備忘録(byエル) -22ページ目

舞踏・・・稽古場日記1

温かすぎる12月だが、時々奈良にも雪雲が空を覆うような日もある。

曇り空。日の暮れも早い。


そんな午後7時。台所で夫の夕食の煮物に最後の味付けをする。洗濯物をたたみ、風呂に栓をする。そして稽古着の夏物の黒いワンピースを身に着ける。セーター、ダウンコートで防寒。午後7時30分家を出る。


何故?こんなに寒い夜なのに。


暖を求めて皆が家路を急ぐ時間に。

何故62歳の女が、玄関のドアを開けて、北からの夜風の吹く静かな町へ歩を進めるのか?



舞踏の稽古に通い始めて3年になる。


出逢いは偶然だった。


舞踏を踊るダンサー田中誠司さんのところに、地元の情報サイトで彼の事を紹介したいと、お願いするために出かけたことから始まる。



http://ameblo.jp/takap19zo/entry-11388913624.html

インタビューするなら、ワークショップに参加してみようと、スタジオに出かけた。

一度だけ・・・。

そう思って稽古場に立ってみたのに、彼の舞踏と、ワークショップの中で語られる言葉の様々に惹かれてしまった。



もう暮れようとする人生のこの時間に、掴みたいものがあるとしたら、それは、彼が語る「身体の奥から発せられる言葉」であるような気がしたのだ。



その日から、三年余り。私は殆ど週に一度「田中誠司舞踏スタジオ」に通い詰めている。



ダンスの経験など全くないどころかスポーツも苦手。身体を動かす全てから遠く生きてきた。しかも老いを迎える年齢は身体の機能を低下させ始めている。

ところで、私は軽度の脳性まひを持っている。

緊張すると上半身に不随運動が出る。障害を抱えてきた長い年月の中で指は歪んでまっすぐ伸びなかったりする。


つまり、通常ダンスにはもっとも適さない身体と言っていい。



ところが30代の我が師匠・田中誠司は、「あなただからこその舞踏がある。」「苦悩が深い分、見る人に伝えるものは大きくなる。逆転の発想だ。」と私に語る。


薔薇の花を持って歩く稽古で、どうしても指先の不随運動の所為で薔薇が震える私の動きに、「『震える薔薇』なんて舞踏のタイトルになるね。」なんて言葉を与えたりする。



舞踏スタジオには、色んな若い人たちが集ってくる。

絵を描く人、役者志望の青年、映像作家、フォトグラファー、コンテンポラリーダンサー、離島で暮らすナチュラリスト、人間関係に心を痛める青年たち、そしてもちろん舞踏を踊る若者たち。


彼らに混ざって、稽古場に立つ日々に、多くの景色に出逢い、彼らの心の震えを感じ、自分の身体の声を聞き続けてきたのだが、3年間それを言葉にすることが出来なかった。

何故言葉にできなかったのか?


ひとつは、身体で感じた様々を他者に伝える文体を掴めていないという理由でそうなのだが、もうひとつは(これがなかなか厄介な理由なのだが)この歳で若者に混ざって踊る自分を、どこかで受け止めきれていないという理由からだ。



舞踏の事が書けない!

このことこそが大切なのかもしれない。

もし、私が文章を書く意味があるとしたら、「舞踏の事が書けない」ことの中にこそ、魂魄に届くだろう私の言葉を探し出すための何かがあり、その文体を見つけ出すことにあるという事なのかもしれない。

この年の瀬の夜に、年末の大掃除にもおせち料理にも手を付けず、私はそのことに向き合っている。

書いてみよう。と・・・。

まず、稽古の情景を日記のように書いてみよう。と・・。

他者に伝える言葉を探すことで、魂魄に届く文体に辿り着けるならと・・・。



稽古場日記を・・・。





















ディープな夜

7月の太陽に、容赦なく熱せられ続けた大気が、夕方には耐え切れず積乱雲になって町を覆う。
そんな夕暮れの景色の中を、2日続けてディープ大阪に出かけるため家を出る。

同世代の、「カッコエエ女」に出逢うために!だ。

7月10日は、天六へ
「ワイルドバンチ」という古書店で、憧れのカルメン・マキさんのライブ。
7月11日は東淀川へ
「メタモルホール」という小さな小屋で、金満里さんのソロ舞踏公演「ウリ・オモニ」

古書店でのライブは、書架を動かして中央にスペースを作り、30名ほどが入れるフロアーを作って行われる。三上寛さん、谷川賢作さん、ジプシー音楽なんて、これまでに何度か参加したことがあるのだが、毎回満席!で50名ほどが隣の人と肩が当たるような感じでライブと楽しむという、芸能の醍醐味を味わうことができる場なのだ。

で、カルメン・マキさんのライブもまたすごい熱気。

寺山修司の秘蔵っ子って感じで、彼女がテレビの歌番組に登場した頃、同世代の私は「寺山修司」という人の書く、歌として成立しにくいような歌詞を、彼女がその深い歌声で完璧に歌い上げていたのに驚く。すごい!

