舞踏稽古場日記5 冬枯れの遊歩道
冬枯れの遊歩道を歩く。
晩秋の日真っ先に葉を落とした桜の木は細い枝を風に揺らせ、合歓の木は種子をサヤに閉じ込め固く守っている。カラスが、大きな桑の木の裸の枝からこちらを見下ろしている。
朝晴れていた空は、午後には重い雲に覆われ、北風が吹き抜けている。
『曇り空にはくすんだピンクのマフラーが似合う。』
なんて話が小学校の国語の教科書に載っていたことをぼんやり思い出す。
小学校の頃・・・つまり50年も前・・・。
自分ではあの頃と少しも変わっていない。
落ち着きのない、僻みっぽい、気弱な癖に向う見ずな性格も何も変わっていない。
でも、あれからもう、50年も生きている。
冬枯れの様な自分の身体にもくすんだピンクが似合うのか?
1月13日。
夜には舞踏の稽古だ。
ああ。なのに・・・。
冬枯れの、裸の木が並ぶ、北風が吹き抜ける、重い雲に覆われた、午後の遊歩道を、烏の視線を受けて歩いていると、心がどんどん冷え込んでいく。
冬枯れの様な身体を晒して、稽古場で踊る自分の姿を想起する。
なんだか気が滅入る。
時々、こんな感覚に襲われるのだ。
私なんかが舞踏の稽古に通っていいんだろうか?みたいな・・・。
特に、こんなに周りの全てが寒々しい日には・・・。
夜。それでも稽古場に足を運ぶ。
障害をもった身体。老いていく身体。私の身体・・を愛するために・・。
それに、「かけ続ける身体」を何とか体験してみたいのだ。
金曜日の稽古では、今という場に身体を置き続けていくことができなかった。
その夜の即興では、『踊る』ことを止め、とにかく『感じられる身体』になることに集中する。
身体が今という刹那の空間を掴めるためには、『感じられる』身体を刻んでいく必要がある。身体のあらゆる部分の角度をゆっくり変化させ、空間を受け続けられるようであり続ける。
目は閉じるのでない、かと言って一点を見るのではなく、360度すべてに対して開放されたように開き続ける
しばらくそうしていると、身体の内から何かが込み上げてくる。
『嬉しさ、悲しさ、悔しさ…。』
そんな言葉で表されるものではない、エナジーとしか伝える言葉はないのだが、とにかく『何か』が込み上げてくるのだ。
その夜は、長い時間を掛けて、そんな身体をやっと作ることができた。
舞台に立つ人は、一瞬にして、そんな身体を作り上げることができないといけないんだろうなぁ。(実際、師匠田中誠司は、立った瞬間にそんな身体を見せつけてくれる)
その夜は、やっとそんな身体になり始めた時に、
「ストップ」の声がかかってしまう。
それは初めての経験だったのだが、ストップがかかっても、身体の内からどうしようもないエナジーが溢れだして、身体が止まらない。
押し込めるために、息を吐く。と、うめき声のようなものが漏れてしまう。
身体に溜まったものを発散させるために、足で空を蹴り、力を込めて腰を落とす。
なんとか、日常の身体に・・・。
この時に身体に溜まったもの・・・の実相を・・・
私は「言葉」に置かなければいけないのだ。
と気づく。
作品として、この魂魄・・・に迫るものを書いてみたいのだ。
そのために、稽古場に足を運んでいる。
身体の奥から湧き上がる強いパワーを実感するために・・・。
冬枯れの景色の中に、それでも眠る命の実体を、この身体で感じる為に・・・。
水に溶ける・・・。
1月12日。天気予報に反して奈良に青空が広がる。
本当なら、2月に計画している雪山登山の足慣らしとして、この日は二上山に登る予定を立てていた。
ところが遊び疲れたのか、年末痛めていた腰に再び痛みが走る。
とても山になんて登れない~。
山登りは中止。
代わりに友人の通っているジムのプールで、ゆっくり歩くことにする。
友人が筋トレをしている間、私はプールに・・・。流行遅れのハイレグっぽい水着を着こんで一人プールに・・・。
で、静かに温水プールに体を沈める。
と、なんやろ?
