木津川アート森フェス 田中誠司舞踏公演のこと
森林公園に設置されたステージからは、軽快なラップの生演奏が流れてくる。
キャンプ用の小さな折りたたみ椅子が並び、そこにはカップルが何組か。話題のエルゴの抱っこひもで赤ちゃんを抱いた若い夫婦もいる。みんな森の中のイベントにふさわしくオーガニックな流行のファッションだ。こちら側の木のベンチとテーブルには家族連れ。おじいちゃんおばあちゃん。親戚のこどもたち。食べ物のブースで買ったおいしそうな焼肉を囲んで大騒ぎ。
ああ、見たことある。こんな景色。
楽しさのデザイン。
春の風が優しく、残りの桜が小川に舞い落ちる。
どこかで出逢ったことのある退屈なくらいの幸せの形。
夕方へと向かう遅い午後。
そんな時間は、突然切り裂かれる。
そして、切り裂かれた時空の間から、奇妙な空間が現れたのだ。
春の陽射しを映してサラサラ流れる小川の向こう岸。
小高い丘からつづらに下る木の階段の中腹に立つ人がいた。
彼?彼女?人?妖精?魔物?
花の着いた帽子。アンティークなオフホワイトのドレスに身を包み、足は裸足だ。手には風船を持っている。顔も手も足も白塗りされている。
動きと言うものを全く感じさせないまま、階段をシタシタと降りてくるのだ。
風船ばかりが風に揺れている。
家族連れの中の、小さな女の子が泣きだし、大人たちは怪訝そうな顔のまま、意味もなく笑い声をあげている。
小川の向こう岸。田中誠司の舞踏公演の始まりだ。
彼を見て泣き出した女の子の感性は、鋭い。
そう、日常が切り裂かれそこに現れたのは、異形なる世界だ。
退屈な幸せの形は容易に壊さてしまうだろう。
まれびと・・・なのかもしれない。
切り拓かれて公園なんかにされてしまう前の「森」からやってきた精霊・・・なのかもしれない。
切り裂かれた世界からの侵入者は、「幸せの形」に咽ぶような空気を食い破って、風船と遊ぶ。
愛おしく、切なく、やるせなく、風船を手に持つのだが、やがて、風船
はその手を離れて春の空へ吸い込まれるように消えてしまう。
追いかける彼は。坂をすごいスピードで転がり落ち、その身を川の水に沈めてしまう。
黒髪が水に流れ、肌が水に溶けはじめるのが分かる。
私は思わず、高木正勝の「水」の映像アートを思い出した。
輪郭が川の流れと同化してしまうのだ。存在が川そのものになってしまう。
彼はやがてうめくように肢体を蠢かせ、川の中、生まれ始める。
立ち上がった彼は、すでに彼岸の人ではない。
彼の身体が、それを表している。
生のエネルギーが充満しているのだ。
それから、静かに、ステージの方に向かって歩きはじめる。
「幸せの形」の中にすっぽりおさまり笑い声で公演の始まりを見届けた人たちは、すでにこの異様な世界に飲み込まれて身動きもしないで彼の姿を追っている。彼の動きに体ごと掴みとられているようだ。
やがて彼は木のテーブルの上に乗り、叫ぶ。
「おれの赤ちゃん生まれてきてくれてありがとう。」
「みんなみんな生まれてきてくれてありがとう。」
その場は静まり返った。
涙を見せている人もいる。
そこで公演はフィニッシュだ。
なんて、陳腐な手垢にまみれた言葉だろう!
なのに、その場にいた人たちは、最後の彼の言葉に飲み込まれているのだ。
幸せの形が切り裂かれ、異形の世界を彷徨い、命の悲しさと歓びを経験し、そして、その場に戻ってきたものにとって、その言葉は、すでに色あせた陳腐なものであるはずがない。
重量と質感を確かに持った「真実の言葉」に洗い直されているのだ。
田中誠司さんの野外公演を久しぶりに観た。
彼は、森を、木の階段を、川を、観客を、恐ろしいほど認識している。
すでに始まってしまったパーティーの空気の中で、彼の身体だけが、森と、空と、川をはっきり認識し、深くそれらと関わり続けていた。
そしてそうすることによって、パーティーのゲストたちを連れて、自然のもつ、怖ろしく畏ろしい「命」の息吹に誘っていったのだ。
ほぼ一時間。
彼岸から此岸へ、静かに移動を続けた彼の身体は、一瞬の緩みもなく、つねに自覚され、研ぎ澄まされていたことに、驚く。
公演から一日経って、ようやく言葉にしてみようと思えたのだが、言葉ではやはりあの日起きたことを伝えるのは無理な気がする。
舞踏稽古場日記10 詩を書くように・・
「舞踏って、bodyで詩を書くことやなぁって、つくづく思う。身体言語で舞台に詩を書いてるんやって・・・。」
稽古が終わり、終電に間に合うよう仲間たちが大慌てで駅に
向かった後、師匠田中誠司がぼそっとそんな事を呟いた。
詩人が言葉で世界を作るように、舞踏家はbodyで詩的空間を構築する。
2月24日・・・。まだまだ寒い夜。十六夜から一日過ぎた月が空に赤い。
「地球の鼓動を感じ続けながら踊る」
が、この夜のミッションテーマ。
このテーマを捉えきれず、悪戦苦闘して、どうしても踊りきれなかった私にとって、稽古終わりの師匠からの言葉が身に染みる。
何故踊れなかったのか?
