備忘録(byエル) -26ページ目

動くな・死ね・甦れ!(2010年.mixiの日記)

先週土曜日、カネフスキーが好き!という人と話をしていた。
そういえば、mixiに、カネフスキーの映画を見たときの感想を書いていたなぁ・・・・
って、2010年の2月の日記を転記することに・・・
この日記を書いた次の日、引き寄せられるように映画館に出向き、「ひとりで生きる」を観たんだったなぁ~なんて、思い出したりして・・・
あんまり大したことも書いてないけど、まぁええかっ





1月、ニアミスで見逃した映画「動くな・死ね・蘇れ!」と「ぼくら、20世紀の子供たち」を昨日京都で観てきました。

『動くな、死ね、甦れ!』(カンヌ国際映画祭カメラ・ドール賞受賞作)、
その続編となる『ひとりで生きる』(カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作)、
『ぼくら、20世紀の子供たち』の3部作を撮りあげながら、
その後は忽然と映画界から姿を消してしまったロシアの天才ヴィターリー・カネフスキー。

という20年ほど前の話題作なのですが、リアルタイムで観ることなく・・・

何故だか、昨年くらいから全国で特集組まれているようです。

「動くな・・・!」は、第2次世界大戦後のソ連で強制収用所のある町が舞台。荒廃するおとなたちの精神を前に、少年ワレルカがいたずらというには度を過ぎた冒険を始める。

小さな心のやるせなさ、おとなへの優しさと反抗・・・少年を母のように支え続ける少女ガーリヤとの幼い恋心。
そんなものが、スターリン政権下のソビエトへの批判の文脈や、貧しさにおとなの心が荒んでいく景色ので描かれていくのです。
「おとなは判ってくれない」や「小さな恋のメロディ」を超える!
なんて、フライヤーに書かれていたのだけれど、むしろゴーリキの「どん底」を彷彿させる景色の重厚さは、さすが、ロシア映画!って感じ。
躍動感のある少年の逃避行や、ラストシーンの飛躍に、「どん底」を突き破る「自由」への希求があり、サルトルがいうアンガージュマンみたいなものを感じるのですが・・・監督に関しては何の知識もないので思想的背景は不確かです。

雪に覆われた極寒のロシアの、炭鉱と収容所がある街の風景はモノトーンの映像の中、いやでも切なさを見る側に運んでくるのだが、ワレルカの内向しない反抗のあり処は、限りなく力強くて・・・
五木の子守唄。よさこい節・・・収容所送りとなった日本人が歌うこれらの歌が、モノトーンの映像の向こうに何度も流れるのだが、それは、映画の意図とは別のところで、ソ連の収容所での過酷で誇りを奪われる生活を強いられていた日本人の悲哀を思い出させて・・・心に痛かったりするのです。

娘を失って発狂し全裸で画面に踊る母親を映し出し「ほかのものはどうでもいい。彼女だけを追うのだ」というカメラマンへの支持?の言葉を最後に映画は終わったのだが、エンドローグの
字幕もなく、プツッと画面が切れ、映画館の椅子の上突然戻されてしまったので・・・私はちょっと現実と映像の世界の整理がつかず、帰り道でも映像から降りることができない感じになってしまいました。
そして、整理がつかないまま夜を終え、朝の光の中でようやく私の日常に帰ってきた感じがしています。

久々に深く入り込む映画で、朝から家事もせず、とりあえず書きとめておこうと(パソコンが壊れてもmixiは残ると知ったので・・・)日記を書いています.

さぁ!ほな掃除しよっと!
ってどんな主婦や??

東北へ



  詩集「眼のおくの海」辺見庸 より
死者にことばをあてがえ

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べらない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
(中略)
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畦唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで



震災後数ヶ月経ったころ、NHKの番組で辺見庸が、この詩を朗読するのを聞いた。
画面には、降りしきる雪と寒々し風の中、津波に流され海へと運ばれていく民家の映像が流れており、その画に呼応するように彼がこの詩を朗読していたのだ。
聞いていて、涙が止まらなくなった。
人が死ぬことの悲しさではない。津波の恐ろしさではない。
震災からのち、初めて私は心に触れる言葉に出会ったのだ。
身の内に溢れるような感情を受け止めてくれる、そんな言葉に初めてであった。
いっぱいの苦悩を、受け止めて解いてくれる。そんな言葉に初めて出会った。

