備忘録(byエル) -29ページ目

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展

先週の半ば、有給休暇をとっていた娘が「そうだ!京都に行こう!」と言い出した。

土日しか休めぬ会社勤め人の彼女にとっては、平日の美術館は魅力的らしく「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」に行くという。京都市美術館で開催中。
平日有り余る時間に遊びまわっている私ではあるが、同行することに。

半そでのサマーセーターでも汗ばむ午後の京都市美術館前は長蛇の列!
40分待ちの立て札が・・・平日やのにぃ~!と娘が嘆く・・・が、どうやら、これは同時開催中の「フェルメールからのラブレター展」の列らしい。
7月、強烈な日差しの中、修復されたフェルメールの絵を観に来たのを思い出した。あの時はこんな行列になってなかったなぁ~。
フェルメールの絵はポスターやカレンダーでもよく見かけるし、レプリカがレストランなんかにも飾ってあったりして、好きな絵だなぁって思っていた。

生活の中のふとした景色がやけに物悲しかったり愛おしかったりする瞬間・・・夕暮れ、薄暗くなったリビングのソファーの上に置かれた読みかけの本に、窓から傾いた日が差し込んでいたりする・・・私の日常の中のあてどなく心もとない風景・・・みたいなものを思い出させる絵やなぁ~なんて、思っていたりした。

なので、暑い最中フェルメールからのラブレターを受け取りに京都へ足を運んだのだ。
でも・・・なんていうか・・・オリジナルが、意外なほどレプリカに近かったのだ。嫌いな絵ではなかったけど・・・家の近くのレストランに飾ってあるのとそんなに変わらないような・・・なんて、言ったら怒られそうだけど、私にはそんな感じがした。

そんなことを思い出しながら、フェルメールの行列をすり抜け「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の入り口へと回り込む。こちらは、待つ事もなく入場が許された。

19世紀以降、絵画が宗教画の高みから、人が生き生活する等身大の風景へと移行していく時代の、若き画家たちの挑戦の記録・・・みたいな感じの展示になっている。
いわゆるバルビゾン派と呼ばれるコローたちから、印象派へ、そしてポスト印象派へと展示は移行する。そして、ポスト印象派以降の画家の挑戦へと進み、最後にゴッホの自画像が・・・その苦悩に満ちた深みで、見送ってくれる・・・

絵の具を持って村へ出た画家たちが、そのさんざめく光を身体に受け、光そのものをキャンバスに取り込んでしまおうとした。モネの睡蓮がキャンパスの上で輝いている。少女は明るく柔らかく愛らしくルノワールの目には映し出されている。

書を捨てよ!町に出よう!
聖書を捨てよ!光射す目の前の世界に出でよ!

やがて、光の射さない闇の中に真実があるかのようにドガが娼婦でもある踊り子の姿態を映し出すと、マネは娼婦そのものの持つ力強い美しさに魅せられてそれを絵画に実現させようと批判をも恐れず描いてしまう。

そしてセザンヌは目の前の世界そのものから、「私」に見えるそのままの世界へと、「私」の心の置く深くへとキャンパスの位置を移動させるのだ。
パースペクティブはすでに遠くある。スーラの見る世界は点の連続で創造されている。

そして最後はゴッホの自画像。
青い炎が背面に燃え上がり、ルサンチマンともリビドーとも得たいに知れない不安のようなものが絵の表情からあふれ出ている。

それぞれの時代の画家達の挑戦、葛藤が、歩く足元にまとわり付くようなそんな感じで出口に辿り着く。

出口のショップには画家たちの苦悩の後がポストカードにプリントされて売られていた。

そして、私たち母娘は、帰り道知恩院の前を通り、四条までお散歩。
四条高島屋3Fの鼎泰豊で小籠包を食べることに・・・
このショウロンポウ、めっちゃおいしいでぇ~

血は特別のジュースだ

吸血鬼になった夢を見た・・・てなことではありません。

笠井叡さんのダンスのタイトルです。

10.10(月) 京都 春秋座での公演

秋の京都の夕暮れは半袖着てても暑いくらいで・・・

舞踏とかって、長ーい私のこれまでの人生で、接点を持ててなかったのですが、田中泯さんの舞踊を観たのが始まりで、なんとなーく、言葉なんかに頼るのではなく、身体から伝わる魂みたいなものに興味が湧いてきて・・・

昨年東京で土方巽さんの舞踏譜の研究をされている三上賀代さんの舞踏『献花』」を観て、ちょっと衝撃を受け・・・

それで、今回は土方さんや大野さんと舞踏の創設に関わったという笠井叡さんのダンスを観に・・・

春秋座の雰囲気(芝居小屋っていう感じで、花道あり提灯ありというデザインになっている)に触発されて創作されたという、新作の「血は特別のジュースだ」なので、途中演歌が流れたり、歌舞伎を歌舞く踊りや化粧や衣装でのアレンジがあって、大衆芸能の持つキッチュな笑いと「訴え」の沿革を舞踏が辿っていく感じが面白かったりしました。

