三太・ケンチク・日記 -9ページ目

芥川賞受賞作、中村文則の「土の中の子供」を読む!


最近の芥川賞受賞作を振り返ってみると、第130回2003年下期には、綿矢りさ「蹴りたい背中」と金原ひとみ「蛇にピアス」で大いに話題になりました。その後、第131回2004年上期はモブ・ノリオの「介護入門」、そして前回、第132回2004年下期は阿部和重の「グランド・フィナーレ」が続きました。さて第133回2005年上期は中村文則の「土の中の子供 」に決まりました。


中村文則、どんな人なのか、まったく知りません。「著者略歴」を見ますと、1977年愛知県生まれ、まだ27歳ですよ。福島大学行政社会学部卒業。2002年「銃」で第34回新潮新人賞受賞、第128回芥川賞候補となる。2003年「遮光」で第129回芥川賞候補、2004年第26回野間文芸新人賞受賞。2005年「悪意の手記」で第18回三島賞候補となる。「土の中の子供 」で3度目の正直で、第133回芥川賞を受賞しました。そうそうたる経歴なんですね。


土の中の子供 」、出版社 / 著者からの「内容紹介」を見ますと以下のようです。

私は土の中で生まれた。親はいない。暴力だけがあった。ラジオでは戦争の情報が流れていた――。重厚で、新鮮な本格的文学と激賞された27歳、驚異の新人の芥川賞受賞作。
主人公は27歳の青年。タクシーの運転手をして生計を立てている。親から捨てられた子供たちのいる施設で育ち、養子として引き取った遠い親戚は殴る、蹴るの暴力を彼に与えた。彼は「恐怖に感情が乱され続けたことで、恐怖が癖のように、血肉のようになって、彼の身体に染みついている」。彼の周囲には、いっそう暴力が横溢していく。自ら恐怖を求めてしまうかのような彼は、恐怖を克服して生きてゆけるのか。主人公の恐怖、渇望、逼迫感が今まで以上に丹念に描写された、力作。表題作に、短編「蜘蛛の声」を幣録。



僕は10日の「文芸春秋」の発売日に購入して、一度読みましたが、これがなかなか手強い。というか、読むのも苦痛を伴い時間がかかり、内容はほとんど頭に入りませんでした。これは困ったぞと思い、しばらく間を開けて、再度、読み直してみました。そうすると、なんとまあ不思議なことに、すらすらと読めてなんとか頭にも入りました。ここのところ、ブログ用というわけではありませんが、どうしても「大衆文学」の方へ行ってしまうのが常でしたが。久しぶりに「純文学らしい」、小説らしい小説を読んだ、そんな感じを持ちました。もっとも最近は、芥川賞と直木賞の境界が、はっきりしなくなってきてはいますが。


芥川賞受賞作の掲載されている「文芸春秋」、まず最初に読むのは、そうです、選考委員の「選評」です。これで先入観を植え付けられるということではありません。「選評」を読んでも、受賞作や他の候補作は読んでいませんので、頭に入るわけはありません。結局は、受賞作を読んでから、再度「選評」を読み直すのですが。いずれにせよ、今回の芥川賞は候補作7篇、おしなべて低調であると、多くの選考委員が述べています。7作のうち5作は早々に賞の対象から外れ、残った2作、中村文則の「土の中の子供」と、伊藤たかみの「無花果カレーライス」から、受賞作を出すかどうかに論議が絞られたそうです。


高樹のぶ子委員は選評の中で、「受賞作は、運命的で理不尽な暴力の被害者が、暴力で応報せず、自らの恐怖の感覚を克服することで生き延びようとする観念小説だ。」とし、「落下するゆえに愛し、憎むことに安らぎを憶えるという両義的感覚は、観念から出発していながら身体的感応に行き着いている。」と評価しています。


暴力という、人間性を否み常識を否定してかかる主題は、いつの時代にも小説にとって潜在あるいは顕在した重要な主題だが、今日のようにその種の出来事が反復氾濫する時代にそれを正面から捉えてかかるのは、読者側の社会人としての感性がそうした主題に対してむしろ鈍磨されている故に極めて難しい作業となるに違いない。」と、石原慎太郎は言います。