震災以降、被害の状況が過度とも思える観点で日々報道されていた。
亡くなった方の恐怖や無念。残された人の哀しみ。絶望。明日に向かって立ち向かおうとするたくましい笑顔。それは、とても重要で大きな問題を見るものに問いかけるものではあった。

でも、辺見氏の視点は、そのどれとも微かに違う。
彼の視点が捉えているのは、名もない死者なのだ。かれは裸の死者そのものに眼をむけ、そのひとりびとりにことばが置けるまで100年かけても向かい合うと。

生前の様々なもの、彼や彼女が抱えてきた多くのもの・・・から語るのではなく、名もない死者として、裸の死者として、かれらに眼を向けている。
でも、それは決して被害の人数「○○名が死亡」と報道される、その死者ではない。類化しない統べない存在としての死者なのだ。
わたしの死者よどうかひとりでうたえ
なのだ。
これ以上に死を深く正当にまがいものなく、受け止める言葉に、私は震災後の混乱のなか、初めて出会った気がした。
そして、それは私自身が津波で流された多くの命に対して混沌としつつ持っていた思いと恐ろしいほど一致したのだ。

その後、「眼のおくの海」として、編まれた詩集を、すぐに買い求めた。
「眼」とは、「正法眼蔵」全てをあかるく照らして視せるという意味が込められているのかもしれない。
すべてをあかるく照らしてみせるというときの概念として「海」
海はいのちの生まれるところとしての海だろうし、いのちが帰るところとしての海だろうし、奇跡のように陸に上がった生物が愛して止まない自然の摂理をもつものとしての海なのだろう。
その「眼のおくの海」がこのたびはいきなりわたしの眼からふきでてこんなにも海となった
と・・・それもまた、わたしが混沌と感じていた驚きそのものだった気がする。
そのようなものとしてしか存在してない、わたしと死者。そのことを明らかにしてもう集束せず、ばらけた数珠となってわたしは暮れていく・・なんて、要約が乱暴なのだが、詩評ではないから・・・


由上由美



先週のこと
石巻から、南三陸、気仙沼を車で走ってきた。
津波の傷跡の激しい海辺の土地に立ち寄りながら進む、過酷な2泊3日の旅。



由上由美




東北の温泉地にお金を落とす。という大義名分で、私は、津波が連れ去ったもののなかで、辺見庸さんが、見ていたものを視たいと思っていた。




由上由美


流された家の跡地には、まだ粉々に砕けたガラスの破片が散乱していて、土には人形やボールペン靴や食器が埋まっていました。


遠くからの景色はテレビの映像と大差はなかったのだが、近づくと、様々な生活の痕跡が土に深くまたは、浅く埋まっていて、私はその上に靴を置き、一歩一歩に体重をかけて踏みしめていったのだ。



  
いくつもいくつも、無数に歩を進め、そのたびにその土を踏みしめ、土から伝わってくる死の気配を足から、足の根元へ、足の根元から腰へと腹へと心臓へと押し込んでいった。



由上由美




死者はすぐ目の前にいた。

わたしはその時、壊された生活の悲惨とか、残された人々の明日とか、復興への連帯とか、ましてや「絆」とか・・・そんな言葉から遠いところに立っていた。
名もないものとして、ただの死者として、そこに溢れる気配だけを感じる場所にたっていた。


          詩集「眼のおくの海」辺見庸 より
     
眼のおくの海   ―きたるべきことば

ひとしずくの涙に
莢蒾(ガマズミ)の赤い実を映したまま
ずっと網膜のうらにひそみ
このたびは
いきなりわたしの眼からふきでて
こんなにも海となった
あなた 眼のおくの海

 (中略)
嬌めなおしにきたのではないだろう
試しにきたのでもないだろう
罰しにきたのでもないだろう
莢蒾の赤い実のほかは
一個の浮標もない
あなた 眼のおくの海
 (中略)
わたしはずっと暮れていくだろう
繋辞のない
切れた数珠のような
きたるべきことばを
ぼろぼろともらい
わたしの死者たちが棲まう
あなた 眼のおくの海にむかって
とぎれなく
終わっていくだろう