タイトルは笠井さんが傾向されているシュタイナーの言葉「貨幣は血液である」を暗示している。

身体というもの「皮」によって、私と外界が隔てられているものがあるとして、笠井さんは内と外がひとつになる世界へと向かう戦いを舞台の上でされているらしい。

「Body と Nobody の間を行き来するダンス」とは笠井さんの言葉。

舞台は、恐ろしい迫力。

シナリオ的には、多分「貨幣によって縛られていく現在生きる人への救済」のようなメッセージ性がかなりはっきり組み立てられているのですが、彼の身体が伝えるものは、そのメッセージを超越していて・・・身体の内側の・・・深く深く階段を降りつづけていく先にあるもの・・・アラヤシキ・・・なんて仏教でいうみたいなところの影・・・が突然舞台で爆発する感じで・・・

68歳なんて考えられない身体能力。
ありえない身体オブジェの構築。
動きの間に見えるラインの美しさ。

私の脆弱な身体と精神は、舞台に軽々引き摺られて、あっという間に時が流れてしまう。

最後は5億円分かな?という一万円札がダンサーによってフロアー全体にばら撒かれ、舞台の天井からも舞い落ちる紙幣がライトで夢のように輝く・・・中でのエンディング

続くトークショーでは、漫画家萩尾望都の、舞踏の本質に触れもしない素っ頓狂なインタビューが、とても魅力的で・・・「言葉で語る笠井叡」に対面しなくて良かったって気がしました。

夏休み映画鑑賞記録

金木犀が香る夜。澄んだ空に半月が光り、秋の虫が鳴く。

暑かった夏。クーラーを付けず過ごした節電の夏。
涼みに出かけた映画館で観た映画を、記録しておこうっと!

主観的感想文



「奇跡」  6月の京都イオンで・・・
   監督:是枝裕和
 幼い兄弟(まえだ まえだ)は、両親(オダギリジョー・大塚寧々)の離婚が原因で離れ離れになり、両親がやり直せる日が来ることを目的にそれぞれの日常を送っている。ある日「家族の再構築」という奇跡を起こす為、それぞれの友達と一緒に冒険の旅に出る。1980年代のアメリカ映画「Stand by Me」さながらに、冒険をモチーフに少年期の甘い時間を描く。といえば、それまでなのだが・・・開通間もない九州新幹線の登りと下りの列車がすれ違うときにおこるエネルギーが奇跡を呼ぶという設定は、ちょっと商業ベースにはまり過ぎているかも?
一緒に冒険する仲間の1人が、飼っていた犬が急死し、奇跡を祈るターゲットを急遽「犬の生き返り」に変更し、リュックに入れた犬の亡骸を持ち歩くという設定とか、不器用な兄と要領のいい弟の微妙な感情のもつれとか、是枝監督でないと描けない独特の景色があったりもするのだが・・・映像の美しさもさすが!
でも、どんな風に描こうが、オダギリジョーのセンス良さで補おうが何しようが、この映画には、大阪のこども漫才師「まえだまえだ」の雰囲気がイヤでも充満してしまう。吉本新喜劇とまではいかないけれど、どんなに、「ズレ」を演出してみても、人情味溢れる予定調和的浪花節の匂いが・・・
せっかくの、是枝監督とオダギリジョーの組み合わせなのに・・・ざんねん・・・でした。
でも、私にとって、生きている原田芳雄さんを、リアルタイムで観れたのは、この映画が最後。祖父(橋爪功)の友人という脇役なのだけれど、気迫溢れる存在感。さすがやなぁ~と思っていたら、そのすぐ後訃報が・・・。
    

「バビロンの陽光」  7月の京都シネマで・・・
監督:モハメド・アルダラジー
迫害を受けながらも、イラクの現実を伝えようという決意のもと、撮影を続けたモハメド・アルダラジー監督の問題作。
2003年、フセイン政権が崩壊してから3週間後のイラク北部クルド人地区に住む年老いた女性が、孫と二人で戦地に出向いたまま帰らない息子・イブラヒム(孫にとっては父親)を探しに旅に出る。ヒッチハイクで、バクダッドへ、バスに乗り継ぎバビロンの空中庭園、そして、息子(父)が収容されているはずのナシリヤ刑務所へ。結局父は収容所にも存在せず、集団墓地で亡骸を探す旅へと、目的が変わってしまう。亡骸とも対面できないまま、祖母は車の上で命を落とす・・・
過去40年間で150万人以上が行方不明となり、300の集団墓地から何十万もの身元不明遺体が発見されているイラク。監督は、その現状を世界に問おうと、映画製作を。
路上ですれ違っただけで、主役に抜擢したというヤッセル・タリーブ少年の目の表情が憂いを秘めて深く光る。祖母役の女性も女優ではなく、フセイン政権に息子を殺された経験を持つ女性だとか。
「死」への恐怖に襲われる少年に、祖母は恐らくコーランにある、アブラハムが神に息子を生贄として捧げようとした話をする。命は全て神に委ねられているのだと。アラブ語が話せない女性がイラクの中で受ける不便や、現実に生活上のあらゆる細やかな感情に生きているイスラム教など、胸に迫る事実が沢山ちりばめられている。
神と共にある命の美しさを、その砂だらけの風景が伝えてくれるのだ。