今まで知覚したことのない肌感が全身を包む。
水が身体にまとわりついているのが分かるのだ。
それは不思議なことではない。
プールや海に入ると誰もが感じる感覚ではある。
私もいつもこんな感じになるし・・・。
でも、少し違うのだ。
空間を意識するという、舞踏の稽古場での訓練の所為で、皮膚というか、身体と言うかが、外の変化を敏感に捉えようと開かれているみたい。
水が全身を包んでいる。プールに入っているのだから当たり前やけど・・・。
でも、全身がまるで水に呼応して、「私の皮」の内側から私のエネジーのようなものが「私の皮」の外側へ溶けて流れだし、水とひとつになるような感覚が身体を走る。
その感覚を逃がさないように、静かに前を向いて身体を前へ運ぶのだが、目線がちょうど前方プールサイドと水の境目にある。
歩を進めると、プールの他のレーンで泳ぐ人から伝わる水の流れや、排水溝へと向かう水の勢いに、身体が揺れ続けているのが分かる。
丁寧に・・・。誰にも見られることのない水中の身体を、できる限りの丁寧さで前へと運ぶ。
と言っても、他に歩いてる人もいるので、時間をかけてゆっくりとはいかないのだが・・・。
10分ほどそうして歩いていると、まるで水に抱かれてダンスをしているような開放感が湧いてきた。
指はどの形の時により水を感じるか?
それは稽古で言われる仏像の様な手の形の時・・・。バレーなどほかのダンスでも指はそんな風に形づけられているのを思い出す。そうか、この形が一番空間に敏感になるからなんだ。
足はつま先から着く方が水を感じる。かかとからドサッと降りたら、水と争うみたいになる。
そうして、水の流れに身を任せ(川の流れに身を任せ~って歌あったよな?)水と抱擁しながら踊る様に歩いていると、あっという間に1時間近い時が過ぎる。
周りで歩く人の存在が煩く感じられない。全て絵の中の景色のように視界に入る。そして、他の人の動きは確実に水流となって私の身体を揺らせている。
なんかとても豊かな時間だ。
ああ、こんな風に踊れたらいいのに・・・。この感覚を忘れへんで!
1時間も歩いてしまって・・。腰は大丈夫やろか?
ああ、腰が・・・。
サウナに入ってジャグジーに入って・・・。って・・・すっかり痛みが消えていた。
水に溶けてしまうような、甘―い時間。
素敵なリハビリでした。
舞踏稽古場日記4-2 かけつづけるからだ
で、次に私がどう踊ったのかを書いてみよう。
彼の踊りがあまりに良かったので、次に踊る私は少し不安になっていた。
私は今夜のテーマでうまく踊ることが出来るのか?
「かけ続ける身体」で即興をどう踊ればいいんだろう?
年末痛めた腰もまだ痛いしなぁ・・・大丈夫やろか?
不安なまま踊りを始める。
誠司さんと仲間の視線が痛い。
一つ一つの動きを丁寧に・・・柔らかく・・・力を入れない・・・全瞬間に全身の全てに隙を作るな!・・・。
右手が上にある時左手は?足を引いたとき肩は?
一つ一つを大切に!どれくらいその時間があっただろう?
ふと気づくと、殆ど同じ場所で、同じ動きを繰り返している。
あかん!
見ている人を無視してる。
これではあかん!
そこからは、何がどうなったのか分からなくなる。
分からなくなるのだが、時々思い出して、『かけ続ける』ということを試してみる。
と、動きが止まってしまう・・・。
随分な時間を集中できないまま、何のインスピレーションも湧かないまま、動いていた気がする。
で、無理やり『終わり』の形を作ってしまった。
仲間は
「面白かった。最後まで面白かったけど・・・??」
と優しい感想を・・?
でも師匠は厳しい。
「今日は踊れてなかった。なんで踊れてないか?
焦って、次ばかりに気持ちが行ってるから。『今』を見てない。過去と未来の間にある『今』という揺らぎの中に一人で立ってない。
先ばっかりに行くから、それを『手』で探そうとするから、身体に何のインスピレーションも降りてきてないねん。」
この時師匠は関西弁だ。
「インスピレーションは、『今』の身体が触れてる体にしか降りてこないんや。焦って先ばかり追って『今』に立ててない身体には何のプランも見えないってことやね。」
「インスピレーションは『今』の身体としっかり向き合うところにしか宿らない」
この夜、私はまったく踊れなかったのだけれど、私たちは、すごい発見をしたのかもしれない。
過去と未来の狭間で揺らぐ『今』にしっかりと立っている身体の中に、その身体を大切に捉え続ける時にだけ、インスピレーションは立ち上がり、それが「踊る」ということなのだと・・・。