劇団態変「ミズスマシ」
開演を告げるスピーチが終わった時には、すでに舞台は朝もやに包まれていた。
まだ客席の照明も付いたまま、観客たちは手荷物を整理したり、少しのお喋りをしながら、幕が開くのを待っている。
緞帳のない舞台には、奥に階段が2本天に向かって伸びていて、その前に吹奏楽器をひっくり返したような、いぶし銀の冷たい木が複数立っている。
その幻想的な舞台装置の間を、朝靄のようなガスがゆっくり流れていた。
それはまだざわめきを止めない観客を、すでに舞台へと誘っていたのだ。
暗転。
まるで逃亡者を探し出すサーチライトのように、ライトが客席を隅から隅まで嘗め回して観客ひとりひとりを映し出していく。
もう逃げ道はない!切羽詰まった舞台と観客の関係を象徴しているかのような始まり・・・。
舞台が明るくなると、舞台の中央、池のようなエナメル質の敷物の上で、役者たちが死んでいた。
いつ死んだのだろう。
朝靄に包まれた無機質な山の中に、死体が無造作に転がっている。
美しい死体ではない。すでに腐り始めた死臭漂う死体だ。異形の者たち。この世のものではない者たち。
やがて、わずかに痙攣を繰り返し、死体が蘇る。水面に浮かぶ腐敗した死者が蘇っていく。ゆっくり・・・時間をかけて不規則に・・・
ここまでは、始まりのわずか数分に起こった舞台の景色だ・・・なのだが、私はすでに、劇団態変の役者たちの凄まじい演技に、魂を掴まれてしまっている。
劇団態変というのは、大阪を拠点に活動している、身体に障害を持った人たちだけの劇団だ。
主宰の金満里さんは自らも障害者であり、障害者の持つ身体の中にある高い芸術性を舞台に置くことに、果敢に挑戦し続けているのである。
たとえば、この死者たち。もちろん、役者の「死」を掴むための切迫した抽象性なくして、この異形の崇高性を表現出来はしないのだが、加えて、彼らの肉体自体の存在感が、この風景を作り上げていることもまた、否定できないのだ。
手足がない・・ということ。からだが曲がっている・・・ということ。
それがなければ、この言葉にできるわけのないような、ある異形さの境地は、表現できなかったかもしれない。とも思えるのだ。
つまり、身体の不思議な現象・・・とでもいうようなものを、演出家が、真正面から一歩も目をそらさず見続けることによって、その身体の持つ芸術的な魅力・・・命そのものの真ん中に突き刺さるような芸術性を、創作していくという過酷な作業に、劇団態変は、挑戦しているのだと。
死は、永遠の宗教的芸術的課題である。
しかし、幕開けいきなり目に飛び込んできた劇団態変の「死体」ほど、それを観る者の目に深く焼き付けてしまう舞台を、私は他に知らない。なんの暴力性も、抒情性も持たず、現実を言い放つ責任放棄でもなく、丁寧に向き合う決意を突き付けられた。そんな感じがするのだ。
サーチライトに照らされて、この舞台の共犯者に仕立てられた私という観客は、舞台の片棒を担ぐ形で、進行を目撃していくことになる。
水色のレオタードを着た役者たちが、舞台の四方から中央のメタルな池に向かって転がってくる。
それは、ただ、ごろごろ体を転がして移動してくるのだ。そこには、なんの統一性も存在しない。音楽に合わせて一斉に転がるのでもない。即興で演奏されるウォン・ウィンツァン氏のシンセは、転がる肉体を先導することは決してない。静かに、単調に音が会場に溢れていくのだ。
役者たちは、自己のペースと感覚で、自在に不自由に転がるのだ。決して音楽にも、舞台に転がる他の肉体にも譲歩することはない。自在に不自由に、中央の池を目指して転がり続ける。
音楽も、ひとりの役者も、他の役者も、もしかしたら、観客も・・・不揃いに、不規則に、その場全体が、てんでに転がっている。
でも、ときどき、自在な者たちがぶつかることがある。その時、彼ら、ぶつかった肉体たちは、相手を拒絶することなく、ぶつかったという出来事をそのまま受け止めて、足を絡ませたり、他者の「からだ」にのっかたりする。
そしてその時、シンセもまた、絡んで音色を変質させ、それに呼応するかのように観客は固唾を吞む。
窓を滑る雨粒が、重力に身を任せて、てんでに自由に零れ落ちながら、それでも、他の雨粒とぶつかったとき、急に運動の軌跡もスピードも、塊の大きさも変化させ、瞬間だけ質量の違う何か予測不可能な動きをする。そんな感じだ。
次元が変わる・・・のかもしれない。
無機質ないぶし銀のオブジェが舞台の前方に置かれていて、それが現実と、舞台という次元の違うものの境目・・・境界のエッジを感じさせたりする。
つまり、高次元の世界との境界で起こることを、三次元の舞台が表現しているのだ。そんな装置が施されている。
その永遠のように繰り返される「転がり」と「ぶつかり」は、やがて、舞台の真ん中で、最終の、誕生の、全体の「ぶつかり」へと運動を変化させ、シンセも、ここで質量を変えて爆発音を奏でるのだ。
暗転。
次に静かに階段を登る人が描かれる。
静かに・・・なのだが、ここでも脳性まひを持った役者の動きは危なっかしく、階段を登るという動作に、あるズレを感じさせるのだ。
時空に開く、微かなズレ。其処から見える異界への誘導・・・。
階段の上で虚空を見上げる彼は、確かに、「ぶつかる肉体たち」が掴んできた、異次元への扉を目にしていたのだ。
ところで、この舞台は主人公と思われる、進行役の役者が存在する。
彼は旅人のように、杖をつき(というか振り回し)ぼろぼろの服を着て舞台を横切ろうとする・・・のだが、様々な精霊というのか、それこそ異界の神の迫害にあうようなのだ。
僅かな所有物のぼろ着すら引き回され、脱がされてしまう。
彼は苦悩の中、それでも飄々と旅を続けているのだ。彼のあっけらかんとした明るい身体は、演技なのだろうか?それとも、役者の持つもともとの身体性なのだろうか?ここでも観客は、脳性まひの役者の身体に、超越のような魂を見つめることになる。
この恐ろしい摩擦の中、彼は何を目指して飄々と前進しようとするのか?