「地球の鼓動を感じる」
という言葉が分からない訳ではない。
地球が生きていることは頭では理解できている。深い闇、質量0の「無」の世界。揺らぐ「0」がある日「0」の範疇を超えて質量を持つ。宇宙の誕生ビックバーンだ。
そして、何度かの衝突と爆発で、地球が誕生。その地球もやがて死を迎え、限りない「無」を抱えたブラックホールへ・・・。
って・・・
でも、それはあくまで頭での理解で、実際「地球の鼓動」を感じるというのが、今一歩掴み切れない。
感じているというイマジネーションを受けて踊ることは出来る。
そんな態で踊る・・・というのなら、もっと可能な気がする。
つまり「演技」することは可能だ。
でも、師匠から与えられたテーマはそうではないはず・・・。
実際に「地球の鼓動を感じられることを信じた」bodyで。ということなのだ。
どうしてもそこに辿り着けなかった私に、誠司さんが「詩」という言葉を与えてくれた。
「地球の鼓動」という詩を書く。鼓動をどう世界へと広げるのか?
ある言葉を選ぶ・・・と、恐らく詩人は次の言葉をどう置くかで、世界を広げていくのだろう。言葉と言葉の衝突や、共鳴や、繋がりで、ある時はその間の空間に世界があるのだろうし、全体の流れに魂が宿るのだろう。
私自身は詩を書く才に恵まれてはいないが、詩の世界で起こることには「真実」を見つけることができる。
舞踏は、「言葉」ではなく「body」で世界を作る。
ある瞬間のbodyを選び取り舞台の上に刻み込む。と、次に選ぶbodyとの間に起こる衝突や共鳴、繋がりを舞踏家は深く認識する必要があるのだ。
そこに裏切りがあったり、ズレが在ったり、爆発があったり、共鳴する豊かな瞬間が在ったり・・・。自分のbodyで詩を綴る。
「地球の鼓動を感じる」というbodyを信じ抜いて作り上げたら、あとは流れていくのではなく、次のbodyを客観的に刻み込む。
そうして、終わった後に「地球の鼓動を感じる」舞踏家の魂が、見る人へと伝わって行けば、踊りは成立する。
ところで、この夜は、久しぶりの若い仲間にも再開できた。
彼女は、スケッチブックと色鉛筆、カメラとペンを持って、昨年の7月から中央アジア→中国→東南アジアと旅を続け、2月に帰国したのだが、帰国してすぐ稽古場に姿を見せてくれたのだ。彼女の旅行記はとても温かく、現地で暮らす「フツウの人々」の「フツウの日常に」に心開く彼女の素朴な好奇心が溢れるように感じられるもので、私はブログを読むのを楽しみにしていた。その彼女の姿に・・・思わずハグ!
『踊る!』いのちを生き始めた素敵な女性も久しぶりに稽古に来た。
彼女は今妊婦さんなのだが、とても深い踊りを見せてくれた。
一瞬一瞬、緩むことない高い意識性で、bodyを刻み続けるように踊り続けてくれたのだ。
彼女のbodyは常に嘘なく無理なく連動していて美しく、豊かだ。
彼女には「観客も自分も裏切る一歩がいる!」と芸術的課題が誠司さんから与えられていた。
前にブログで紹介した「bodyの変容を見せてくれた女性」は、その後もどんどん変容し続け、切実で、ルーズさを払しょくした踊りを見せてくれている。
そして、3年以上一緒に稽古をしている仲間は、生活も踊りも何もかもが、次のステージに移行していっているのを感じさせてくれている。
赤い月が空に貼りつく寒い夜。詩的な時間を、散文で日記にしたためてみました。
舞踏稽古場日記9 心がひりひりする。
窓から暖かな陽が射す午後。
部屋の中、ひとり昨日と一昨日の「田中誠司舞踏スタジオ」の景色を思い返している。
心がヒリヒリする。
日記にする前に、心を静めなければ・・・。バッハのピアノ曲なんて聴きながら(普段は聴けへんけど)、チャールズ・ブロウスキーの「くそったれ!少年時代」を読み上げる。これは・・。パーナード・マラマッド「店員」の・荒削り版みたいで面白かった。移民としてアメリカに渡った大人たちの貧しさと屈折・・・それをまともに受けて育つ青年の自己喪失と葛藤・・・破壊・・・。
ユダヤ系移民(店員)と、ドイツ系移民(くそったれ!)という設定も興味深い・・。
で、そんな風に午前中を過ごしてみたのだが・・それでもやはり心のヒリヒリ感が抜けきれない・・・ままパソコンに向かう。
大野一雄舞踏研究所での田中誠司さんの後輩にあたる舞踏家、寧呂さんと睦美さん。
デュオを組む二人のダンサーは、夫婦でもある。
来月に控えたポーランド公演の調整のため、奈良の「田中誠司舞踏スタジオ」にやってきた。
そんな2月10日の稽古。
立つ・・・歩く・・・から即興へ
「空間と出逢う。」のだが、どうしたら出逢えるか?
