備忘録(byエル) -31ページ目

菊乃助 夜に舞う

歌舞伎・・・のこと

友人に歌舞伎関係者がいて(梨園の人ではありません)、年に2,3度歌舞伎のチケットを頂く機会があります。

歌舞伎が好き!ってこともないのだけれど、チケットはケッコウ高価なものだし、頂けるのなら・・・と、ここ数年、歌舞伎見物をすることが多いのです。

で、先週も「團菊祭五月第歌舞伎」を観に、大阪松竹座へ・・・
團十郎・・・菊五郎、菊乃助・・・と團菊が舞台を飾る五月の舞台。五月雨のそぼ降る大阪の、夕暮れへと向かう道頓堀へ・・・

菊乃助さんの舞踊を初めて観たのです。

「春興鏡獅子」という出し物だったのですが、もう言葉に出来ないほど妖艶で・・・。テレビのコマーシャルで、寺島しのぶさんと出演されている姿しか知らなかった私には、これが同一人物とは信じがたい・・・

手の角度、首の傾斜、ありえない身体の線の決め所・・・この世のものとは思えない「女性」という架空のものの神秘性のようなもの。形に嵌ることで、形の向こう側にある神秘的なものが溢れてくるような・・・

朧月の夜に、咲き誇り咲き乱れ、乱れて堕ちる牡丹の花に魅せられて、踊るうちに、踊る心が、舞う手足が、獅子の精霊を誘い入れ、呼び込み、やがて取り入られていく・・・

舞うことで掴み取り、掴み取られる、芸能者のもつ魅惑的なある境地。
『無』にいたるであろう過程の『陶酔』・・・陶酔していることを認識できている覚醒・・・
そんな魂が、謡の声のかすれて響く高音や、三味線と鼓の音色に絡まって、観るものに流れ込み、気づけば、涙が溢れていました。

いわゆる日本舞踊・・というか舞をみて涙を流したのは初めてで、歌舞伎の魅力がちょっとだけ分かったというか・・・

なんかええ時間でした。

外に出ると、大阪の夜。
雨を含んだ赤い雲が空を覆って寂しかったりして・・・

小説「N子」(4)

夕暮れへと向かう街の怠惰を縫うように、電車は走り続け、つた江はドアに身体を持たせ掛けるようにして、車窓から過ぎゆく空を見ていた。


勤めている大学の学生生協で買った牛乳と、パンと、グレープフルーツの入った袋が提げた腕に食い込んで来る。明日の朝食の買い物。

今夜の夕食は岬が作っているはずだ。と言っても岬がつた江との約束を守って、夕食の準備をして待っている事は、3日に一度の約束のその3回に一度で、あとの2度は、約束を破ってゲンチャに乗ってどこかへ行ってしまっていた。

岬の不在の中、つた江は冷凍のピザや、グラタンを、これだけは豆をひいて時間掛けて入れたコーヒーで流し込む事になるのだ。もともと食べることには執着がなく、食べる事を楽しむと言うより、空腹を満たすのが目的のようなつた江にとって、冷凍ピザが苦痛という事はない。

ただ、そこにはない岬の鬱いだ表情と、黄色い髪の匂いが食事を辛くさせる。それでも、約束することを続けているのは、3回に一度を大切にしたいと思ったからではなく、約束している事を岬を抱きしめる代わりのように愛しんでいたからかもしれない。


線路は地面から遥か上方に押し上げられ、高架を走る電車の窓から空を見上げているつた江は、空に投げ出され、溺れながら空を泳ぐ自分の気分を想像したりして、岬の不在へと動く心を騙しながらドアに身をまかせていた。空は沈んでいく太陽の色に染まり、街はその配下で黒ずみを増していた。

このまま、この街のどこかに不時着し、身体ごと街の中で黒ずんでいきたい。そう思った時、不意にN子の唇の感触が、つた江の意識全体を支配した。思わず唇を強く噛みしめて目を閉じる。岬も、空も、街も、N子の唇に飲み込まれて、つた江は全くの静寂の中にいた。


