備忘録(byエル) -19ページ目

舞踏稽古場日記8 ジョルジョ・モランディの『瓶』になる

立春の陽光を遮るように浜風が吹き抜ける。神戸の空はどこまでも青かった。


ジョルジョ・モランディ・・・イタリアの画家の絵を観に兵庫県立美術館へ。


1890年生まれと言う画家は、当然のことだがキュビスムやセザンヌ、デ・キリコの影響などを受けた時期もあったそうだが、その後はひとり

「静物画」を書き続ける。


―具体的なものの中に抽象がある―

という彼の視線は、ひたすら瓶ばかりの絵が並ぶ会場を歩いていれば、驚くほど腑に落ちる。



アトリエで瓶を並べ、その配置を細かく計算し、窓の開け閉めを繰り返し、採光を丁寧に確認する。戦争が起きて、虐殺があり、原爆が広島に落とされても、彼は来る日も来る日もそれを繰り返す。


そうして描かれている絵の持つ世界は、一本の瓶の僅かな配置と、光の僅かの増減で、まるで魔法のように変貌していくのだ。空虚だったり、恐ろしかったり、後ろ向きの群像だったり、空への希求だったり・・同じ瓶が並ぶ絵がどんどん変容していく。


終わりなき変奏曲・・・とは展覧会のタイトル。


一本の瓶がどこに置かれるか?あるいは置かれないか?・・・つまり、そのことが絵の空間を変えているのだと分かる。


たった一本の瓶の存在が、全体の気配を変貌させていく。

そのことが絵と絵の間に立ち、その二つの絵の空間からの揮発される気体を感じていると不思議なほど分かっていく。





激寒の夜


2月3日(水)の稽古場での誠司さんの言葉を思い出す。



「今、この時の、この空間に、しっかり立って、自分の身体を刻んで欲しい。」



モランディが、アトリエの空間に並べ上げた埃を被った数個の瓶を、「瓶そのもの」として捉え、それらの存在の一瞬を、『絵』の中に刻み込んだようにということなのかも。

しかもその瓶の本質は、「絵の空間」を作り上げることにこそ意味があるような「本質」なのだ。



一瞬、一瞬、切り取られる「身体」の連続で踊る。

切り取られ刻まれた「一瞬のbody」が空間をどうつくるのか?を芸術家の魂が捉える「絵」のように、自分自身でどう演出するのか?ってことなのか。



この夜、ある女性のbodyが変容したのを目撃した。



彼女は、彼女によると「今までの人生もそうでした」という事らしいのだが、どうしても「見られている」という事が苦手なのだ。


そして,稽古場に立ち、踊り始める彼女のbodyは、常に閉ざされ、見る人から逃げ、怯え、自分の内へ内へと向かっていた。


ところが彼女は、それでも稽古場に通い続け、そんな自分のbodyと向き合い続けてきた。



この夜、

誠司さんは、彼女の閉じた踊りに、何度も「stop!」を掛け、やり直しを繰り返し、


「頭で考えるから閉じるねん!」


bodyで感じ続けろ!って言うてるやろ!」


と激を飛ばし続け、


「具体的には、顔の角度。それが全然変わってない。手も一緒。感じる為には空間を受け入れるbodyを作らなあかんねん。丁寧に空間に触れるように動く!」


と指導を繰り返す・・。



と、ある瞬間、彼女のbodyがはっきり変容した。


稽古場の中に揺らぐ波のようにbody全体が連動して動き始め、そこには「怯え」が閉ざされる事無くムーブメントとして表出し始めた。

こんな瞬間に立ち会えるから、舞踏は魅力的やなぁ~。



彼女はその夜をシェアする場で


「今までは空間に触れるっていうのを頭の中の事として、捉えていた。今日は、手、足、背中、あご・・・。身体のいろんな場所を意識していくこととして捉えたし、きつい姿勢の中では、頭で考える余裕すらなかった。」


なんて話していたけど、目撃した私は、しっかり彼女のbodyが空間を動かした瞬間を見つけたよ。



稽古場に立つとき、bodyはジョルジョ・モランディの「瓶」の一つであり、それを画家の目で自ら演出し、配置し、光を受けて立たせる。

そんなことができたら・・・。その時に踊りは成立するのかなぁ。



その夜の師匠の言葉


「空間は、間にある。

上と下の、前と後ろの、過去と未来の、間の世界。それは多分捉えどころのない、曖昧なものやろけど、そこに立つってことやね。」


うーん、ダンスは深い・・・。





























舞踏稽古場日記7 空間に触れるまで踊るな!

