佐伯一麦の「麦主義者の小説論」を読んだ! | とんとん・にっき

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佐伯一麦の「麦主義者の小説論」(岩波書店:2015年2月24日第1刷発行)を読みました。この本を購入したのは、出版からだいぶ遅れて出ているのを知り、慌てて購入しました。

 

現代日本を代表する作家による、初めての小説論集。

「麦主義者」としての作家の出発を促し、また方向づけた十代の読書経験と、上林暁、徳田秋声、志賀直哉、川端康成、太宰治など近代日本の作家たちについて(第1部、第2部)。自分自身を書くことは他者を書くことであるという「私小説」の核心をめぐって(第3部)。著者の小説世界に大きな影響を与えてきた三浦哲郎と古井由吉の文学をめぐって(第4部、第5部)。さらに、ときには反発しながらそれぞれの文学観に学んだ作家たちについて(第6部、第7部)。

作家、佐伯一麦の文学はもちろん、日本の近現代文学に親しむための扉としても読める、貴重な本。

 

今朝(2019年4月13日)の朝日新聞の読書欄に、佐伯一麦の「山海記(せんがいき)」の書評が載っていました。そろそろアマゾンに注文しようと思っていた本です。「時ならぬ私たちに他人を癒すことは出来ないが、日々の営みこそが唯一の救いだと、本書は教えてくれる。著者のまなざしは限りなく優しい」と、諸田玲子は評しています。

 

ゴッホは、麦畑を数多く描きました。麦畑は、世界中いたるところにあるので、東北で生まれ育った私にも親しく見慣れた風景です。それらの絵から、私は、もっとも親しく、見慣れたものを仔細に描くことの持つ意味を知らされました。と共に、描く対象が著者と直結するのは、感覚や観念からではなく、生活を通してだ、ということを教わりました。

そのことを肝に銘ずるために、私は、麦主義者を自称し、ペンネームに麦の字を使っているという次第なのです。

私は、小説に何をもって立ち向かうかと問われたら、理論や思想ではなく、自分の中肉体と全生活を賭けて、と答えます。「寒さが冬の麦にこたえるくらいには、俺には冬がこたえるよ」とゴッホがいう現実感覚をよりどころとして。(「麦主義者から冬主義者へ」より)

 

最初に出ている「川端再読―序にかえて」を読んで、知らなかったことが次々と出てきて驚かされます。震災を経て、仙台で行われた読書会で川端康成の「雪国」を取り上げて、参加者の感想を聞いてみたという話です。あの「雪国」でさえ、川端は何度も何度も推敲したという箇所です。川端ともあろうものが、簡単に、すらすらと文章が出てくるものと僕は思っていましたが、実際は何度も書き直して、結局13年かかって現在私たちが読む「雪国」の原型になったという。これには驚きました。

 

最近、庄野潤三の家を訪れる機会がありました。佐伯は私小説家としての庄野から多くを学んだということが書いてありました。「反響の余韻」、「庄野潤三氏を悼む」「ロンドンで偲ぶ庄野さん」、の短文ではありますが三編が掲載されていました。

 

先日観た映画「希望の灯り」を観たときに、あまりにも背景が酷似していたので、以下のように書きました。

僕は、茨城県の最西部、渡良瀬遊水池に近い配電盤工場で土地の人とともに働く人たちを描いた、佐伯一麦の自伝的な小説「渡良瀬」を思い浮かべました。と。

 

佐伯一麦:

1959年、宮城県仙台市に生まれる。仙台第一高校卒業後、週刊誌記者、電気工など様々な職業を経験した後、作家となる。

著者に、「渡良瀬」(岩波書店、伊藤整文学賞)、「還れぬ家」(新潮社、毎日芸術賞)、「光の闇」(扶桑社)、「ノルゲ」(講談社、野間文芸賞)、「鉄塔家族」(朝日文庫、大佛次郎賞)、「ア・ルース・ボーイ」(新潮社、三島由紀夫賞)、「日和山―佐伯一麦自―選短編集」、「ショート・サーキット―佐伯一麦初期作品集」(以上、講談社文芸文庫)、「とりどりの円を描く」(日本経済新聞出版社)、「石の肺」(新潮文庫)、「震災と言葉」(岩波ブックレット)、他多数。

 

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朝日新聞:2019年4月13日