幼児虐待、トラウマ、PTSD、原因はどこにあるにせよ、自虐的な行いや暴力が、これでもかと言うほど出てきます。しかし、小説の最後に、「父親がどうしても会いたいと言っている」と、ヤマネさんから聞いて、「僕は、土の中から生まれたんですよ。だから親はいません。今の僕には、もう、関係ないんです」と、父親と決別し、ヤマネさんに背を向けて歩き出します。そして「もう少し生活が落ち着いたら、白湯子と小さな旅行をすることになっている。だがその前に、何かの決断も、要求することもできなかった、彼女の子供の墓参りをしようと思った。」と、これから先、白湯子と2人で生きていくことに、かすかな希望を見出します


過去の記事:芥川賞関連

阿部和重「グランド・フィナーレ

http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10000851358.html

モブ・ノリオ「介護入門

http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10000434842.html

金原ひとみ「蛇にピアス

http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10000481172.html

引っ越し中の「なんじゃもんじゃの木」!


ちょっと季節はずれの話題ですが、「なんじゃもんじゃの木」について載せておきます。先日、近所の公園に立ち寄ったら、下水道の施設を公園の地下に作るようで、仮囲いがしてありました。もう、ずいぶん長い間工事をしているようです。そこに「公園ご利用の皆様へ」と題した看板が掛かっていました。よく見ると、「ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)の木は、工事のため八王子お引っ越ししています。今年もきれいな花が咲きましたよ。」と、写真を添えてありました。


ある時「なんじゃもんじゃの木」を調べてみたら、東京では明治神宮外苑の絵画館前にあるのが有名だということでした。そしてこの公園の名前もあるじゃないですか。この公園、子どもが小さい頃から年中遊びに行っていたんですが、実は「なんじゃもんじゃの木」があることは知りませんでした。そうこうしているうちに、「なんじゃもんじゃの木」が引っ越したということを聞きつけました。そうか、ここにあったのか。5月に行った「明治村」でも「なんじゃもんじゃの木」を見かけました。同じ頃、meijiさんが記事 にしていましたね。



毎年、4月末から5月初旬の10日前後の短い間白い花が咲き、その姿はまるで雪がかぶっているように見えます。なぜこんな変な名前がついたのかは諸説あるようですが、やはり「なんという名前の木かわからなかった」ので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるようになったというのが一般的なようです。一説によると水戸黄門が言ったとか?これは確証がありませんが。


正式には「ヒトツバタゴ」、「一葉(ひとつば)たご」と呼ばれる木です。「ヒトツバタゴ」は日本では本州中部の木曽川流域と、長崎県の対馬に自生するモクセイ科の雌雄異株の落葉高木です。「たご」は「とねりこ」という木の方言名で、「とねりこ」が羽状複葉であるのに対し、こちらが単葉であることからそう名づけられようです。



「なんじゃもんじゃ」は広辞苑によると、「関東地方で、その地方では見られぬ種類の大木をさしていう称。千葉県香取郡神崎町神崎神社境内のもの(くすのき)、東京都明治神宮外苑のもの(ひとつばたご)が名高く、その他筑波山のもの(アブラチャン)、山梨県鶯宿峠のもの(りょうめんひのき)などが知られる。」とあります。必ずしも「ひとつばたご」だけではないんですね。


工事の看板が掛かっていたかどうか?見逃しました。工事期間がどこかに書いてあるとは思いますので、今度行ったらしっかりチェックしなくちゃ。下水道工事が終わったら、八王子に引っ越している「なんじゃもんじゃの木」は、必ずこの公園に戻ってくるのでしょう。そして、4月末から5月初旬には、白い雪のような花を咲かせることでしょう。

「向井潤吉アトリエ館」へ行ってきました!



世田谷美術館の分館は、「清川泰次記念ギャラリー」と「宮本三郎記念美術館」、そして「向井潤吉アトリエ館」があります。それぞれ小さいながらも特徴のある美術館です。過去に「宮本三郎記念美術館」について書いた記事をこのブログにも載せました。先日、暑い最中、「向井潤吉アトリエ館」へ行って来ました。東急田園都市線の駒沢大学駅西口から徒歩10分と、案内書には書いてあります。僕は三軒茶屋から世田谷通りを環状7号線方向に少し歩き、門井不動産の横を左に曲がって、駒沢給水所へ真っ直ぐ伸びる水道道路を通り、途中から蛇崩川の緑道を通って行きました。