朝から冷たい雨が降る。

バスの窓は湿度で曇っていた。

雨の冬の夜。珍しく乗客が多い。前の席に小さな男の子が座っている。小さな手が傘に付いた雨粒で濡れていた。冷たそう。

その手を見ていると、テレビのニュースが頭に浮かんだ。3歳の男の子が母親の同棲相手にひどい暴力を受けて亡くなった。その子の手もきっとこんなに小さくてふっくらしていたのに違いない。どんなに痛かっただろう。どんなに怖かっただろう。

その不条理に、満員のバスの中、歯を噛みしめた自分のこぶしが固く握られていることに気付く。


1月29日(金)・・・。

稽古場に着くと、偶然にも誠司さんがその事件の事を口にする。出先のテレビでニュースを見て、人前にも関わらず、思わず「なにしとんねん!」と叫んでしまったと。




その夜は

「原点に帰って、空間に触れることが出来るbodyになる。」

という稽古。


「あなたが空間に触れるという時、あなたのbodyが空間を感じているだけでなく、空間もまたあなたに触れられているのだということを意識してみてください。」

触れるというのが双方向のものだと、感じながら触れるという…稽古。



立つ・・・歩く・・・。空間の中にいる存在として・・・。




「空間を抽象的概念として捉えるのではなく、この部屋の空間だと具体的に捉えて欲しい。人も含めて、ここにあるもの全てが空間です。それを捉えないと、その先に広がる無限の空間も捉えられない。」



ベクトルをどこに向けるのか。誠司さんの言葉が続く。



私は、その時、先日プールで「水」を身体に感じた時の自分の皮膚の感じを思い出す。

皮膚がひりひり水の存在を感じて、そしてその皮膚だけだはなくbodyそのものが水に溶けていくような感触をつかんでいた。




その時の感触で、空間とbodyのせめぎを感じると、確かに、空気の層を捉えることが出来始める。

それは想像ではない。

例えば、風に吹かれるという時、風が身体をすり抜けていくような感覚は誰しも持つことができる。そして風がすり抜けた後、無風の中に空気のとろみのようなものを感じることはよくある。


五感を研ぎ澄ますと、身体が空気に触れていることは容易に感じることが出来るはず。



ところが、ここで「空間」と言われるものは、そればかりではない。

そこある全てなのだ。


隣で歩く人の息づかい。前で私たちを見つめる誠司さんの鋭い視線。本棚に並ぶ本たちからの語りかけ。壁に掛けられた大野一雄さんの写真。舞台衣装。花たち・・・。

つまり稽古場が持つ気配を全て水に溶かしてその水に自分の身体を沈める・・・感じ。

もちろん。私が動けば、波動が起こり、稽古場の気配が揺れるのだ。




これはすごく湿り気と温度のある稽古なのだ。



「空間を感じるんです。body全体で・・・。これは視覚で起こることではない。bodyの中で起こること」

と言って、踊り出した誠司さんの身体は、すでに周りの空気を全て纏っている。


bodyが空間と一緒に動き始めている。

柔らかい滑らかな動きなのだが、それは1秒に何千コマという感じでbodyを「今」の中に刻んで作られているのが分かる。「今」の瞬間瞬間に、空間を捉えて彫刻しているだと・・・。




そしてそのまま即興の稽古へ・・・。



「空間をつかむまで踊るな!」

という誠司さんの言葉を受けて即興を始める。



と、私の中で、


ああ、空間を掴むまで踊らなくていいんだ。


と反対にすごく許されている時間が現れてきた。

私が掴めるまで待っててくれる・・・。そんな信頼を感じているbodyになることが出来たのだ。


ゆっくり、身体の隅々を知覚しながら全神経を自分のbodyに集中して、稽古場という水溶液の中に沈める。首も、肩も、臍も、足先も・・すべてを開いて触れていく。

気付くと、bodyが動き始める。動き始めると・・・想念が・・・つまり物語が意識を支配し始めてくる。畳の上の影が虫けらに見えて、虫けらになるbodyを作ろうとしてみたり・・・。あかん!空間を離すな!・・・で、また脳内から、身体へ・・・。


それを繰り返すのだが・・・。最後は両手を開いて床から空間を抱きながら起き上って来た時に、何かから私の手に「小さなもの」を渡されたような感覚が襲う。

と・・・ここでイマジネーションを抑えることが出来なくなってしまった。


虐待で死んでしまった小さなものへの鎮魂。

どうしても鎮魂をするのだ!と・・・。

そこからはそんな自分を赦して、鎮魂の踊りへ・・・。




シェアの中で、誠司さんから、具体的な指摘を受ける。

「どうしても天を仰ぐbodyを作ってしまう癖がある。

  地を掘る中にしか踊りはない。死者は地の底にいる。たましいはそこにある!」

「終わりを意識し過ぎ!

