備忘録(byエル) -28ページ目

三上寛だっ!

師走の日曜の夜・・・

大阪天六・・・・

古書店(ワイルドバンチ)・・・・

三上寛・・・


この何ともいえず、全てがみごとに揃ってしまった雰囲気に誘われて、


寒い夜だったにもかかわらず・・・

風邪の後遺症の体調不良にもかかわらず・・・

奈良から遠いにもかかわらず・・・


・・・コート、マフラー、手袋、おまけにマスク姿で出かけてきた。



三上寛さん。

坊主頭で、ギターを奏で、詩をがなる!

その遥かの時間の向こうで見た景色が、全く変わらず、そのままステージの上にあった。


寺山修二さんに影響を受けたと語る口調もそのまま・・・

深沢七郎さんが大好きという口元もそのまま・・・

鶏を思い出させる首の振り方もそのまま・・・

喉の奥深くから搾り出すような声もそのまま・・・


飛び出してくる言葉は、ギターの旋律に乗って、瞬間瞬間に聴く者の身体を通り抜けていくので、

それは物語としてひとつの形を作るものではない。

浴びせられる音階は、詩を支えるものとして、彼の身体を通り抜けるものとしてだけ存在するものなので、

流れてひとつの美しい波をつくるものではない。

音と音の間の空間は、彼固有の呼吸の間をするぬけてくるものなので、

必ずしも私の呼吸と共鳴するものではない。


前半、空間にしては大入りのギャラリーの吐く息で、会場は暑く、私は気分が悪くなったりして、ナカナカその世界に入っていけず・・・


でも、アンコール曲も終わり、拍手の音が鳴り止んだ瞬間に、不思議なことに、この身が異空間に取り残されているのが判ったのだ。


東北の、土の匂い、海の匂い・・・土葬され細胞の全てが土に溶け込んで、私という身体も魂も最後の一つの細胞までもが化学変化を起こして「東北」のものになったような世界。


寺山修二ほどの前衛性もなく、深沢七郎ほどの物語性もなく・・・もっと違う、芸術性に犯されない、そのままの景色、そのままのエネルギーだけが存在する世界。


そんなものに、私ごと、すっぽり包まれてしまった感じで・・・


「人と違うことをする!」


だなんて、彼は熱く語っていたのだけれど、何も語る必要はない。

むしろ、語ってなど欲しくない。


あなたのライブは明らかに、あなた独自のものなのだから・・・

ジュテーム

昨年の手の手術の最終章。先月末抜釘手術も終わり、昨日通院日。

で、京都に出たついでに、東福寺の紅葉見よう!と・・・

ところが、病院で手間取ってしまい、東福寺に到着したらすでに閉門時間やんか!?

残念ながら、中には入れず・・・

夢でまた逢えたら

夢でまた逢えたら












仕方なく、京都でラーメン食べて、それから今度は、東寺まで、
「京都みなみ会館」に、ふらっと立ち寄ったら・・・
ちょうど、映画が始まるところ。

それならば・・・と観る事に。

セルジュ・ゲンスブール監督
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」

ゲイの青年と、少年っぽい娘(ジェーン・バーキン)の恋というかセックスというかの物語。
アメリカの西部のような砂だらけの田舎町を背景にした、キッチュな映画で、恋の幻想をみごとに打ち砕いているのに、とてもお洒落・・・センスいい・・・不思議なことに、ゴミ置き場で働くゲイの青年がトラックに積み上げる汚れた便器までデザインになってしまっている。