空間にbodyを合わせるのだと・・・。誠司さんは言う。
稽古場と言う「場」の中にbodyを置く。
その時、音楽が鳴り、遠くで車の走り過ぎる音がする。春の夜風の音。かすかに常緑樹の揺れる音。隣を歩く人の畳を擦る音。家が軋む音。
間接照明が落とす影。光。カーテンから漏れる隣家の部屋灯り。
一歩足を進めるごとに、すべては限りなく変容していく。
刹那刹那・・・。変容し続けるのだ。
一つとして同じ景色をbodyが映すことはないはず。
つまり一瞬一瞬「はじめての景色に出逢っているはず」なのだと。
「空間に出逢う」bodyは、初めて出逢う景色の全てを映そうとするbodyだというのだ。
空間に合せるためにbodyを動かす。
ムーブメントの主導者は「変容していく空間」にある。bodyはそれを受け止め動かされる柔らかさを持ち続けるのだ。と・・・。
睦美さんと寧呂さんの真剣さが、場を支配する。
普段より一層稽古場の空気が研ぎ澄まされているのが分かる。
「空間」の中に、彼らの命がけの瞬間瞬間が溶け込み始め、一緒に踊るこちらの感覚も研ぎ澄まされていくのだ。
さすが!と・・・感心すると同時に、奈良のこのスタジオで夜な夜な挑戦していることは、かなり高度なことなのだとも実感する。
2月11日。
寧呂睦美「今宵限りは」のリハーサルに立ち会う機会を得ることが出来た。
心がひりひりしているのは、実はこのリハーサルで見た景色の余韻の所為なのだ。
踊りのテーマとしてはシンプル。
「死を超えた愛」のようなもの。
でも・・・。そこで見たものはどう言葉にすればいいのだろう。
またしても自分の言葉の限界にぶつかるのだが・・
作品を作るというのは、「自分を生き直す」ということなのだと・・・。
とはありふれた表現になってしまうのだが、身の内に起こる揺らぎの様なものを掘り下げて、その核に辿り着いたら、それを・・・辿り着くまでの過程も含めて、俯瞰して、感じ尽くし、知覚し尽くし、眺めつくす。
そんな作業なのだと・・・。
何を踊るのか?
それがはっきり見えたら、次は、構成はもとより、衣装、音楽、指の一本一本の動きまでを確かめ続けるのだ。
舞踏のそれは、他のダンスとは違うので、それは「振付」ってことでは決してない。
でも、手を上げる速度の僅かなズレ。手を差し伸べてから相手に近づくのか、顎から近づくのか。そんな一つ一つの動きが、見るものに何を感じさせるかを、細かく知覚していくのだ。
2人の真剣なリハーサル。
それに対して、誠司さんが細かく細かく、具体的に動きを誘導していく。
すると、わずかな気づきで、踊りが飛躍的に変化していくのだ。
重厚さが増し、この世のモノではない不穏さが立ち現われ、異形のぶきみさが、蒼い光を放つような美しさへと変容し、トーンは抑えられ、あるいは爆発し、カ・ナ・シ・サが観ているこちらに流れ込んでくる。
踊り手の魂の叫びが、見る者の魂を揺らせ始める。ひりひりと・・・。
この公演が、もし舞台で演じられたら、それはすごい舞台になる!
そう出来たら、きっと2人の代表作になる!
電車の時間が来て、東京へと帰っていく睦美さんと寧呂さんの後ろ姿を、ひりひりした心で見送ると、雲一つなく晴れた空に夕暮れの風が熱くなった頬を撫ぜ上げていった。
そんな風景に立ち会うことができた幸せをひりひりした心のまま感じている私は、自分の小説を生き直さないと!と決意を新たにしてもいる。