向井潤吉アトリエ館」は、民家を描き続けた洋画家・向井潤吉が、ご自分のアトリエを兼ねた自宅を、美術館として改装して、その作品660点とともに世田谷区に寄贈されたものです。場所は以前から知ってはいたのですが、アトリエ館の中へ入ったのは今回が初めてです。これも長年、行こう行こうと思っていたのですが、やっと実現しました。なにしろ、実際にお住まいになっていたご自宅を改装したものですから、他の美術館とはちょっと違います



敷地は道路から太い木組みの門を入り、約2メートルぐらい石段を曲がりながら登ります。正面に玄関があります。樹木に囲まれた建物は大屋根の骨太な外観です。屋根の形は前川国男邸と似ていますが、こちらはしっとりとした民家風の佇まいです。その横には「土蔵」があります。いまは展示室になっていて、内部でつながっています。玄関を入ると受付があり、その左手には事務室があります。右手にはちょっとした休憩コーナーがあり、そこでビデオを30分ぐらい見てから、靴を脱いで玄関を上がり、アトリエ館の中を見学しました。展示室に入ると正面に、なんとアングルの「」があるではないですか。



向井潤吉は、明治34年(1901)に、京都で生まれました。大正5年(1916)から4年間、関西美術院に学びました。昭和2年(1927)から昭和5年(1930)にかけては、フランスを中心に滞欧し、ヨーロッパ各地の美術館を観てまわり、またルーヴル美術館では、アングルの「」、ルノアールの「バラを持つ若き女」など21点の作品を模写し、ヨーロッパ美術の本質を深く学びました。帰国後は「二科展」を中心に作品を発表していましたが、終戦後の昭和20年には「行動美術協会」を結成、以後ここを主な発表の舞台としています。



昭和8年(1933)には、世田谷区弦巻に居を構え創作の拠点としました。「向井潤吉アトリエ館」になっている建築は、昭和37年(1962)に建てられたものです。調べてみると住宅を造らせたらピカイチの「佐藤秀工務店」の設計施工でした。また付設の土蔵は昭和44年(1969)に、岩手県一関から移築されたものです。



民家」の画家として知られる向井潤吉は、戦後間もない頃より「民家」作品の制作を始めています。向井は制作現場にカンバスを携え、その土地に足を運ぶことによって、民家を含む周辺の自然環境や、そこに生活する人々の表情などにも大きな関心を抱き、独特な迫力あるリアリティを感じさせる作風を生み出しました。岩手県滝沢村の「南部曲家」、山形県田麦俣の「かぶと屋根」、また、岐阜県白川村の「白川郷」など、その地域特有の形態を持った民家は、向井潤吉の画心を刺激したのでしょう。建築的にも興味をそそられるものばかりです。


山形県東田川郡朝日村田麦俣のかぶと屋根

しかし、こうした民家のある風景は、次第になくなりつつあり、その土地ごとの特徴や味わいを見いだすことは、容易でなくなってきました。だからこそ、向井潤吉の民家のある風景は、人々の共感を呼び起こし、ますます引きつける魅力を持つのでしょう。


世田谷美術館HP

http://www.setagayaartmuseum.or.jp/

過去の記事:宮本三郎展・鮮麗な色彩豊かな造形

http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10000288163.html

唯川恵の「肩ごしの恋人」を読んだ!


やっぱり「直木賞受賞作」という「肩書き?」で飛びついたんだろうな?なにしろ本の帯には「驚きに満ちた新しい恋愛小説が誕生した」とありますから、そりゃあ、飛びつきますよ。でも出版社が「マガジンハウス」というのがくせ者!1984年に「海色の午後」でコバルト・ノベル大賞を受賞しているんですね。コバルトといっても桐野夏生もいれば、山本文緒もいますので、ああ、やっぱりコバルトの出身か、という偏見は持ってはいませんが。それから8年、一足飛びに2002年、唯川恵「肩ごしの恋人」で直木賞受賞、となり、本人も「信じられない」を連発したそうですが。今から思うと、僕も信じられない、なんでこんなものが直木賞?去年の年末にブックオフで買っておいたこの本、一応読むことは読みましたが、なにしろ馬鹿馬鹿しいの一言、いい年をしたオッサンが読むような小説ではありません。そりゃあ、さらりと、読みやすいことは読みやすいですけど、だからどうということはありません。タイトルはどう考えてもまったくの意味不明です。