どうしたの、物思いに耽って」


いつの間に駅に着いたのか、反対側のドアが開き、電車に乗ってきた男がつた江にまっ直ぐ近づき声を掛けた。振り返ると、青木の笑顔があった。


「ああ吃驚した。」

ぼんやりして、まるで恋する乙女だったよ。」


「何言ってるの。」


冗談をやり過ごす口調がうまく作れた事で、つた江は少し安心した。


「どうしてこんな所から乗ってきたの。」


「これだよ」


青木はその駅にある大きな書店のカバーにくるまれた本をつた江の目の高さまで持ち上げた。


「本屋さんか。さすが学者ですね。」


学者だよ。異端だけどね。」


「仏教。」


「そう学生には結構人気があるんだけどね。僕のゼミ。でも先生方には変わり者扱いされてるよ。」


「フランス贔屓だもんね。あの大学。」


「今、仏教が面白いってね。聴講生も2、3人いるんだよ。ほら、この間赤い麦わら帽の子が来ただろう。あの子なんて僕の講義の熱烈なファンなんだ。」


突然話題の中に入ってきたN子の存在に、つた江はうろたえた。


「忘れた?あの雨の日だよ。つた江さんが神学部におもしろい人がいたって話してたら、その後直ぐあの子が入ってきたんだよ。思い出した?」


青木が返事の遅れているつた江の顔をのぞき込む。


「ええ。覚えてるわ」


「あの時は抜群のタイミングだったね。僕、思わず目を見張ったよ。だって赤い帽子かぶって緑のワンピース着てって貴女が言ったら、その通りの格好が目の前に現れたんだもん。」


青木は楽しそうに笑う。いつものつた江なら、そんな青木に同調して、競い合う様に面白い事を思いつくまま披露する事になったのだけれど、今日はとてもそんな気にはなれない。

青木に秘密を持つ必要はない。


偶然喫茶店でN子に出会って、その後忘れた手帳を受け取りににN子のアパートに出向いた。別になんでもない事なのに、つた江は重い口をどう開いていいか分からない。


秘め事。

そんな言葉と同時に、重ねられたN子の唇の感触、透き通るような白い肌、頬に浮かぶえくぼ。そんなものが頭を過ぎり、つた江の心を甘くさせた。


「あの日は、雨だったのに、あの帽子だろ。変わった子だよね。」


青木はつた江の重さにここで気づき、言葉を飲む。


「どうしたの?元気ない?」


電車が急に揺れ、ドアに身を預けていない青木がよろめいた。とっさにつた江が手を差し出す。


「おっと。」大げさに転ぶ振りを作って青木がその手に掴まった。


「大丈夫?こんな所で転んだらとんだ笑いものよ」


つた江の口がやっと軽くなった。


青木の誘いを断り切れず、JRの乗り換え駅で途中下車して居酒屋に入ったのは、秘め事の所為かもしれない。秘め事がつた江を日常とは違う座標に運んでいく。

もう冷や奴がおいしい季節だとはしゃいでいる青木から注がれるビールを口に運びながら、秘め事によって運ばれていく自分をつた江はほんの少し自覚していた。


「死に方なんだ。決定的に違うのは。」

「死に方?」


「そう、キリストなんか張り付けだよ。張り付け。今でも、キリストの痛みを通過する儀式があって、手首と足首を釘で打ち抜いて十字架に張り付けられる祭典をテレビで見たことがあるけど、壮絶な死に方だろ。キリストは。しかも弟子の裏切りがそこには隠されている訳で、物語としても完成されてるよ。そして復活。もうこれ以上ないよね。

ところが釈迦は違うんだよ。何日も何日も、自然に老いて死ぬのを待っている。死を自然の事として、迎え入れるんだよ。復活なんてしない。輪廻をむしろ否定しているんだ釈迦自身としてはね。