ジェーンバーキンの痩身の裸体が、不思議な魅力をもっている。

で、音楽がまたええやん。
当時は発禁になったらしいけど・・・
http://youtu.be/Cxry2lhpWV8

孵化

ルドンの夢の中で

もうとっぷり日が暮れてしまって、あてもなく歩くことにすっかりくたびれてきたので、草むらにどっかり腰を下ろしてしまう。

ああ、今日は夕焼けを見る間もないくらい、一生懸命歩いたなぁ。なんて思っていたようだ。あてもないのに何故そんなに歩いているのかを自分に問うこともなく・・・だ。

東の山の上に半透明の白い月が浮かんでいる。日没の空気が、半月より少し太った白い月を引き連れてあてどない。

草むらからは鳥の声が響いている。

虫ではなく、確かにそれは鳥の声で、昼間の雨の所為でぐっしょり濡れた草が、腰から背中に冷気を伝えていくのを感じながら、鳥の声に耳を傾けていると、それら鳥たちの声が、姿のない声ばかりの鳥たちの声が、鳥類ではなく哺乳類に生まれるほうが幸せだったとか、哺乳類ではなく鳥類に生まれたからこそ空を飛べるのだとか、空を飛ぶ為の羽根の所為で手なんてものを持てなかったから道具すら満足に作れないじゃないかとか、道具を持つのは哺乳類の中でも人間だけだとか、人間は道具で地球を壊すからダメだとか、でも夜の雨に震えなくてすむ屋根のある家を持てるとか、屋根なんてものに縛られるなんてつまらないとか、やはり空を自由に飛べる幸せは何にも変えがたいとか、しきりに言い争う声が、鳥の鳴き声ではなく人間の声というか言葉というかに形を変えて、あたりにコロコロ転がり続ける。

やがて、それらは、空を飛べるかどうかなんてものに取り替えることが出来ない悲しみが我々にはあるじゃないか、と、「取り替えることの出来ない悲しみ」という言葉が聞こえた瞬間、パタッと静かになり、しばらくして、「そう、あれがね。」というのを最後に鳥たちの声は一切聞こえなくなってしまう。

草むらの静寂は、空の月がすっかりオレンジになったことを気づかせ、同時に闇が迫った気配が苦しいように迫ってきているのが分かったりする。

お腹がすいたのでおにぎりをリュックから出そうと思うのだけれど、日曜日に山に登る為に買ったばかりのリュックは何故か複雑な紐があちこちについていて、どこから解いていいのか判らないまま、おにぎりもほうじ茶のペットボトルも出せないでいる。

草むらを渡る風が冷気に覆われている背中を撫で上げた。

ううっ。

とうめき声が聞こえ、いつの間にか身を寄せていた、草むらに一本だけ根を張っているなつめの木の細い枝から、身構えた肩の先に粘り気のある液体が零れ落ちるのを感じた。というか確かそんな感じの雰囲気に取り囲まれる。

粘り気のある液体は、生き物の匂いを発散させているので、誰かのなのか、何かのなのかの、体内から漏れ出して流れ始めたものだと判ってしまう。

「あれ」に違いなかった。

「そう、あれがね」と鳥たちを黙らせてしまった、飛べるかどうかすらどうでもいいと思わせる「あれ」が始まったのだ。

身構えた肩の先で起こっていることを見届けようと首を捻じ曲げて「あれ」を見ようとするが、「あれ」は木の枝の根元の、もうすでに深くなってしまった闇の中にあり、身構えた肩を掠める視線では捉えることができそうにない。

捻じ曲げた首は恐らく止むことを知らない様子でどんどん捻じ曲がり続け、地面と平行方向に360度回転した後は、上方向に90度捻じ曲がってしまったので、地面以外の全てを視界が捉える形になったのだが、それでも闇が深まる速度には追いつくことはできなかた。・・・ので、腰をあげようとするが、風が冷気を強め背中の全部と腰を羽交い絞めにしてしまっているので容易には腰は上がらない。腰すら身構えているのだがそれは寒さの所為だ。・・・なのだが、気づくと立ち上がっていて、立ち上がっていて、立ち上がっている。

鳥が孵化するようだ。

木の枝の根元近く、葉を編み合わせてできた歪な籠の中に、まん丸の形をした卵が一つ、僅かに鼓動のような揺れを内包しながら転がっているのが目に入った。それは、硬く艶やかで、マイセンの陶磁器のように冷たく白かった。