第126回平成13年下半期直木賞受賞といえば、山本一力の「あかね空」と同時受賞だったんですね。ということは、4年前の本ということか。「あかね雲」は時代劇ということもあり、珍しく単行本を買って読みました。うーん、こちらもさらりとは読めましたが。前半はいいけど後半が、というものでした。でもその時は、山本一力の会社を倒産させ借金まみれのお涙頂戴物語ばかりがクローズアップされて、僕の場合「肩ごしの恋人」はその時点で視野に入っていませんでした。


対称的な二人の女性、輸入代行会社のOL、仕事に打ち込み自立しているが、他人も自分も信じられない「」と、萌の幼なじみ、オンナを武器にしている専業主婦、結婚と離婚を繰り返す「るり子」、二人に関わる男たちとの恋愛ドラマ。そう、まさにテレビの恋愛ドラマだったらちょうどいい脚本のようです。あなたが思う自分は「萌派」?それとも「るり子派」?女性はきっとみんなどちらも内に秘めています、そんな問いかけでいいのかな?3度目の結婚をしたばかりのるり子、夫の浮気発覚で、萌のマンションに転がり込みます。


出てくる男一人一人が、皆一様に腑抜けた男ばかりです。家出少年で萌とるり子と同居する秋山崇、外車販売の営業職でるり子の男友達の柿崎、ゲイ専門書店の店長のリョウ、女々しいるり子の夫信之もいました。「あっけらかんとしすぎている、という批判もいただきましたが…」と文庫本のあとがきにあるそうですが、登場人物が「あっけらかん」、みんな割り切った性格の人ばかりで、いまひとつ現実感に欠けています。というか、この作品に出てくる人物は、見事にパターン化されています。


るり子の結婚式で同席した柿崎に萌は「どうしてるり子じゃ駄目だったの?」と聞くと、この海老嫌いな男は「彼女はいい子さ。すごく魅力的でもある。でも残念なことに、僕の将来に必要なのは上司の娘の方だったんだ」、こんなことを言う男がどこにいますか?フェミニズムについて熱弁をふるう女友達に対して、「フェミニズムを叫ぶ女って、ブスばかりなのよね」とるり子は言い放ちます。「あなたみたいな女がいるから、女性の立場がいつまでも向上しないのよ」と言われても、「私、何か変なこと言った?」と平然としています。こんな女、ホントにいるの?


唯川恵の描く世界は「居心地はいいけど刺激のないぬるま湯のような小説」と、「L文学読本」の中で評されています。江國香織が文庫本の解説で、言うに事欠いて次のように書いています。「唯川恵の筆は梨でできているのではないか」「あるのはみずみずしさと、どこまでもさくさくとした歯ざわりのよさ」江國香織も一筋縄ではいきません。なかなかこのような表現は出きるものではありません。三文小説の解説する方も辛いです。


「あかね雲」 山本一力著

平成13年10月15日第1刷

発行:文芸春秋

続「街の中の実のなる木」、「ザクロ」と「キウイ」

2ヶ月近く前に、このブログで「街の中の実のなる木」と題して記事を書きました。その中で、毎年実をつける「緑道の石榴の木」を、画像を付けて載せました。ところが、ちょうど花を付け始めた頃に、お役所から派遣された植木屋さんが、枝払いというのか、剪定というのか、石榴の木を刈り込んでしまい、今年の夏はまったく実を付けなくなってしまいました。そのちょっと前には、まだ花を付け始めたばかりの紫陽花がきれいに刈り込まれてしまいました。確かに緑道をきちんと管理するのは、手間暇がかかりますし、大変なことだとは思います。でも、これから咲いたり実ったりする樹の枝を払ってしまうのはどうしてなんでしょう?ここでは「街の中の実のなる木」の続編、「石榴(ザクロ)」と「キウイ」を取り上げてみたいと思います。



実は「街の中の実のなる木」の最後に、緑道のものより3倍も大きな石榴の木を見つけたと書いておきました。毎朝の散歩コースにあるその石榴の木が、実を付けてかなり大きくなってきました。石榴の原産地はカルタゴ、北アフリカのチュニジア辺りだと言われています。日本には10~11世紀頃渡来したそうです。6月から7月には赤い花が咲きます。漢名の「石榴」の音読み「せきりゅう」が次第に変化して「ざくろ」になったようです。また、原産地近くの「ザグロブ山」の名前からきた、という説もあります。




