山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!
ようやくたどり着いたあこがれの年金生活
夢見た悠々自適の年金生活は、
なぜか幽遊自虐の耐乏生活にに様変わり
そんな自虐生活の中で
気づき 考察したアレコレを
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文科相の諮問機関・中央教育審議会が「新しい指導要領の方向性をまとめた」という報道がありました。
これは、未来をになう子どもたちに時代に即した教育を実施するために、とてもたいせつなことだと思います。
ところで昭和の時代には「勉学(勉強・学習)」と言われていたことばが、いつのころからか「学び」ということばに変わっています。
この変化には、どんな意味があるのでしょうか。
「勉学」ということばに込められていたもの
昭和のころ、私たちは「勉強しなさい」「学習時間を守りなさい」と言われて育ちました。
そこには、努力・忍耐・規律といった価値が込められていたように思います。
教科書を開き、鉛筆を持ち、静かに机に向かう時間は、どこか厳かで、知識を得ることへの敬意がありました。
「勉学」ということばには、知を敬う姿勢が自然と含まれていたのです。
とくに受験や資格試験など、成果がはっきりする場面では、「勉強」という語がぴったりでした。
それは、目標に向かって努力することの象徴でもありました。
いまでも私は、「勉学」という語に、どこか背筋が伸びるような感覚を覚えます。
それは、人生の節目で何度も「学び直し」をしてきた私にとって、知との向き合い方の原点なのかもしれません。
「学び」という語が広まった背景?
「学び」という語が新聞や教育現場で使われるようになったのは、2000年代以降のことです。
とくに文科省が「学びのすすめ」(2001年)を発表したころから、政策文書にも登場するようになりました。
この背景には、「ゆとり教育」への反省や、教育のあり方を見直す動きがあったようです。
引用元=数学プロセス
「学習」や「勉強」という語が持つ硬さや義務感をやわらげ、もっと主体的で柔軟な学びを大切にしようという考え方が広がったのです。
たとえば、最近の指導要領では「主体的・対話的で深い学び」という表現が使われています。
これは、知識の習得だけでなく、自分で考え、他者と話し合い、気づきを得ることを重視する教育への転換を意味しています。
「学び」は、年齢や立場をこえて誰もが成長できる営みとして、社会全体に広がっていったのです。
「学び」は名詞になった?ことばの変化を考える
もともと「学び」は動詞「学ぶ」の連用形でした。
| 時期 | 名詞としての「学び」の使用状況 |
|---|---|
| 〜1990年代前半 | 一部教育理論で使用されるが、一般的ではない |
| 1995年頃 | 教育学・認知科学で名詞的意味合いが議論され始める |
| 2001年 | 文科省「学びのすすめ」で政策文書に登場(転機) |
| 2005年以降 | 教育現場・報道で「学び」が名詞として定着 |
| 2010年代〜 | 「学び直し」「学びの場」など社会全体で汎用語化 |
しかし最近では、「学びの場」「学び直し」「学びを深める」など、名詞として使われる場面がとても増えています。
これは、単なる文法の変化ではなく、ことばの意味が社会の中で再定義されたということだと思います。
「学び」は、単なる知識の習得ではなく、経験や気づき、自己の変化を含む広い概念になってきました。
たとえば、企業の研修でも「学びの機会」「学びの文化」といった表現が使われています。
このように、「学び」は個人の内面に根ざした営みとして、名詞としての地位を得たと言えるでしょう。
ただ、私のような昭和生まれには、どこか軽すぎる印象もあります。
「勉学」の持っていた厳粛さや重みが、少しずつ薄れていくような気もします。
それでも、「学び」という語が広く使われることで、誰もが学び続けられる社会になるなら、それはそれでよいことなのかもしれません。
まとめ
「勉学」から「学び」へ──このことばの変化には、教育の価値観の変化が映し出されています。
昭和の「勉学」は、努力と規律を重んじるものでした。
令和の「学び」は、主体性と気づきを大切にするものです。
どちらがよい、悪いではなく、時代とともにことばが変わり、教育のかたちも変わっていくのだと思います。
私たち高齢者も、「学び直し」や「生涯学習」という言葉の中で、新しい知との出会いを楽しむことができるのではないでしょうか。
ことばの変化を見つめることは、社会の変化を見つめることでもあります。
これからも、ことばの奥にある意味を、ていねいに考えていきたいと思います。





