「第5回大江健三郎賞、大江健三郎と受賞者・星野智幸の公開対談」を聞く! | とんとん・にっき

「第5回大江健三郎賞、大江健三郎と受賞者・星野智幸の公開対談」を聞く!


第5回大江健三郎賞公開対談 星野智幸×大江健三郎 主催:講談社
講談社主催による第5回大江健三郎賞は、2010年1月1日から12月31日までに日本で刊行された、「文学の言葉」を用いた作品約120点の中から、選考委員・大江健三郎氏によって、星野智幸氏の「俺俺」(新潮社2010年6月刊)に決定いたしました。「賞」は、「受賞作の英語、あるいはフランス語、ドイツ語への翻訳、及び海外での刊行」です。


以下、星野智幸と大江健三郎による対談。
大江:こういう深刻なときに、のんびりとした話をしていていいのかと思う。まずうち解けるための話から、後で深刻な話になるかもしれませんが。私は安部公房に似ていると思ったが、星野さんは「一緒にしないでくださいよ」と話されていた。
星野:安部公房は大学時代に読みました。大江さんが「選評」に書かれていて、自分の中を覗かれた気がした。
大江:私は東京へ来て2人の「天才」に会いました。一人は音楽家の武満徹で、もう一人は安部公房でした。目の前に「天才」がいると思ったのは、安部公房が最初です。その話を安部にしたら、安部は「それはそうだろうな」と言いました。お世辞を言っていると思われても困るので、その時はもう一人の天才・武満徹のことを話しました。なにごとも易々と超えるのが「天才」です。「俺俺」の世界が文学の世界に取り入れられて、私は安部さんの世界だと思った。もう一人、三島由紀夫、三島は「安部君の小説、大江君に説明してやろうか」と言いました。「安部君の小説は戦車だ。精巧に作られている戦車、うまく作られている」と。私は安部さんの小説は「小説的思考力」を持っている、新しいことを考える人です。若い人では星野さん、「小説的思考力」を持っている。
星野:今まで欠点と言われたことは、「君の小説はロボットみたいだ」と言われたことがあります。小説的思考力のみで、その他の要素がなく書かれていた。リアリティがないと思われていたのではないか。何かが足りないのではないかと思い、それを乗り越えるために、ある完成の域に達したのが「俺俺」だと思います。
大江:彼が考え出したのは、ファストフードの店に行って携帯電話を取ってしまう。自分が持っていることに気がつく。こちらがこちらの電話を取ってもあまり違わない。電話をかけるとお母さんが出る。ついお金に困っているのだと言ってしまう。お母さんはどれだけいるのと言う。自分の口座番号を言ってしまいます。俺はすぐに捕まってしまうと思います。お金が振り込まれて「オレオレ詐欺」が完成してしまうが、お母さんと関係が出来て、自分の部屋にお母さんが訪ねてきます。「あなたは私の息子ではないか」と言います。違う俺、お母さんの息子の俺になってしまう。いや、あなたは私の息子だという。驚くほど見事な展開です。「私はあなたの母ですよ」という短い会話の間に、自然に読者は納得する。そこにリアリティがあります。次の面白い点は、自分の本当のお母さんのところへ行ってみて、あなたの息子だというと、自分のことを名乗っている男が出てくる。それが今までの俺なわけです。この自分ともう一人の自分、本当の俺ともう一人の俺。僕(大江)が話しても本当にしないが、彼の文章を読むと本当だと思う。向こうから言えば俺だし、こちらから言えば俺です。自然に思い浮かべられる。それを作るのが「小説的想像力」のある人間で、小説らしいことを考えていく。今は「小説的想像力」が衰退している時代です。俺と偽俺の関係ができ上がる。説得されている。この小説の優れた点です。
星野:そもそもこの小説の発想、イメージしていたのは、全員が俺になって、全員が殺し合う。それが核となって、全員が俺になることが必要です。それを作ることが社会性がある、というのが一番いいのかなと思った。僕が考えている今の社会は、取り替えられている社会です。、
大江:第1章は「詐欺」、彼の場合は逆にお母さんに取り込まれてしまう。第2章「覚醒」。取り替えられても同じような社会に目覚める取り替えられた人間。自分だけど自分じゃない人間がこの社会にはたくさんいる。第3章「増殖」、2人が3人にと、どんどん増えていく。誰でもこういう発想は出来るが、彼は自然に増えていくことを書ける。3人が話していると、不思議な現象が生じる。3人が完全な理解関係ができる「俺山」ができる。理想的な共同体がつくれる。その段階で、年上の男が、そうじゃないんじゃないかと1人、家に帰ってしまう。次は「崩壊」という章。彼らの間で対立が生じる。