「死なない子供、荒川修作」   7月の京都シネマで・・・
監督:山岡信貴
2010年5月、急逝した荒川修作が残した「三鷹天命反転住宅」での暮らしぶりを中心に、「死」という運命があることに対して抗し続けた荒川修作の芸術観のようなものに迫っていく感じのドキュメンタリー。
監督である山岡信貴氏は、私は知らなかったのだけれど(というか、殆どのことを知らないので・・・)海外映画祭でも評価の高い芸術的映像世界を作り上げている人のようです。で、その彼は4年間、三鷹天命反転住宅の住人でもあったようです。
人が生活するということ。普通の場合、住宅会社が設計した四角い壁の、傾きの無い床の、高い天井の、まっすぐ続く廊下の・・・家・・・で。
住宅展示場のモデルハウスには、そこに置く家具の位置まで事細かにインフォメーションされているので、私の家のリビングに置かれているものも、隣の家のリビングに置かれているものもさして変わりはないような・・・その部屋で呼吸し、日々決まった時間に目覚め、決まった台所の動線上でパンをトーストし、コーヒーを淹れ・・・から始まる一日・・・が・・・繰り返されて・・・で・・・ある日それらは、突然終わるのだろうけれど・・・それが生きて死ぬこととして運命付けられているとしたら?
三鷹天命反転住宅の、丸い壁と天井や、まっすぐ背筋を伸ばせて歩けぬ部屋や、油断すれば躓いてしまう床の凹凸や・・・そんなものは例えば「森」の中では当たり前の空間なのだけれど・・・そんなところで生活することが生きることだとしたら・・・生きるとはイレギュラーな事象の連続になるのかもしれない・・・岡本太郎ではないが、宇宙に向けての爆発!を瞬間瞬間味わう可能性が残されているのかもしれない・・・
なんてことを感じさせる進行になっている。渋谷慶一郎さんの音楽が独創的で、浅野忠信さんのナレーションがかっこいい!
でも、ちょっとだけ不満を表明するとしたら、これって、映画にする必要があったんだろうか?まるで、NHKの芸術紹介番組のような感じで・・・。NHKアーカイブで観たような後味しか残らない。映画館の暗闇で観たという面白味がなかったような・・・
それは、作り手の「荒川修作」に対する無批判からくる退屈だったような・・・そんな気がする。


「ミツバチの羽音と地球の回転」    9月の奈良郡山城ホールで・・・
監督:鎌仲ひとみ

山口県上関町に建設が予定されている原子力発電所。
瀬戸内海の美しい湾、「田ノ浦」を埋め立てて建設されようとしている原発に対して、祝島の人たちが26年間も反対行動を続けている。その姿を克明に取材したドキュメンタリー作品。
瀬戸内海の豊かな恵みを受けて、海草や、魚を採って暮らす人々が、その生活の中で、原子力発電所は不必要だと、反対の声を上げ続けている。
埋め立て現場の海の上、埋め立て用の作業船と対峙する漁船の中で、漁師達が声を上げる。海に生きる人たちが、海の上で、ここは私たちの海だ。豊かな海の生物を殺すな!と訴える。それに対して電力会社の社員から返される言葉は「こんな過疎の島で、漁業だけでは生きていけないだろう!子どもたちに未来はないだろう!」・・・漁師から嘲笑が・・・「おおきなお世話だ。自分たちの生活は自分たちで決める!過疎だから貧しいと決め付けるな!あなたたちと価値観が違うんだ」

日本の原発産業は過疎化に悩む地方都市を犠牲にして発展してきた。3.11以降、汚染されてしまった日本の土地と空気は、経済的な効率性だけを重視してきた日本の発展の方向性に大きな警鐘を鳴らしている。
各地で起こっている「脱原発」のデモや様々なアクションは、これまでの政治闘争と違って、参加する人たち自身が、自分たちの生活そのものを見直し、生き方を考えようとして動き始めているものであることを示している。
残念ながら、上関町の町長選では「原発推進派」の町長が再選を果たしていたりするのだが・・・だが、町長自身が「原発は必要“悪”だ」と明言していたりする。

それにしても、海の上に浮かぶ漁船の中で、漁師たちが語る言葉は、なんとも自然で当たり前で、そして力強く美しいことか!




