山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!
ようやくたどり着いたあこがれの年金生活‥
夢見た悠々自適の年金生活は、
なぜか幽遊自虐の年金生活にさま変わり‥
だがしか~し転んでもただでは起きないのが団塊育ちのいじましさ!
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7月26日にパリ五輪がはじまり、5日ほど経ちました。
すでにいくつかの競技は終了し、悲喜こもごもの情景があちこちに見受けられます。
開会式から、ここまでの期間に感じた所感・雑感を記してみたいと思います。
オリンピックはスポーツの祭典では?!
パリ五輪の開会式は、これまでの「競技場」という閉ざされた空間ではなく、セーヌ川沿いという異例の場所での開催ということで、どんな開会式になるのか期待はしたものの、その思いははかなくも破られました。
オリンピックの開会式は「スポーツの祭典を祝う行事」だと思っていましたが、今回はなにか「カーニバルの行列」を見せられているようでした。
各国選手団を乗せた船が通る合間に、あちこちで繰り広げられている各種パフォーマンスが断片的に映し出され、たぶん一つひとつにはそれぞれ意味もあり、素晴らしいものなのでしょうが、見ている私にはサッパリ理解できませんでした。
オリンピックはあくまでスポーツの祭典であって、そこに場違いな芸術性を持ち込むことで生まれた違和感は、私には異様な光景としか映りませんでした。
選手団が競技場を一周し、スタンドの観衆が拍手をおくる光景を、ワクワクしながらテレビ観戦したいと思ってしまうのは、時代遅れの人間なのでしょうか。
勝者には賞賛を敗者には敬意を!
さて、肝心の競技については、まず何といっても「柔道」を取り上げないわけにはいきません。
男子60キロ級で銅メダルを獲得した永山竜樹選手の誤審問題。
男子60キロ級準々決勝で永山選手は、相手選手の締め技により「落ちた」として一本負けの判定を受けました。
この判定の当否は、ここでは語りません。
柔道の誤審問題は過去にもシドニー五輪での、篠原選手の例があります。
これらの原因は、ひとことで言えば「審判の無能さ」に尽きると思います。
テレビ観戦をしていると実況アナが「今の『マテ』はなぜですか?」と解説者に問い、それに対して解説者が「はっきりとは分かりませんが、〇〇ではないでしょうか」とあいまいに答えざるを得ないなど、解説者も解説に困惑するような、不可解な判定がたびたび見受けられます。
オリンピックの実況中継に登場する柔道解説者といえば、いずれも現役時代は実績のある人たちばかりで、諸外国の審判員よりよほど柔道を極めた人たちばかりです。
とはいえ、こうした低レベルの柔道家・審判を世に送り出したのは「柔道の国際化」を急いだ、日本柔道連盟の責といわねばなりません。
大相撲でも同じように、横綱・大関の品格を問う声が聞かれますが、これも国際化のなせる業で、相撲界自らの責に帰すことは明らかです。
そして、残念ながら女子52キロ級の2回戦で1本負けした阿部詩選手。
敗戦後の阿部詩選手の号泣に、さまざまな意見が交わされていますが、阿部選手はもちろん、すべての競技者、観客のみなさんにおくりたい言葉があります。
勝者を讃え、敗者に敬意を!