そうして死に、腐って土に帰る。


あっごめん。女の人と酒飲みながらする話しではないね。」


青木はつた江に笑顔を向けた。

 まだ幼さの残る丸い瞳に引っ張られて、薄い唇も、尖った鼻さえも、顔の全てが丸い感じでまとめられている、その青木の頭髪にも白いものがぽつりぽつりと目立ってきていた。

5年前、つた江が今の職場に入ったばかりの頃の青年らしい青木の表情を思い出す。5年の時間は、青木に白髪をもたらしたように、つた江の身体にも確実な変化を与えている。


「いいのよ。死に方を考える事が、それほど私の日常から遠くもなくなってきてるんだから。」


青木が空になったつた江のコップにビールを注ぐ。


「宇宙の意志に仏教は忠実なんだよ。人間の命の発生や消滅を、宇宙の法則の中で捉える事ができるかどうかが問題になるんだろうね。達磨を自分の意志にまで近づける事ができるかどうか。キリストは、ちょっと違う気がする。教会は調停機関だしね。

生きていく上での契約。つまり生活者の実感みたいなところで受け入れられていく。だからこそ、劇的なキリストの死は効果的なんだよね。」


「自然に死ねたらいいけど、そんな宇宙的な死に方なんて、私たちに残されているのかしらね」


「無理だろうね。腹上死ってあるだろ。あれくらいかな」


「そうなの。」


つた江は笑う準備をしていた気分を、青木の真剣な口元に遮られた。青木は冗談を言っているのではない。

脂ぎった初老に向かう男が、愛人と呼ばれる契約でセックスを楽しむ女の身体の上で、歳を考えずに無理な運動をしたあげく、贅沢が原因で弱り切った心臓に無理がたたって昇天する。いくつかの映画で滑稽に描かれていたあの腹上死の事を、青木はどうも本気で、自然に近い死と考えているようだ。


ときどきこの青年の考えかたはつた江を驚かせる。つた江の驚いた目が、青木を『居酒屋でほのかに思いを寄せている女と酒を飲んでいる』という現実に引き戻した。


「ごめん。どうも話が場にそぐわないな。これだから、5年間もつた江さんを落とせないでいる。」


「いやあね。腹上死の話の後で、私を口説くの?」


「別にそういうつもりは無いけどね。」


青木が顔を赤らめた。


秘め事。


うつむいた青木のまつげに目を向けたつた江の脳裏に、N子の涙に濡れたまつげが浮かんだ。柔らかいN子の唇の感触が頭の芯によみがえり、つた江の心を切なくさせる。


「いいわよ。私。」


青木が瞳をあげて、まっすぐつた江を見据えた。青木も驚いているが、つた江も驚いている。


N子との秘め事がどこまで自分を運んでいくのかつた江にも分からなかったのだ。

いつかは青木と身体を重ねることになる。それは、5年前つた江が研究室でバイトを始めた頃から予感していた気もする。

 今までそうならなかったのは、岬がいたからかもしれない。


 岬の母として生きる。自分の決意を自覚していたわけではないが、岬の父と別れたときから、つた江はそう決めていたような気がする。


 だから今まで青木の視線をやり過ごして来たと、そう言えなくもなかった。


 腹上死が宇宙的な死だという青木の感性を見定めたかったのかもしれない。

 

 岬のいない部屋での落ちつかない時間を忘れたかっただけかもしれない。


 この情事の前のシャワー室という場は、つた江の普段の座標とは違う位置にあることは事実だ。そして、非日常の座標につた江を運んできたものがN子との秘め事であることは間違いなかった。


 勢いよく吹き出す湯を身体に浴びながら、お腹の皮下脂肪が青木の腹上死のしとねとして充分過ぎる厚さになっている事を思い、つた江は一人苦笑した。更年期はつた江の腹筋を脂肪に変えていた。情事の前のシャワー室で更年期を自覚する自分がつた江には新鮮だった。情事もおばさんには非日常になり得ないのだろうか。


