星野智幸の「俺俺」を読んだ! | とんとん・にっき

星野智幸の「俺俺」を読んだ!

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星野智幸の「俺俺」(新潮社:2010年6月30日発行)を読みました。


が、その前に、衝撃的なこの本の「装画」ですが、タイトルは「燃料のような食事」(静岡県立美術館蔵)、「鋭敏な感性で自己と社会を描き出し、将来を嘱望されながら惜しくも31歳で死去した画家・石田徹也(1973-2005)」の作品です。「多くの作品に登場するうつろな目をした人物は、彼の分身であるとともに、現代に生きる多くの若者たちの自画像でもあります。また、それは複雑で捉えどころのない現代社会の中で生きる私たちが、日頃は心の奥底に押し隠してしまっている精神のドラマを表現したものとして、世代を超えて共感を呼んでいます。ある時は哀しく、ある時は滑稽な現代人の姿を、石田徹也は、精密に観察しながら、丹念に描き出しました」と、「石田徹也―僕たちの自画像―展」(練馬区立美術館:2008年11月9日-12月28日)にチラシにあります。


さて、星野智幸の「俺俺」、装幀は新潮社装幀室ですが、石田徹也の「燃料のような食事」を使ったのは、当然のことながら、「俺俺」と共通するものがあると考えたからでしょう。星野智幸とはどんな人か?巻末の「著者紹介」には、1965年ロサンゼルス生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、新聞記者をへて、メキシコに留学。1997年「最後の吐息」で文藝賞を受賞。2000年「目覚めよと人魚は歌う」で三島由紀夫賞、2003年「ファンタジスタ」で野間文芸新人賞を受賞した。著書に「ロンリー・ハーツ・キラー」「アルカロイド・ラヴァーズ」「われら猫の子」「植物診断室」「無間道」「水族」などがある、とあります。


星野智幸の名は僕は知ってはいましたが、今まで一度も彼の作品は読んだことがありませんでした。「俺俺」についても知ってはいましたが、時流にのって「オレオレ詐欺」について書いた通俗小説だろうと勝手に解釈して、読んでいませんでした。今回、「俺俺」を読むきっかけはというと、昨年末の朝日新聞の読書欄の、「本の達人が選ぶお薦め3点」の中でこの「俺俺」を取りあげていたので、正月休みのでも読もうと購入していた本でした。とりあえず正月休みに読み終わったのですが、ブログに書くのは今ごろになってしまいました。


この本の最初、第1章の「詐欺」は、次のように始まります。「携帯電話を盗んだのは、あくまでもその場のなりゆきだった。盗んで何をするというつもりもなかった。たんに、マクドナルドのカウンター席で俺の左側にいた男が、うっかり俺のトレーに自分の携帯を置いただけのことだ」。俺はそいつの携帯を載せたまま、トレーを持って立ち去ります。俺は家電量販店「メガトン」で働いていて、月曜と木曜が休日です。木曜日の昼飯時、朝昼兼用の食事をマックでとったところでした。


アパートへ帰り、ポケットの中身をこたつの上に開けたとき、携帯を盗んだことを思い出します。やっぱり捨てようと思っていると、携帯が震え始めます。表示を見ると「母」と出ています。メールではなく電話でした。留守電には「あ、だいちゃん?・・・」、クラス会のはがきが来ていることを知らせてきた電話でした。しばらくするとまた母からの電話、通話ボタンを押すと俺が「もしもし」という前に、母は「あ、大樹? お母さん。さっきの留守電聞いた?」と畳かけてきます。俺はマクドナルドの「大樹」の様子を思い出し電話に出ると、母は何の疑問も感じていないように話してきます。つい口を衝いて出たのが「借金こさえちゃったんだ」というフレーズでした。そして俺は、気づいたら別の俺になっていました。

この現象が、次々に増殖します。「上司も俺だし母親も俺、俺ではない俺、俺ではない俺、俺たち俺俺。俺でありすぎてもう何だかわからない。電源オフだ、オフ。壊れちまう。増殖していく俺に耐えきれず右往左往する俺同士はやがて・・・。孤独と絶望に満ちたこの時代に、人間が信頼し合うとはどういことか、読む者に問いかける問題作」、とアマゾンの「内容紹介」にあります。



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