「ふたりのヌーヴェルヴァーグ」    9月の京都みなみ会館で
監督:エマニュエル・ローラン
ゴダールとトリュフォーといえば、映画に疎い私でもヌーベルバヴァーグという言葉と共に、薄っぺらな脳内にインプットされている。
映画を作り手という立場を超えた、批評の言説と融合して作成していくという1960年代フランスの青年たちのムーブメント・・・として、ちょっと知的でお洒落で・・・知っておかないと恥ずかしい的な・・・
この映画は、ヌーヴェルヴァーグ誕生50周年を記念してカンヌ映画祭で上映されたドキュメンタリーを、2010年に作品として完成させたものらしい。誕生50年。というのは、トリュフォーが「大人は判ってくれない」でカンヌ映画祭監督賞を獲得した1959年から数えてのことらしい。
当時のフランスで、大人たちの批判を浴びつつ、ゴダールとトリュフォー、若いふたりが映画作りの情熱に燃えて親交を深めていく様子が、残された数々の映像のコラージュで描かれていく。でも、抱えているものは確かに全く違う。貧しく生まれたトリュフォーが、その心の闇を持ちきれずジャンジュネに手紙を書いていたり、裕福に才能にも教養にも恵まれて生まれたゴダールが、研ぎ澄まされ表現に向かったり・・・
そして、あの時代が・・・1968年5月革命が、二人の進む方向に決定的な食い違いを生んでいく。社会性を持つことを表現の基軸に置こうとするゴダールに対して、トリュフォーは内面を追及していく・・・今もあり勝ちなすれ違い。
その二人に翻弄されるのが、ジャン=ピエール・レオーなのだが、映画には彼が「大人は判ってくれない」のオーディションを受けている時の映像も入っていて興味深い。
時代の風というか、フランスの最も活動的な時代1960年代は、やはりとても魅力的なのだ。


「大人は判ってくれない」     9月の京都みなみ会館で
監督:フランソワ・トリュフォー
主演、ジャン=ピエール・レオー  12歳の少年のやるせなさを見事な映像で描いてしまうトリュフォーの代表作。
少年に辛く接する母親。義理の息子に理解を示そうとしながらも、愛せずに終わる義父。厳格なだけで子どもの心など覗こうともしない教師。
恐ろしいほど「判ってくれない」大人たちに囲まれた少年の孤独。ほんま、やるせないわ。
体育の時間街中をランニングする少年たちが、街角ごとに姿をくらまし、それに気づかぬ体育教師がひとり街を走り続ける様子を、ビルの上からリズミカルに撮るカメラワークや、冬枯れの林にある少年院の景色とか、映画館ではしゃぐつかの間の幸せな家族の姿とか・・・
映像だけで、心が伝わる詩的な表現があり、それは私みたいにぼんやり映画を観ているもの心をも占領してくるから、さすが!やなぁ~と感心したりする。
映画好きの孤独な少年だったトリュフォーの自伝的な映画だとか。

冷たい熱帯魚         10月の京都みなみ会館で
監督:園 子温
立命館大学映像学部学生による企画第2弾とか・・・
気弱な熱帯魚屋の店主(吹越満)が、男(でんでん)の仕組む罠にかかり、猟奇的な犯罪に巻き込まれ、身の内から溢れる狂気のまま、血に塗れて死を迎えるという、恐ろしい物語。「愛のむきだし」「奇妙なサーカス」など、けっこうエグイ映画を撮る監督らしいということは知っていたのだが、映画を観たのは初めて。監督を招いてのトークショーがあるというので、よい機会と思って足を運んだのだが・・・
人は誰しも狂気を抱えて生きている。殺す、捨てる、犯す、騙す・・・狂気は特別なところにあるものではなく、奥深く、もしかしたら「愛」と表裏に隠し持つものなのだという気もする。
監督がトークの中で「日本映画は劇画に頼りすぎている。現実を描くことを忘れている」と語っていて、ああ、この映画は現実の事件を元にして作られているのだと知ったのだが・・・「愛犬家殺人事件」とか・・・
でも。映画はまるで劇画そのもので、「ふきだし」に書かれる台詞が物語を進行させていく感覚がシナリオを支配しているのだ。役者も「顔の表情」で演技をしている感じがどうしてもする。なので、まあ、現実をモデルにした劇画映画・・・って・・・。
私としては・・・って、オバハンとしては、トリュフォーのように、「映像が伝えるもの」を受け止めるのが映画を観る楽しみなので・・・この映画にはついていけないのだ。