やがて、小さな破壊音と共に白の光を放つ卵の殻に小さな穴が開けられ、雛の小さな嘴が殻を内側から打ち割ろうとしているのがかすかに見えた。空けられた穴は線上に伝わり始め、殻に細い鋭利な亀裂を走らせていった。

雛は休むことなく殻を内側から壊し続け、一本・・・二本・・・三本・・・の先、四本目の亀裂が殻の上を走ろうとしていた。あけられた小さな穴からは、雛を包んでいる羊水が漏れでていて、それは木の枝を伝って地面へと垂れていたのだ。こうして、すぐに体液で羽を濡らしたままの雛が、小さな目を閉じてこの草むらに生まれてくるのだろう。

鳥ではなく、さなぎが蛾に孵化するのは小学生の頃見たことがある。母親に内緒で庭の芙蓉の木にとまっていたさなぎを部屋に持ち込んで、蛍光灯の下、それが孵化するのを見ていた。さなぎから徐々に姿を現してくる蛾の成虫は、やはりびっしょり濡れていて、風呂上りの老婆のように悲しかった。19歳の夏、処女ではなくなった夜の下着を母親に隠れてこっそり風呂場で洗った時、何故だか孵化する蛾を思い出したりもした。

もうすぐ、雛が体液をつけて食い破られた殻から出てくるのだ。

一本目の亀裂はもう、その後に破られた亀裂と一つになって、そこから雛が出てくるに足りる大きさの穴が開いているかもしれない。と、一本目の亀裂に目をやると、不思議なことに深くあったその裂け目が、消え始めようとしていたのだ。それは、まるで一時間も前に飛行機が空を引っかいて作った雲のように、穂を開いたように薄まり、頼りなげに形を崩し始めてしまっている。飛行機雲が空の青に溶けてしまうように、一本目の亀裂が跡形もなく消え入ってしまうまでに、そんなに時間はかからないはずだった。

そうして、間もなくというスピードで、一本目の亀裂は形もなく消え去ってしまった。諸行は無常なり。無常こそが諸行なり。始まりは終わる。終わりは始まる。やがて二本目も消え、三本目も消え、四本目の亀裂も消える。五本目の亀裂が走り、消え、六本目の亀裂も走り、消えた。

雛は亀裂を作り続ける。出来上がったばかりの柔らかな嘴から血を流しながら、何度も何度も殻を打ちつけ裂け目を作るのに、裂け目はやがて草の絮のように頼りなげにぼやけていき、もうすぐにでも元通りに卵の殻は補修されていく。それでもまた、最初から幼い唇を殻の内側に打ち付ける作業を、徒労に過ぎないような作業を、繰り返し続ける。まるでそれは、転げ落ちる重い岩を永遠に山頂へ運び続けるシジフォスの悲劇のような恐ろしい永遠の苦悩だ。

闇はますます深まっていく。

・・・はずだった。

が、オレンジだった月が天空の高みへどんどん位置を変えていき、それにつれて光度が強くなっていったのだ。オレンジからレモンへ、レモンから青い光線へと、空を昇るごとに月が光を撒き散らしていく。そして、孵化しようとする卵の殻に四十本目の亀裂が走り消えた頃には、草むらの真上から透明な青い光の帯が、なつめの木の細い枝を根元ごと照らし始めていた。

青い光を浴びた卵は、白い陶磁器のような肌から受けた光を反射させ、きらきらと青く輝き始めている。卵ばかりではない。その光は草むらの全てに注がれていた。

草むらは今、静寂の中、無数の草の様々な形や色が、天空からの青い光の思いのままに、光と影の不思議なオブジェへと姿を変えている。

風もなく音もない。全ては光の意のままにあった。ゆらめくこともなく光と影は、怜悧に草たちの形を固定してしまうのだが、それでもそれは明らかに何者かの意志のままに存在していると、そのように「あろう」としていると、そのような生命の必然への自覚の空気を持っていたのだ。

親鳥はどうしているのだろう?この運命のような光の中で無限に繰り返されていく雛の戦いを、親鳥はどこで見守っているのだろうと、光の帯を辿ってみたが、草むらのどこにも、親鳥らしいものの姿は見えなかった。雛の孵化に親鳥は立ち会っていない。何故だ?何故親鳥は立ち会わない?雛の終わりのない、無限かとすら思われる苦悩に満ちた孵化の場に何故親鳥は立ち会ってはいないのだ?