熟してくるとザックリと裂けて丸いツブツブが出てきます。実(み)は食べられます。種(たね)が多いことから、アジアでは昔から子孫繁栄豊穣のシンボルだったようです。また、実を煎じた液でうがいをすると扁桃腺炎に効き、陰干しした花や実を煎じて飲むと下痢止めになります。「石榴酒」にしたり、最近は健康食品としても売り出されているようです。原産地ののせいか、その異様な形のせいか、あまり一般には食されていないようですが、なんとなくエスニックな感じがする果物?です。



さて、「キウイ」ですが、あるんですね、街中にこんなお宅が!これには驚きました。家人と話していると、このキウイの話が出てきて、いまのうちに写真を撮りに行くと言っていたので、それでは一足早くにと、見に行ってきました。まあ、画像を見れば分かりますが、門扉の前の駐車場2台分ぐらいのスペースですが、その上にびっしりとキウイがぶら下がっています。僕が初めてキウイを見たのは、20数年前農家の庭先で見ました。その頃のキウイはほとんど輸入されたもので、あまり馴染みが薄く、驚いた記憶があります。




キウイは、木天蓼(またたび)科だそうです。原産地は中国です。ニュージーランド産が有名です。実のまわりに褐色の産毛をまとった姿がニュージーランドの国鳥「キウイ」に似ているところからこの名になったと言われています。ビタミンや植物繊維に富み、ちょっと酸っぱいけど美味しいんですよね。って、僕はあまり好きではないんですが。日本へは、1960年代にニュージーランドから初めて「キウイフルーツ」の種子が入ってきました。今ではミカンの転換作物として国内生産量が急増し、生産過剰の傾向にあるよう です。そのため、ドライフルーツ、ワイン、ジャムなどの加工品としても利用されています。


*過去の関連記事:街の中の実のなる木
http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10002521730.html

「無言館ノオト――戦没画学生へのレクイエム」


2005年は終戦から60年。暑い夏は、「戦争」について考えさせられる季節です。先日、7月31日のNHK新日曜美術館は、長野県上田市の「無言館」の特集でした。タイトルは「戦没画学生・カンバスに込めた青春の思い」というものでした。ゲストは映画監督の山田洋次、解説は無言館館主の窪島誠一郎でした。僕は朝の9時からの番組を見て、また夜8時からの再放送を見ました。前日夜、「報道ステーション」の戦後60年の特集企画でも「無言館」が取り上げられていて、ゲストは菅原文太だったようです。


無言館」は、まわりを山々に囲まれた塩田平、田園地帯の丘陵地の頂に、浅間山を背景にし、中世のヨーロッパの僧院を思わせるコンクリート打ち放しの建物です。その中に、先の太平洋戦争で志半ばで戦地に散った画学生30余名300余点の遺作、遺品が展示されています。「信濃デッサン館」の館長窪島誠一郎が、画家で自らも出征経験があり、また美術学校の仲間を戦争で失った画家野見山暁治とともに、日本各地の戦没画学生のご遺族のもとを、敗戦後50年を迎えた平成7年5月から2年間探し訪ね遺作を蒐めたそうです。村山槐多ら夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」の分館として、今から8年前、1997年(平成9年)5月2日に開館しました。



さて、ここでは「無言館ノオト――戦没画学生へのレクイエム」という本の紹介です。著者は無言館館主の窪島誠一郎、集英社新書から出版され、定価は本体760円+税です。2001年7月22日第1刷発行ですから、いまから4年前の本です。僕は2年前位だったか、購入して斜め読みしていたものを、本棚の奥から引っぱり出してきました。窪島誠一郎の著者略歴を見ると、1941年東京生まれ。信濃デッサン館、無言館館主。作家。印刷工、酒場経営などを経て、65年東京世田谷に「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。また79年長野県上田市に美術館「信濃デッサン館」を、87年ニューヨーク州に「野田英夫記念美術館」を、97年「無言館」を設立した。著書に、実父水上勉との再会を綴った「父への手紙」(筑摩書房)、「信濃デッサン館20年─夭折画家を追って」(平凡社)、「信州の美術館めぐり」新潮社)など。とあります。