星野:自分のイメージとしては、それらを先に書きたかった。以前、「無間道」という小説を書いた。死んでも死なない。自分が死ぬと言うことと、排除すること、すなわち殺すことの区別がつかなくなる、というようなことを「無間道」で書いた。それを突破する小説を書かないとと思った。自分が自殺をする。みんなが殺し合ったら、その先どうなってしまうのか。理論的には誰か1人が残る。だんだん俺が減っていく。そうするとなかなか展開が難しくなり、書いてみないと分からないと思った。
大江:これほど自分の小説のことを考えている人は珍しい。3人が同じことを考えている。3人の俺の共同体がその瞬間、他の俺がいることが嫌になっている。そこが小説の中でうまくいっている。3人の共同体の破綻、崩壊がうまくいっている。こまごました細部を重ねていって、うまくいっている。他の人間を始末する、小説の中では「削除」といっています。これが「小説の思考力」です。俺が増えると、自分以外の俺を削除しようとする。行き詰まってくる、そこが難しい。一人一人を書いていけば、500人をうまく削除することができる。殺し合いの時代が始まる、始まっている。そこが強い怖さを持っていて、魅力的です。一人になった人間がいる。彼はどう暮らしていくのか。ハンバーガーを食っていた人間が、自分の腕を食べる。しかし、小説の中で面白く書ける人はいない。
星野:最初は、殺し合いが始まった時に、お互い考えることは同じで、ひたすら戦闘シーンを書くだけなので、それは止めてはしょるようにした。殺し合う社会は、日常生活は暮らせるのか。一人になった時、どのように解決できるのか。ひとつの選択肢として、目の前にあるものを食料にする、ということにした。こういう形で書くことがいいのか迷った。大岡昇平を読んで、人肉を食べることがいいのかどうか、書いてみた。書き込むことが果たしていいのかどうか、分からなかった。
大江:結局、みんな始末していく。スマートにリアリティを持って、彼は書いている。中国人の「エン・レイカ?」という人がいる。その人の小説で、人が人を食べてしまうことを、リアリティをもって書いている。他の、中国の人で、人が人を殺して食べてしまうルポルタージュを書いていた。リアリティがあります。こういうものが新しいリアリティだと考えて、前へ進む以外にない。こういう異様な世界があって、あの不幸な場面からどう立ち直ったのか。星野さんは鍵になることを、朝日新聞(2011-5-10夕刊)に書いています。秋葉原の無差別殺傷事件の裁判傍聴記を読んで、こう書いている。「インターネットの掲示板に被告になりすました偽物が登場したことで、居場所が失われ、自分以外は敵だと思うようになった」と。そして「『俺』が増殖し、『俺』同士が殺し合うのは『俺俺』そっくり。若い人たちを取り巻く現実がすでにディストピア的状況なのだと思う」。うちの息子を病院へ連れて行ったら、「胸郭不全」(胸郭不全症候群とは、脊椎、肋骨、胸骨から構成される胸郭が正常な呼吸や肺の成長を支持てきない病態と定義づけられている)と診断された。その医者が言った。「大江さん、今度大江健三郎賞を取った人、知ってますか」と言う。私が選んだのだから知ってますと答えた。「星野さんがディストピアと書いている。ユートピアなら私も知っている。ディストピアはおかしい。どうして朝日にこういうことが書かれているのですか」と。星野さんはディストピアを不幸な社会という意味で使っている。じゃあ「胸郭不全」は英語で何というのですかと聞くと、「ディス・アポシア」だと医者はいう。「日本語で表現できることは、日本語で表現しましょう」と医者は言いました。こういう苦しい現実を見ないようにしようということを、正面から向き合うことで可視化しようとする。彼は僕たちに、行き詰まっている時代、非常に苦しい時代に、どう希望を発見していくか、ということを書いています。3.11、あの状態を見つめることから始まる、と言うことを納得させる小説です。(ここで大江さんは、眼鏡を取り替えて俺、また違う眼鏡を出して取り替えて俺でしょ、と会場を笑わせます)。



