神と出会える恵みです。一生懸命に精神集中しなくても、繰り返せば体が一緒に祈ってくれます。
一人で祈っても良いのですが、数名と語らって祈ることもあります。一緒に祈ってくれる人がいる恵みに感謝します。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」マタイ18章20節
アヴェマリアを唱えたり、ミサでお祈りしていると、幸福感に包まれます。脳科学では「エンドルフィンが分泌された」と説明されます。エンドルフィンは、「幸せホルモン」ともいわれ、幸福感を増す脳内物質です。高橋尚子さんが「走っていると幸せ」になるランナーズハイも、この働きです。ミサの中で、歌ったり、他の人たちと同じ動きをしたり、親しんだパターンの儀式をしているとエンドルフィンが分泌されます。(脳内物質は研究の途上であり「素人が理解した面白い話」程度に思っていた方が無難なようです。)
「ひろさちや」という仏教学者が、祈りには「請求書の祈り」と「領収書の祈り」があると言っています。初詣で、健康とか、大学合格とか、「彼女ができますように」と祈るのは請求書の祈りです。朝日や夕日に向かって拝む人は、感謝の気持ちを込めた領収書の祈りをしているのでしょう。世の中には願い事をする人が多いので、神さまも仏さまも請求書の山に埋もれて、首が回らないのではと心配です。
とは言っても、私も請求書の祈りはします。ただ、具体的なお願い事は少なめにして、寝る前に祈ります。
「信仰のない私に、信仰を与えてください。」
お気づきでしょうが、この祈りは矛盾しています。人は神を信じているから祈るのであって、信仰を持たない人が祈るはずはないです。 しかし、神は無から有を生じせしめる力を持っています。お願いすれば、気前よく分けてくれます。お試しあれ!
ちなみに、南無阿弥陀仏は領収書の祈りだそうです。「助けてください。お願いします。」という請求書の祈りではありません。「あみだ様、有難う」という喜びの言葉です。キリスト教でも、人間が自分の意志で神に祈るのではなく、神からの招きに答えて人は祈ると考えます。「貴方が私を選んだのではない。私が貴方を選んだ」ーヨハネ15.6
キリスト教の祈りの中心は、神への賛美と感謝です。賛美とは「神とは何であるか」を述べること。感謝とは「神からもらったもの」を述べることです。領収書ですね。神は良いことづくめで悪いところが一つもないので、「神とは何であるか」を述べれば賛美となり、神がしてくれることも良いことづくめで悪いことは一つもないので、「神からもらったもの」を述べれば必然的に感謝になるのです。
しかし納得できないことも多いです。病気とか戦争とか津波とか猛暑とか。津波にも、私たちには理解できない意味があるのかもしれません。マリアのように沈黙を守り「想いを巡らす」ことが信仰です。
「津波にも意味がある」というと、「ある筈ないだろう」という声が聞こえてきます。私もそう思います。でも、津波に意味がないのなら、津波で死んだ人たちは意味のない死を遂げたこでしょうか? 宗教を信じるとは、「人の命など無価値で意味はない」という底なし沼のような虚しさからの逃避かもしれません。
逃避だとしても、私は底なし沼から救いを求め祈らずにはいられません。祈ることが、「救い」そのものです。救われたと感じるのは勘違いでしょうか?
「委任状」の祈りというのもあるようです。つまり神さまに「委ねる」のです。天使ガブリエルから懐妊していると告げられたマリアは、「私は処女なのに、そんなことはない。でも、お言葉どおり、この身に成りますように。」と言いました。神に委ねたんですね。Let it be です。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
閑話休題。祈りの方法には「黙想」と、「観想」があります。
黙想(Meditation)とは、聖書の一場面を繰り返し読み思いを巡らすことです。禅宗でも、曹洞宗は無念無想ですが、臨済宗はいろいろ考えることにより悟りを目指すそうです。
一方、言葉やイメージといった手がかりを用いない祈りは観想(contemplation)と呼びます。私には良く分からない境地です。キリスト教にも観想の伝統はあり、16世紀に生きた「十字架のヨハネ」は観想を通じて神との合一を目指していました。永平寺を開いた道元は「無念無想」と言っているので、観想かもしれません。
しかし、キリスト教はあくまでイエス・キリストを通して神に至る道ですから、イエスをバイパスして、神を目指す神秘主義はキワモノです。神は人間を超越しているので、人間が直接に神と繋がるということは原理的に無いと思います。もしあったとしても、神秘体験とは向こうから来るもので、こちらから求めるものではありません。神秘を求めることも欲望の一種であり、強く求めると勘違いにハマる危険もあります。神さまは、私たちをこちら側に置いてくださったのだから、置かれた場所で咲くことが本来の姿だと思います。
キリスト教神秘主義は、禅関係の人たちから評価されているようです。またカトリックの信者や聖職者で禅を組む人もいます。観想と禅は、互いに通じ合うのかもしれません。
キリスト教は救われることを信じる宗教です。祈る人は既に救われています。浄土宗でも念仏を唱える人は既に救われています。どちらも厳しい修行をしなくても救われます。イエスは「私の軛(くびき)は軽い」と言っているし、親鸞は念仏を「易行」と呼んでいます。それに比べると禅宗は重くてつらい「難行」のようです。
次回は、歌うことについて考えます。
続く