今まさに天空から草むらを覆い尽くしている月明かりの下で、何度でも孵化は「始まり」を繰り返し続けているというのに。

眠っていたようだ。眠りの中で夢が中断してしまっていたのかもしれない。

目覚めると、つまり、夢が中断から覚めると、草むらに深く身を横たえていた。すでに天空を支配していた月の光は西の空の向こうへ姿を消していた。

紫色の雲が澄んだ風に身を委ねて薄青の空を流れていく。空と「地にある草むら」の間にある全ての空間は、薄い靄に包まれている。夜明けが近いようだ。

東の空に少しの赤みが差し始めると、とても小さく鳥のさえずりが聞こえ始めた。

鳥たちは地にある草むらの茂みの中で、ちっちっと、とても小さく美しい声を上げる。新しい風が草むらを吹きぬけ、何千の色と形を持った草たちを同じ方向に傾けていった時も、鳥たちは静かで優しい音の重なりを奏で続けていた。

月が沈み、日が昇る。地球の命の長さの分だけ、日ごと繰り返される夜明けの風景の中で命と名づけられたものたちが、一つずつに「始まり」と「終わり」を持つ摂理だとしても、月が沈み続け、日は昇り続ける。繰り返される個々の「始まり」と「終わり」を内包しつつ、月と日が変わらぬ軌跡の中に居続けることには変わりはない。しかし、それすら地球の命の「始まり」と「終わり」に抗うことはできないのだが。

また風が渡り、草たちはその様々な色と形を持った姿態を、風の方向へと傾けてそよいだ。遠くへ遠くへ、そよぎは伝わり、視界から見えなくなってしまう遠近法の支点の先で消えてしまう。

視界の届かない先で例え草が風の方向のまま姿態をなびかせていたとしてもそれはもうないことになるのですよね。と、声がまた転がり始めた。

声の先を探すが、昨夜と同じように声ばかりでそれらは姿のない鳥たちなのだ。

それは空を飛んでいたって同じこと。視界にはやはり限度があるんだとか、視界っていうんだから「視」ではない「界」があるのは当たり前とか、つまり「視」ではない「界」でも昨夜のようなことがおこっていても、我々にはわからないってことなのだとか、我々にはこの草むらの鳥類のなかで起こるしか認識できてないとか、相変わらず言葉のようなものがころころ転がり落ちていく。

「昨夜のようなこと」は、間違いなくあの恐ろしい孵化のことを差しているのだろうが、昨夜彼らは一体どこであの孵化を見ていたのだろう。月明かりの中に存在しなかった彼らが・・・といっても彼らは元々姿を持たないだから、月明かりにそれらの影が映らなかったといっても不思議はなかった。もしくは、夢の途切れた間の草むらに彼らはいたのかもしれない。

じゃあ、我々の「あれ」は我々以外の何だというんだ!と怒りをぶつけるような震える声が大きく転がっていくと、草むらには何百羽の鳥たちが一斉に飛び立つ羽音が響き渡った。羽を強く上下に動かす音は、朝の澄み渡った空気を一気にすさまじく振動させ、沸き立った空気は鳥の飛来に引き摺られるかのように、上へ上へ蒼穹の果てを目指してうねりながら上昇する。うねった空気は渦巻きのつむじ風となり、天から地へ、地から天へ、と無秩序に草たちを激しく揺さぶっていく。草たちはつむじ風に葉やハナビラやメシベやガクやタネや身体の一部をもぎ取られ、体液を垂れ流し首を折りぶつかり合いもつれ合っている。朝の平穏な草むらの空気は今荒れ狂う嵐と化し、あらゆるものを投げ倒していこうとするのだが、この時もまた、まだ穂を持たないススキや、えのころ草、かやつり草やよもぎや、めひしば。数百の名を持つそれらの草花が、突然のつむじ風に身を任せ、その意志のままに激しく揺られ続けていたのだ。