 鏡に映った自分の身体は、つた江を現実に引き戻すのに充分だった。N子の寂しげに濡れたまつげの映像が、格子戸の形の枠組みごとガタガタと崩れたかと思うと、その向こうに、岬の紫色に染められた爪が10本の白い指と一緒に揺れているのが浮かび上がってきたのだ。


 「ごめん。やっぱり帰る」


服を身につけ、部屋を出るつた江を、青木は止めなかった。

小説「N子」(3)

 N子のアパートに訪ねる約束の日も、雨が降っていた。


  化粧が乗らない。目の下の隈が、眠れなかったつた江に、歳を感じさせる。昨夜は、この滝の様に降り続く雨の音に耳を奪われ、うまく眠る事が出来なかった。


 深夜の闇の中から、雨の音を聞き分ける。屋根に当たる雨。風に飛ばされて窓にぶつかる雨。地球の自転の一過程に過ぎないのに、夜と昼は全く違う気配を持つ、特に雨は存在の意味すらずれるほど、色を異にする。

 

 闇の中で目を閉じ、闇をも拒絶する深い闇を視界に作り、つた江は雨の音の中に、岬を探していた。岬は何を見、何から目を背けているのだろう。校則なんてものでは、言い尽くせない岬の視点の闇を、つた江は探そうとする。時代、社会、思春期、どれもがありきたりの概念で、岬の闇にはなり得そうもない。母親からの逃避。深い闇を作る母の血の温もり、そんなものがこの家族にも存在するのだろうかと、つた江は岬との時間を振り返る。


 聞き分けていた雨の音が、また重なり合い一つになる。雨の複合音。

 

鏡の前で、昨夜の闇を濃いファンデーションで隠すことを諦め、つた江は立ち上がる。着ていく予定にしていたベージュのサマースーツを椅子に掛け、つた江は、タンスから白いサマーセーターと、やはり白い麻のパンツを取り出した。ピンクのイヤリング。そして白地にサーモンピンクのチューリップをあしらった鮮やかな傘を探しだし、それを広げて手に掲げ、もう一度鏡の前に立つ。白っぽいつた江の姿に、顔の色だけが暗くくすんでいる気がした。派手すぎる。白い全てがつた江の歳をそのまま浮き出させて、身のすくむ思いがした。ベージュのスーツにすれば良かった。

 

 トルコ桔梗の淋しげな紫を花屋で思わず手にしたのはベージュのスーツを着て来なかった埋め合わせかも知れない。

 つた江さんらしい花ですね」

N子がそう言って、つた江から受け取ったトルコ桔梗の花束に顔を埋めて匂いを嗅いだ時、つた江は鏡の前の自分を思いだし、赤面した。


 N子の部屋はよく片づけられていた。キッチンには、小さなテーブルが置かれており、テーブルはレモン色のテーブルクロスで覆われている。その上に緑の花をあしらった硝子の小鉢が置かれていて、その中にさくらんぼが盛られていたのは、つた江へのもてなしなのだろうか。

 

キッチンから続く8畳ほどの部屋への入り口には磨りガラスのドアがあり、その模様は麦わら帽子のように見えた。つた江の頭に神学部を縦断するN子の赤い麦わら帽子が浮かんだ。N子はつた江をドアの奥へと招き入れた。

グリーンの鮮やかなベッドカバーに包まれた大きなベッド。N子の華奢な身体なら3人分にでもなろうかと思われる大きなベッドが部屋を占領していた。ベッドの側にCDラジカセ。壁際には本棚が、まばらな本と飾り人形を抱いて立っていた。


 つた江は困ってしまう。いくら自分も女性だとはいえ、若い女の子の寝室の大きなベッドに招かれても、そこに座り込むのはどうも変な気がした。まして、N子とはまともに話したこともない。