その真摯な明るい前進に、どこか心の奥から自然と涙が溢れてきた。
3人の女優さんたちの舞踏?は美しい。
色とりどりのレオタードは、彼女たちの不揃いの肉体をそのラインにそって映し出し、舞台を移動し続ける3人のコントラストは、実に美しい。
人の肉体が、こんなにもなまめかしく、揺れ動き、命を感じさせ、呼吸そのものを表現するのは何故なんだろう?体のあらゆる部位をフル活動させる彼女たちの移動は、身体に一点の隙も なく、揺れる肉すら切実さを持ってそこにあるのが観る側に伝わってくるのだ。
沖縄音楽に合わせて、静かに手を揺らせて移動する女性の、突然の叫び声は、私の背中を凍らせてしまう。そう、それが私の叫びなのか彼女の叫びなのか分からない、そんな感覚で、体の奥深く仕舞い込んでいた生きること自体の深い苦悩が、私から叫び声を上げて飛び出してくるのが分かるのだ。
もう、彼女のからだと私のからだは、すでに一つになってしまっている。
私と彼女を隔てていたすべては、次元を超えた空気の中、消え去ってしまって、彼女の叫びは確かな私自身の叫びとして、ホールに木霊していた。
みずすまし・・・水と空気の接するエッジで、その境界の微かな線上で、自由に遊ぶその生物の動きが、水と空気の非対称性を打ち破るように、劇団態変の舞台は、私と舞台空間。私と役者の境の微妙を打ち砕いて、ある魂(霊性と置き換え可能だろうか?)のようなものに、触れさせてくれる・・・そんな舞台だった。
観劇の後、続く日常の時間から、私の身体が少し位置を変えてしまったのが分かる。
それを言葉で表現するのは難しく、なので取りあえず、よき舞台を観ることが出来た感想を、ブログにアップしておくことにした。
http://www.aihall.com/lineup/gekidan42.html
ロシアアヴァンギャルド
演劇の10月は
スターリンの先駆的役割としてのアヴァンギャルド?
揺れ動く空気が明日につながる予感を持てた時代には
わたしの見る、その色と形を
差異としての言語の中なんかにではなく
共有できる場になんか帰依するのではなく
すべてわたしにつながるものとして
色も形も
確かな虚像を見せるのだ
存在させることが可能だったのだろうか?
先を急いで沈む夕陽が緑に見えるなら緑の夕陽を
黒の矢印に見えるなら矢印を
キャンバスに塗り込んでしまえ
20世紀初頭
パリで起こっていた芸術革命は、
佐伯祐三を命がけの表現に駆り立て、
ロシアの若い芸術家をあらゆる縛りから解放される幻想へと駆り立てる。
チェーホフは「かもめ」を
海のかなたに放ち、
サーカスではピエロがカオスの中に観客をいざなう
マレーヴィチは四角と十字架をキャンヴァスに描き
シャガールは亡命しエッフェル塔を描く
政治がアヴァンギャルドな弧を描く日には
すべてがすべての方向にモスクを求める
ことが可能なのだ
「よごれっちまったかなしみ」
すらよごれちまって・・・
たとえ、
古代人のように自然を感じることはできなくても
その語感を再生することはできるかのように
挑む
中上健次のプリミティヴィスム
すら失われて
止まってしまった時間の中で、
揺れ動く風すら感じられない角質化した頬で
カオスに誘われることすら不可能な
この整然と区画整理の完成した日々に
それでも表現できるものがあるとしたら
「アエリータ」でプロタザーノフが描く”未来”なのか
それともエイゼンシュタインがマイゼルの曲とともに描く”10月”なのだろうか?
秋10月
冬を前に