以下、「質問」は星野さんへの質問に限ると大江さんが宣言。
質問:電車の中のシーンがよく書かれているが、2回目の俺が死んでしまうシーンは、ない方が良かったのでは?
星野:次に書くときに参考にします。連続しているのか、そうでないのか、しつこく書いたが、人肉食の件で中国人の話、それも読み直して考え直しました。
質問:性別の違いについては、どう考えたのか?
星野:俺俺は男社会として、外にある社会を内面化した。戦争の時代から続いてきた。今また、形は違っても続いている。男の人は特に。それが根っこにあり、そのように書こうと思った。男が女になって、女が男になるという話も、今回は曖昧に書いているが、そういうこともあり得ると思う。
質問:星野さんを読んで、現代のドストエフスキーだと思った。愛する人の肉を食べるということでは、こんな話が。美しい女性がいて何人もから言い寄られ、自害します。母親は「なますの肉」を、男の人みんなに配ります。実は母親は娘を殺して皆さんに配った、という話ですが。
星野:パリで佐川さんが人肉を食べたことをルポルタージュにして書いたものを読んでみましたが、今回の小説とは違うと思った。
質問:途中で、語り手の口ぶりが急に変わった。老成したように感じた。この小説は、不特定多数のことは書けないが、矛盾は内包したまま進んでいく。僕が考えたものは、矛盾を解消するために、そう書いたのかなと思った。どうお考えか?
星野:俺が増えていけばなくなってしまう。同じ俺なのか、自分でも分からなくなってしまった。最後の場合は、全部が俺。自分を空洞化して、自分を放棄する。必ずしも矛盾を解消するというのとは違う。終わりの場面は幾つか考えていたが、長編小説は書いていく毎に変わっている。小説の中で、成り立たないということが出てくる。ある段階を過ぎて、あのような結末になった。
質問:俺を描くためには俺以外、お母さんを描いた。「コニシ・ヤソキチ」の人物造形は。
星野:お母さんも俺になっていくので、一種の繰り返しになっていく。肉親ではない、血縁ではない形で実現したかった。美味しいものを食べて幸せになっていく。ヤソキチは俺俺の逆として、消えてしまう俺、取り替え可能ということでは同じことです。自分というものを考えるとき、他の人との対比でしか自分のアイデンティティを感じるしかない。
質問:どの作品を読んでも悲痛な作品の中にもユーモアがある。思わず笑ったしまう、という点について。
星野:なにしろ陰惨な話なので、自分が笑えるものと、他人にはどうかは分からない。全体として、前の方は気を使った。僕の小説では、重苦しいものが多いので。
大江:笑いについては、よく考えられていると思いました。私が書くと滑稽になってしまう。
質問:俺が増殖していくという話、「同調圧力」の話ですが、イラクへ勝手に行って、それは自己責任であるという論調がありました。翻訳されるということでは、極めて日本的なものなのか? また、3.11以降について。
星野:「同調圧力」がどこから来るのかを考えるために、この小説を書いた。日本的かどうかは自分でも分からない。同調圧力に荷担して圧力をかけるのが日本人だけなのか。均質性を求めて圧力をかけるのは、どの世界にもあることかと思います。翻訳されてどう読まれるのか楽しみです。なんでこうなったのか、誰の責任かは分からないが、よく見ていくと見たくないものが次々と出てくると思う。俺俺的な状況は続いているし。
質問:リアリティを感じて読みましたが、20代の若い世代はどう読んだのか、フリーターなどに読んでもらい、聞いてみました。伝えるべきものや書きたいことはたくさんあるが、ツイッターなどがあり、若い人にどうやって言葉を伝えるか、言葉がどんどん拡張していく。書いていて自分が摩耗していくように感じている。どう届ければいいのか?
星野:それはずっと悩んでいることです。30代の友人は、ツイッターは怖くて読めなくなってしまったという。僕もブログやツイッターをやっていますが、その時に言葉にしておきたいと思ってやっています。特に「文学」だと思っている。ある種、高揚したり熱狂している状態から少し遅れるけれども、言葉にしています。それがどのように作用するか、考えたあげくに、やらなくなることにはならないようにしている。ブログやツイッターについては、どうしていいか分からない。
大江:皆さんの「俺俺感覚」について知りたい。3.11以降、CMで「日本はダイジョウブ」とか言ってる人が「オレオレ」です。皆さん、それに反発しない。「俺は君とは違う。君は俺とは違う」。原発がもっと大きな事故になると、日本は同じ状況になってしまう、お前もかと。歴史的に、初めてのことではないか。電気をコントロールできない。そういう時にに「日本はダイジョウブ」と言ってる。私は違うと思う。大きな経験をして、日本がまったく変わらないのであれば、フクシマ、ハマオカ以外の原発で電気が作られると、今の子供たちが甲状腺に影響を及ぼすという状態になれば、本当に希望がない。同じような運命、危機に取り込まれている。同じような人間が、一人一人が皆違うということを知って欲しい。星野さんとコミュニケーションが行われたことは、「希望」だと思います。「文学」とはそう言うものです。個人個人が声を発しています。最後に一言だけ。フランス語で「オレオレ」。皆さん、ご存じですか。なにかというと、人は聞きたがらないという形容詞です。シャンソンでは、汚い歌、猥褻な歌、のことです。

とんとん・にっき-ooe3 「群像」2011年5月号
第5回大江健三郎賞発表

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「俺俺」

著者:星野智幸

発行:2010年6月30日
発行所:株式会社新潮社
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「第5回大江健三郎賞」

招待葉書

日時:2011年5月19日(木)

    19:00開始 21:00終了予定

会場:講談社社内ホール










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