その後OZとしてロック界に現れた彼女の歌にまた吃驚!なんてソウルなんやろ!
浅川マキ、山崎ハコ、カルメンマキは、まだ若かった私の憧れの存在だ。

カルメン・マキさんの当夜は、「ポエトリィー・リーディング」を中心にしたライブだった。
詩というより物語を、朗読する彼女は、合間に歌う歌声もそうだが、魂そのものが曲に乗るような重みと深みのある声なのだ。

かなり昭和っぽく、最近の若者好みの軽い応援歌とは全く違う、人の心の奥深くに突き刺さるようなライブだった。

金満里さんは、これまた同世代の女性だ。
障害者の身体を、舞台芸術に変換するという、すごいことをやってのける彼女の公演もまた、深く重く美しい。

「ウリ・オモニ」は舞踏家大野一雄さんと大野慶人さんの監修による作品で、すでに17回公演しているという、金満里さんの代表作だ。

今回はメタモルホールという小ホールで、20名ほどで満席と言う、観客との緊迫感が満ちる中での公演だ。
正直、若干音響や照明に、あれ?と感じるところもあったが、彼女の魂のダンスは、やはり鬼気迫る魂の色気を感じさせるものがある。

二日間続けてのディープ大阪行脚は、ディープでカッコイイ憧れの女性二人に出逢う、最高の夜となる。

サーカスには何年か前・・・

友人がfacebookで、「木下大サーカス行ってきた!」って書いていた。


そう言えば、何年か前行ったなぁ~って、mixiの日記をひも解いてみたら、


なんと2008年の秋のこと。


何年かが、すでに6年半。


歳を重ねると時の流れが速い。



以下2008年11月の日記です。

母も今はもう逝ってしまって・・・・小さい日の風景は誰にも確認できなくなってしまったなぁ。




「サーカスのチケット貰ってんけど、一緒に行けへん?」
ってメールが友人から入ったのは、3連休最終日の朝のことだ。
「行く行くハート
ってメールを友人に入れたのは、その1分後。
つまり、即決で行くことにしたのだ。
「私、サーカスは初めてかも?」
とメールに続けて、はっとした。

小さい頃、もしかしたら、行ったことがあるのかもしれない・・・

家の前は原っぱだった。
西から東に伸びる私鉄電車の線路まで、300メートルほど。今はマンションや建売住宅が立ち並ぶその土地は、私が小さかった頃には原っぱだった。
家から電車が走るのが見え、病気ばかりしていた私は走る電車に窓から手を振っていた。
ような気がする。

私鉄電車がストで走らない日。6歳年上の兄たちの背中を追って、線路を東に向かって走った。枕木をぴょんぴょんと飛び越えて、兄とその友人を必死で追いかけた。最寄の駅を過ぎ、隣の駅を越える頃には、先を行く兄たちの背中はもう見えなくなってしまっていた。そして、線路は陸橋に差し掛かる。近くに大きな川もないので、今思えばとても短い陸橋だったのだろうが、線路の隙間から見える下方の穴が恐ろしく、4歳くらいだった私には、どうしても渡ることができない。仕方なく、一人線路を西へ引き返すことにした。
帰り道は恐ろしく遠かった。砂利は私の前進を阻み、兄に置き去りにされた悔しさと、一人歩く心細さに、涙がぽろぽろ流れた。
ような気がする。

家の前の原っぱが見えたときは、涙は最高潮に達していて、わぁーわぁー声とともに泣きじゃくっていた。
しかし、兄を追いかけて線路を歩いたことを母に知られたら、きっと恐ろしく叱られる。そのことに気づいた私は、原っぱの雑草に隠れて涙を拭き、何食わぬ顔で家に帰った。
ような気がする。

原っぱでは、夏の夜は街頭映写会みたいのが行われて、大きなスクリーンに映像が映し出されたりした。近くの人が集まってくるので、原っぱの前の家であることが、少し誇らしく思えたりした。
ような気がする。

その原っぱに、サーカス団の仮宿舎のようなものが、建てられていた記憶があるのだ。
近くの公園にサーカスのテントが建てられたとき・・・
サーカス団の宿舎には、動物の檻があり、象だか、ライオンだか、そんなものがいた。
母に手を引かれて、動物の檻を見て歩いた。
普段は私たちの遊び場だった原っぱなのだが、サーカスがいる間は母に手を引かれてでないと原っぱに行くことは禁じられた。
サラワレル。ツレテイカレテ、クウチュウブランコのヒトにサレテシマウ。なんて私たち子どもは噂しあったりした。
ような気がする。

動物の檻を見たのだから、サーカスにも行ったに違いない。
そう思った私は、スイートポテトを焼いて、母の家に出かけた。
今は窓から線路は見えなくなってしまった母の家で、サーカスに行ったことがあるかどうかを確かめた。
意外なことに、母もそのことを覚えていなかったのだ。

サーカスは確かに街にやってきた。
そして、母も兄も出かけた。

しかし、その時私がいたのかどうか、母の記憶からも消えていたのだ

「どこかに遊びにいくときになったら、熱を出す子どもだったから、その時も寝てたかもわからんね。」
と母。

結局、サーカスが初めてかどうか、結論を出すことはできなかった。
原っぱの記憶は、幼い日のたくさんの気持ちをつれてきて、私は1日中原っぱをうろうろする気分だった。
思い出す景色は、何故だかすべてがモノトーンで、夕方の匂いがする。