何か得体の知れない大きな意志のままに身を置くものとしてあるという強い覚悟が、草むらを満たしていた。

そして、つむじ風を引き摺ったまま飛び発ったはずの鳥たちの姿はやはりそこにはなかった。

姿のない鳥たちが飛び去ってしまうと、やがてつむじ風も吹き荒れるのを止め、草たちは、もう東の空にすっかり姿を現している太陽の新しい光を受け、姿を無数の色に染め、草原の静寂を作り始めるのだ。まるで、そこにそうしたままあったかのように。

何かが空から降りてきている。

ふわふわと羽毛のように風に乗りそれは下降してきた。

丸い物体が空からゆっくり降りてきて、風の上昇と重力の下降の間を、ふわふわ揺れながら、それでも地にある草むらにどんどん近づいている。

それは色も手触りもないような糸で、編みこまれて作られた透明な鞠のようだ。太陽の光線を僅かな限られた一部の光だけを反射をしているようで、不思議な質量をもって、透明なのに、そこに「鞠のようにある」ことが見て取れた。

落ちたかと思うと、すーっと風に舞い上がり、舞い上がったかと思うと下降し、どれほどの時を鞠は浮遊しただろうか。鞠がようやく草むらに辿り着いた頃、太陽はすでに、天に昇り、色を失い、熱量と光線のみの姿で地を包み込み始めていて、草に埋もれた鞠の透明な姿態を遠慮なく照らしていた。

太陽の光を真正面から受けた、色も手触りもない糸で編みこまれた鞠の不思議な反射が伝えてくる質量の向こうに、「あれ」がはっきりと映り出されていた。

孵化した卵だ。

無限に続くかと思われた孵化の始まりは、終わりを迎えることなく固定されてそこにいた。

透明な卵の中には、顔があった。皺だらけの、頬には茶色いシミが点在する、顎の皮が垂れ下がってしまった老婆の顔が、顔だけが、遠い視線でそこにいた。

顔だけになって、雛が、太陽の熱量と光線に晒されて、透明な鞠の中でじっと遠くを見つめて、かすかな生き物の匂いを発散させて、そこにいた。

苦悩に満ちた表情を透明な殻は隠してはくれないのだが、雛はすべてが晒されることにも無頓着に太陽に晒されて、そこにいた。

わずかに草むらを風が渡る。無数の色と形をしたそれら草たちが一斉に風の向きに身を傾け、傾けた葉の先で雛を包み始めた。

草たちの揺らぎは優しく滑らかでかすかなものだったが、確実にそれらの葉の先は、触手のように透明な鞠の中の雛を、苦悩を抱えた雛を包み込んでいくのだ。

つむじ風に折られてしまった草たちの身体からは、甘い蜜のような香りが立ち上り、それらは耕された後のような土の匂いと一つになって、草むらと雛を包み込んでいた。

太陽に照らされて、息苦しいばかりの草いきれと土の香りの中で、苦悩に満ちた顔を晒されたまま雛は遠くを見つめ続けている。

そして、雛がやがて土の中の微生物に侵食され、溶かされ、土に深く抱かれて土とひとつになってしまう時まで、草むらのその柔らかい匂いと触手で、雛の苦悩は包まれていくのだろう。

眠っていたようだ。眠りの中で夢が中断してしまっていたのかもしれない。

目覚めると、つまり、夢が中断から覚めると、もうとっぷり日が暮れてしまって、あてもなく歩くことにすっかりくたびれてきたので、草むらにどっかり腰を下ろしてしまう。

ああ、今日は夕焼けを見る間もないくらい、一生懸命歩いたなぁ。なんて思っていたようだ。あてもないのに何故そんなに歩いているのかを自分に問うこともなく・・・だ。