文春3月号(芥川賞作品)のこと

久しぶりに窓から日が差し込む午後のリビング。本当に久々の陽射しになのだから、お散歩でもすればいいのに・・・買ってきたばかりの文芸春秋3月号をホットカーペットの上、膝に毛布かけて読んでいた。

芥川賞の2作品。

円城塔(城?塔?)さんの「道化師の蝶」と、テレビでの会見での石原氏とのやりとりで、やおら名を上げた田中慎弥さんの「共喰い」

読んでいたのだが、「道化師の蝶」は実は最後まで読むのに、少し努力がいったりする。読むのに飽きてしまったのではないのだが、疲れてしまった。

以前、中原昌也さんの「あらゆるものに花束を」を読んだとき、これはノイズ小説だ!なんて日記に書いたことがあったのだが、円城さんの文章はまさに、乱暴なまでのノイズ小説です。

って、「ノイズ小説」なんて言葉は、この世に存在せず、私が勝手にそう言っているのですが・・・

先日喋った友人から、「日記に出てくる言葉が分かりにくい。言語を共有するなら説明が必要」と忠告されて気づいたのですが、「ノイズ小説」なんて勝手に書くのは乱暴ですよね。

メロディーもリズムも持たない「音」というものは、でもやはり「音」なのだから何らかの表情を持っているわけで「長さ」とか「弾み」とか「ひっかけ」とか「音階のようなもの」とか、そんなものがある「雑音」のもつ表情をうまく掴み取れれば、それはそれでしか表現できない音楽になる。みたいな感じで、筋立ても、意味も、もたない文節(言葉ではない。言葉だと詩になるのかも?)は、それでもある表情をもっているので、それを組み合わせていけば、小説になる。みたいな小説。

筋立てがないのだけれど、景色の断片がある匂いをもって心に残ったり、意味を感じられそうなのに、最後に裏切られたり・・・そんなことを繰り返しているうちに、見えないものが見えるような、聞こえないメロディーが聞こえるようなそんな感覚になるような小説・・・。確かに今までにない小説だけれど、それがいいのか悪いのか???よう分からんわ~。読むのに疲れました。


田中慎弥さんの「共喰い」は、小説らしい小説だったので、こちらは、一気に読むことが出来ました。

「川辺」という、河口付近にある澱んだ川の流れる集落の中、暴力的なセックスマシンのような父の息子として生まれた高校生の主人公の、荒ぶ心みたいな感じで・・・いわゆる父と息子。エディプスコンプレックスとか、父の狂気の血への恐怖とか・・・古典的な主題っぽいのですが・・・

でも、「川辺」に流れる時間の特異さが、ちょっとおもいしろかったりする。
川は、下水をそのまま垂れ流されているので、夏には糞尿の匂いが充満するような澱んだ川で、しかも河口付近だというのに、海へと広がる「開放」を持たず、反対に海から水が逆流してさえくるようなものとして描かれているのです。「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」でなく、常に停滞し、時間が止まり閉ざされているのです。

そして、登場人物は誰一人「しごと」をしていない。母は魚屋なのだけれど、義手で魚を突き刺して捌く描写こそあれ(それは最後の夫殺しの伏線でしかない)魚を売っている場面は描かれていない。父も意味の判らない闇の稼ぎのようで、これも「しごと」ではなく、父の愛人も酒場で働いているらしいが、家にいて飯を炊いているかセックスしているかという場面しか描かれていない。

生活から切り離された場所。社には猩猩のようなこどもたちの姿があり、魔術師のような売春する年増がいる。
鰻釣りも、労働ではなく、釘針で頭が裂けて吊り上げられる鰻の描写(夫殺しの伏線)としてのみ描かれる。

停滞する濁った空気に包まれてしまった「川辺」という場所で、時すら止ってしまった中で、暴力的なセックスと、殺戮への進行。
時空の停滞・・・「・・・今年の夏ばかりか、川辺の風景や人の時間までが運び去られてしまう・・・」「男たちは太った時間を必死で押さえつけ、引き裂き・・」
時間に関する粘った表現が随所に書かれていたりする。

田中慎弥さんのほかの作品は読んでいないのですが、作家の目が、生活する「この場」ではなく内向する異空の停滞する「場」を見つめ続けているような気がしてしまうのです。

って、お散歩に行かない晴れた午後、部屋にこもって文春読んでる私の停滞は?

さぁっ! 洗濯物入れてご飯作ろっと!