山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!
ようやくたどり着いたあこがれの年金生活‥
夢見た悠々自適の年金生活は、
なぜか幽遊自虐の年金生活にさま変わり‥
だがしか~し転んでもただでは起きないのが団塊育ちのいじましさ!
つかんだ節約テクニックを
余すとこなくご披露いたしましょ~ぅ
「日本でいちばん乗降客の少ない新幹線駅」
「新幹線の秘境駅」などと揶揄される、
岐阜羽島駅。
その駅前に建立された大野伴睦夫妻の銅像。
巷間、岐阜羽島駅の設置にはこの大野氏の
力が大きかったと伝えられています。
しかし大野氏の出身地は羽島ではなく羽島
の北部、岐阜の中心部・岐阜市の
さらに北に位置する山県市でした。
出身地でもなく岐阜の中心地でもない羽島。
なぜ、そこに駅を設置する必要が
あったのでしょうか?
こちらからどうぞ
キーワードは「東京オリンピック」!
本題に入る前に、お詫びと訂正をしなければなりません。
昨日の拙ブログ「日本でいちばん乗降客の少ない新幹線駅 その名は【岐阜羽島駅】!」の記事中、「わたし自身、岐阜羽島駅を利用したのは中学と高校の修学旅行の2回だけです。」とありますが、公開直後記事中の写真を提供してくれた友人から、中学時の修学旅行は新幹線ではなく従来線(東海道本線)の修学旅行専用列車「こまどり」であったと指摘を受けました。
調べてみると東海道新幹線の開業は1964年10月1日、中学2年時の修学旅行は新幹線開業の翌年の65年になりますから、新幹線は走っていたはずです。
そこで物入にあったはずの古いアルバムを引っ張り出し、確認してみたところ、どう見ても新幹線車内の風景ではなく在来線の車内です(下の写真)。
前列がほぼ60年前のワタシ
後列左がS先生と右が友人H君
2人とは掲載許可確認が取れないため目隠しました
ということで、私が岐阜羽島駅を利用したのは生涯一度キリということのようです。
訂正してお詫びいたしますm(__)m ペコリ
さて本題にもどります。
本来の地名である「羽島」の上に「岐阜」をつけなければそれが何処かさえ分からない「カエルしか棲んでいないような土地」になぜ、時代を象徴する新幹線の駅をつくらなければならなかったのか?
今回のキーワードは「東京オリンピック 1964」です。
東海道新幹線は東京オリンピック開催に合わせ、東京ー関西圏を結ぶ鉄道路線として、1964年10月開催の東京オリンピックに間に合わせることが大命題でした。
当初名古屋以西は最短コースの三重県越えが予定されていましたが、鈴鹿山地を抜けるトンネル工事が難敵で、とても工期に間に合わないことが分かり、急遽在来線と同じように岐阜県側を経由する路線に変更されることになったのです。
ところが岐阜を経由すると、待ち構えているのが天下分け目の関ケ原。
ここは鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山にはさまれ、いまでも冬になると名神高速などが閉鎖の憂き目に遭う雪の難所です。
そのためいざというときの車両の避難所として、岐阜県側に新駅設置の必要性が生まれました。
しかしあの辺りは美濃三川(木曽・長良・揖斐)が流れていることもあり地盤が軟弱で、そのうえ在来線、名神高速なども走り、新駅の設置場所選定は簡単な作業ではありませんでした。
とくに駅の誘致が利権に絡むとあっては、地権者にとっては死活問題です。
そこに登場するのが件の政治家、大野伴睦氏です。
大野氏は岐阜県内の有力者を集めて意見を取りまとめ、羽島市内への新駅設置を提言したのです。
利権がらみの調整は、それなりの実力を伴った人物でなければできないことです。
短期間にまとめ上げた大野氏の実力は、やはり並外れたものだったようです。
銅像が建てられたのも、さもありなんというところでしょうか。
この調整がマスコミに曲解され、「政治駅」と批判を浴びることになってしまいましたが、この記事をお読みのみなさんには大野氏がけっして私利私欲で岐阜羽島駅を誘致したのではないことがお分かりいただけたと思います。
マスコミの「曲解」は、恣意的かそうでないかはともかく、いまでもたびたび目にします。
まったく困ったものです。
ということで「日本でいちばん乗降客の少ない新幹線駅・岐阜羽島設置」の謎は大団円を迎えたのでありま~ス!
メデタシ、めでたし (´;ω;`)
こちらからどうぞ