 「今お茶入れますから、そこに座っていて下さい。うち、ソファがないんです。」


つた江の戸惑いにも気付かない風に、N子はそう言うとキッチンに消えた。


「コーヒーでいいですか?」


 キッチンから明るい質問がやってくる。

ええ。と声を出しかけたが、喉の奥に声が引っかかって出てこない。うん。と喉を鳴らす。それから


「ええ。コーヒーで良いよ。」


 なんだか恋愛と言う名の発情装置に身を任せた高校生みたいだと、つた江は自分に呆れた。


 「このベッドに座るの?」


 大きな声でキッチンのN子に尋ねる

 そうでーす。N子がキッチンから顔を覗かせて微笑んだ。えくぼが浮かんだ。そうしておいて、N子はまたキッチンに姿を隠す。 

 

 つた江は何だか愉快な事が起こりそうな予感のそういう状態の心を自覚しながら、カバーの上からベッドに腰を下ろした。ベッドは畳のような堅さで、つた江は勢い良く腰を下ろさなくて良かったと思った。再びN子が姿を現した時には、N子の手したトレーには2つのコーヒーカップと、さっきのさくらんぼがのせられていた。


 「これTugumiで分けて貰った豆なんです。」


 「ほんといい香りね。」


 N子がベッドの上にトレーを置き、トレーを挟んでつた江の隣に自分も腰を下ろす。コーヒーの香りに混ざってN子のコロンの匂いが浮き上がった。


 「こうやって上に上がっちゃうんです。」


 N子はそう言うと、巨大なベッドの中央まで這うように進んでいき、そこから身体を伸ばしてトレーを引き寄せると、黒いプリーツスカートの下で胡座をかいた。


 「つた江さんもここに上がっちゃってください」

つた江はN子のえくぼに誘われるように、麻のパンツのしわを気にしながらもベッドによじ登って行った。N子の側でN子を真似て胡座をかく。N子が声を出して笑った。


「気持ちいいね。このベッド」

つた江も笑いながら、心からの言葉を口にした。


「ここにこうして座っていると、なんか高い山に住む仙人のような気持ちになるんですよ。」


N子がえくぼの頬のまま、つた江を見てそう言った。


「仙人?」


「そう、トシシュンに出てくるあの仙人です。」


「仙人?」


つた江は同じ事を聞き返す。


「そう仙人」


N子が笑いをこらえた顔でそう言う。

つた江はN子の顔がおかしくて笑い出す。N子はつた江の笑いにつられて笑うがすぐ真顔になって、


「私変ですか?」


とつた江の笑いの意味をのぞき込む。


「違う、違う、おかしかったのは私の質問よ。」


N子がほっとした顔をした。ほっとして、溜息を付いて、何だか軽くなった顔をした。


「確かに、このベッド少し高いからね。天井に近い分、仙人的かもしれない。」


「違うんです。」


N子が遠い目をした。


「地震があったでしょ。神戸で。」


さっきまでとは違う声の表情で、N子は唐突にそう言い出した。今から何が話されるのか

それをつた江に警戒させる、そんな話し出し方だった。


「この辺りもかなり揺れたわね。」


とりあえず、つた江は相槌を打つが、N子はそれを聞いてはいない風だ。

遠い心をした。


「あの日、一日中このベッドの上でテレビ見てたんです。」


つた江は一人取り残されたような自分と、部屋のどこにも置かれていないテレビを同時に探していた。N子は遠い心のまま、つた江の戸惑いにも気付かず、話を続ける。


「ヘリコプターが飛んでいて、ゴーゴーって凄い音で。道路が壊れてて、人が何人か消防署の前で毛布にくるまってぼんやりしていて、それは避難訓練の時と同じ表情にも見えて、だからエアコンのどよんだ空気の中にいる日常の私との違いが、私にはよく分からなくて。

 余震が来ると私のベッドの上も揺れて、本棚もがたがた鳴って、だからもっともっと、テレビの向こうと私の座標が一体となっていって、私の視線がどこにあるのか分からなくなってしまったんです。