 やることが分からなくなったら、すぐ終わりの体制に持っていこうとする。ダンスは、そこから生まれるんやから、勝手に終わるな!」




冬の雨は、帰り道をも濡らしていたけれど、深くて妖しくて艶めかしい。そんな湿度を感じる夜でした













































舞踏稽古場日記6 私の脳内と体に起こったこと

寒い!

暮れても明けてもあたたかい~

なんて油断していたからだに、この寒さは堪える。



書きかけた小説は、遅々として進まず、今や「見るのもいや!」状態に陥っている。

退屈しのぎに開いたパソコン。

SNSの画面には日本のあちこちの雪景色の画像が並ぶ。

寒い!

美しいけれど・・・寒い!

不思議。

雪・・・見たら・・寒い。

梅干し・・・酸っぱい。

うんこ・・・臭い。

なんやろ過去の記憶が感覚を呼び覚ます。

想像力・・・って頭で起こってることのようだが、実際はからだでも起こっている何かやね。





そんな1月20日。



稽古場の窓から漏れるオレンジの光が温かい。



寒い夜



稽古は、「田中誠司舞踏スタジオ」のドキュメンタリー映像を撮ろうとしている女性と私の二人。



少人数の時は、長い即興タイムが・・・。





「今日は踊れてた」

と師匠からの言葉を貰った即興・・・。

でも、最初はなかなかOKを貰えなかった。

「からだが空間を感じるまで動くな!」

と何度も声がかかる。



「感じてないから、身体が閉じてるねん。具体的には、前で見てる人を無視してる。無駄に動いてる」

何度かのやり直しの後、私の中で何かが変わるのが分かる。



覚悟・・・が決まったのかもしれない。



見てくれている人も、自分のからだも、稽古場の空間も、世界そのものも・・・すべての中に、たった一人で、『今』に立つ!という覚悟が決まった!

そう感じた。





「今日は踊れてた」と言われたその夜の稽古の中で、私の脳内とからだに起こっていたことを、できるだけ正確に書いておきたい。そう、隠喩や暗喩ではなく、詩的にではなく、散文で、からだに近づいてみたい・・・そんな気がしている。





立!と覚悟が決まった時、まず自覚できたのは「こわくない」ってこと。ああ私は怖がっていない。そうはっきり認識できた。

すると、からだの隅々が自覚できるようになる。

今、この稽古場の中で前から二人の視線を感じながら、自分が腰を落として肩甲骨を開いている。

指先は?動きにくい指だがそれでも確かに受ける光を感じている。

太ももは腰を落とした肢体を支えて、内から熱く熱くなっている。

一つ一つを、殆ど瞬間の中で、捉えることが出来ている。

その辺りから、身体の内にから、何かが込み上げてくるのだ。



この何かは、何なんだろう?

稽古場では、色んな人が色んな表現でそれを伝えてくれる。

「黄色い光が交叉して、その向こうで見ている人たちが緑色に見えて・・・」

とは絵を描く20歳の女の子

「死者たちが一緒に踊ってくれて、踊っていいよって優しく言ってくれている気がした。」

と言った人もいた。

「奄美の海が広がった」

とか・・。

「亡くなった母に会えた気がした」

とか・・・

「柔らかいものに包まれた」

とか・・・。



残念ながら、私にはそんな言葉が持てない。

何に似ているか?

と言われても、それはこれまで生きてきた中で見たどの風景とも違うから・・・。



すがすがしい・・・という感じが近いんだろうか。

からだに濁りがなくなり、溢れるエナジーが、世界に溶けていくようなすがすがしさ・・。

この感じを零さないために、からだを静かに動かしていく。



身体を反って、前面の全てで空間からからだに入ってくるものを受け止める。

畳と一つになれるようからだを横たえる。

見てくれている人の視線を受け取れるよう背中の全てに感度を上げる。



でも、せっかく受け止めたものが、姿勢を保てず、ドサッと床に足を着いてしまった瞬間に、零れてしまう。

緊張が緩みルーズな身体に逃げると、その刹那見ている人との糸が切れる。





「エクスタシー」とは程遠い。



知覚が恐ろしいスピードでからだ中を駆け巡っている。

あらゆる部位を認識して感じて、脳内は激しく脈打っているのだ。





「ストップ」がかかる。

その瞬間、汗が体中から滝の様に流れ始めた。

高く飛んだり、くるくる回ったり、走ったり・・・そんな事は何もしていないのに・・・。



伝わるだろうか?と疑問を持ちつつ・・・取敢えずの稽古場日記でした。