 それから暫くして、長田の街に火がついて、それを又ヘリコプターが追いかけて、ゴーゴーってヘリの音と、火の広がる音が耳にへばりついて、耳を何度も手で払うけど、それでも音は耳に被さってきて、その内、耳の穴から確かに脳全体を内側から押し上げて、頭全部がゴーゴーって音を立ててきたんです。  


 その時、燃える火の中に人の顔が見えたんです。


“早く逃げないと燃えちゃう”私の声がして、私の手がその人を助けようと画面に伸びるんだけど、カメラがターンしてその人は画面の闇に消えてしまう。


 消火活動を非難する声がテレビのスピーカーから飛び出し、

“俺の家が燃えてしまう。何で水をかけへんねん!”

 て見ればさっきの人とは別の人の悲しそうな顔が視界全部に飛び込んでくる。

 何か答えようと言葉を探していると、今度は遥か上空へ視座が移動し、街全体の火の手を追いかける。


あんなに、燃えたらダメなんだ。

 

下には沢山の人がいると、私の声が火の音と重なって私の頭に響いて、私は思わず両の耳を両の手で固く押さえて目を閉じたんです。

 余震は未だ時々やってきて、耳と目を閉じ、身体だけで孤立しているベッドの上の私を、画面の中の上空の視座へ呼び戻そうとするんです。


 私恐くって。

人がたくさん死んで、それを空の上から見ていて、人間の視座ではないもの。たとえば神のという言葉で言われてきた、宇宙の絶対意志のようなものの持つ視座。

 そんなものが私の身体を通過していった。っていうか。私の身体が疑似体験してしまった。しかも全くの日常の中で。人の焼ける嫌な匂いも、寒い朝薄い部屋着で外に放り出された不安も、血の色も、痛みも、何も無い日常の中で、私の身体を通過していった物が大きすぎて、恐くって。私は声を掛ける事も、手を差し出すことも、助けを呼びに行くことも出来ないのに、まして神のようにその死の先に責任を持つことも出来ないのに、なのに日常との境のないまま、見るという行為だけは続けられる。見ていてはいけない。」


 そこでN子はやっと言葉を切った。

 

遠い目をしていた。色の白い、N子の色の濃いまつげがかすかに濡れていた。つた江は少し迷ったが、手を伸ばし、N子の髪を撫でた。


「それからなんです。テレビを見ていると、いつの間にか、カメラの目と自分の目の境が消えちゃうようになったのは。」


N子がつた江の肩に甘える様に頭をもたせかけた。つた江はN子を抱くように髪を撫で続けた。


「どれが自分が本当に体験したことで、どれがテレビで見たことか、時々ぼんやりして境がなくなるんです。どれが自分の心が通過した痛みで、どれがテレビに出ていた人の言葉にあった痛みなのかも時々分からなくなります。」


つた江が深く頷く。


「切っちゃうんです。」


何を?と尋ねかけて、つた江はN子の腕に巻かれた包帯を思いだし、言葉を飲み込んだ。


「私の痛みと、私の血を確かめたくなって、切っちゃうんです。」


つた江にはつた江の肩に頭を置いてまつげを濡らしているN子が、その透き通った肌のまま、その華奢な身体のまま、消えてしまいそうに思えた。


「大丈夫だよ。抱いててあげるから。」


N子がつた江の腕の中で頷く。N子からつた江の腕に、肌を通して流れてくるものがある。湿った吐く息の温もり。シャンプーの香料とは別の髪の細胞の生きた匂い。心臓の運動による血液の流れ。


 あなたは消えたりしないよ。あなたの気配がこんなにはっきり伝わってくるよ。

 つた江がそのことをN子に伝えようとした時、N子が不意につた江を見上げ、見上げた顔を近づけて来た。

 

 何故?つた江はそんな自分の声を聞いたような気がしたが、実際にはつた江の声は重ねられたN子の唇に遮られていた。

 

 甘い匂いがした。つた江の唇の感触をゆっくり確かめている様に、N子は唇を柔らかく重ねていた。