長野県上田市の郊外に建つ、コンクリート打ち放しの平屋建て、建坪120坪の、十字袈形をした小さな私設美術館「無言館」。日中戦争、太平洋戦争で、卒業後、もしくは学業半ばで、戦地に駆り出され戦死した画学生の、遺作や遺品が約300点が展示してある。建設のきっかけは、著者と画家・野見山暁治氏との出会いだった。「戦死した仲間たちの絵」の話に共感し、全国の戦没画学生の遺族を訪問する旅を、氏と一緒にはじめたのだった。



開館して4年ほど経ってから、なぜこの本が書かれなければならなかったのか?「はじめに」にも書かれていますが、無言館は「後ろめたさの美術館」であると言い、設立した本人がその存在に対して「一片のフの落ちなさがある」、「どこか未整理な、中途半端な気持ち」があると言います。この美術館に対して、遺族や賛同者たちの支援があると同時に、一方では偽善行為と見る批判的な目もあります。無言館の存在に対して肯定的な意見もあれば、否定的な意見もあります。1997年に「無言館」を設立して4年目、自分の足元を見つめ直そうとしたと理由にあげています。


絵そのものは、若い画学生が描いたもので、まだ未熟なものがほとんどです。しかし、彼ら戦没画学生の描いた絵は、一様にある特有の「静寂」をたたえていると言います。その「静寂」に満ちた絵に、逆に饒舌な発言があると言うのです。だから「無言」というのは、「むしろそれを強いられるのは戦没画学生たちの絵の前にたたずむ我々の方と言えるのかも知れない」、と窪島は言います。


無言館」は民間美術館だけに今後の課題が山積しています。遺族の高齢化に伴い、遺品をどうにかしたいと考えている遺族も多いそうです。それら全てを預かって、全てを展示するのは「無言館」の面積からも不可能です。しかし著者が現在、最も心配なのは「戦場で死んだ画学生のことなど誰も見返らない時代がすぐそこまで来ていることだ」と言います。せっかくの思いを「風化」させないようにすることが大事だと思います。そして、一人でも多くの人が「無言館」足を運ぶのが一番でしょう。僕も、近いうちに信州上田の「無言館」を訪ねてみたいと思っています。



現在、「京都文化博物館」で、7月30日から8月28日まで、「戦後60年 いのちの証 無言館遺された絵画展」が開催されています。これは昨年「東京ステーションギャラリー」で開催されたものの巡回展です。残念ながら、僕は見逃しましたが。

追記
8月12日(金)、午後11時から、NHK総合テレビの「人間ドキュメント」で、「最後の一枚~戦没画学生・いのちの軌跡~」と題して放映されます。「戦没画学生は何を思いながら最後の絵を描き、出征していったのか。戦争は、画学生から何を奪っていったのか。終戦から60年目の夏、遺族や友人の証言と取り組みから『最後の一枚』までの命の軌跡をたどる」とあります。

再放送は、8月19日(金)午後5時15分からNHK衛星第2放送「BSアンコール館」 、そして、8月25日(木)午前1時15分から(24日水曜深夜)NHK総合テレビです。是非ご覧になってはいかがでしょうか。


*東京ステーションギャラリーはこちら

*京都府京都文化博物館はこちら

絵本親しむ夏休み、読んでふれて異国の香り

アートンの絵本シリーズ「韓国の絵本100選」

見たことも聞いたこともない世界にゆくことができる絵本。ページをめくるたびに子どもは、新たな発見をし、想像力をかきたてられる。一方、「雑貨感覚で部屋に飾ってもかわいい」というのが、若い女性たち。チェコやハンガリーなど独特の雰囲気を持った東欧の作品を、アート作品のような感覚で楽しんでいる。

最近、特に注目されているのが、アジアの絵本だ。特に韓国の本は、「韓流ブーム」で売り上げも伸びている。出版社のアートン(03-5459-2752)では、昨年3月から「韓国の絵本10選」と名付けた絵本シリーズを刊行。なかでも、韓国のおばけトッケビをユーモラスの描いた「うしとトッケビ」は1万部を超えるヒット作品になった。アートンでは、この秋アジア・アフリカ地域の絵本を立て続けに売り出す。10月からはインドの絵本を発売。伝統的画法「ミティラー画」や「ワルリー画」を使った絵本で、異国の文化に触れることができる。



韓国絵本の翻訳家・大竹聖美さんに聞く
韓国で絵本が発展するようになったのは、90年代半ば。中核をになうのは、30~40代の若手作家です。彼らは、若い頃、学生運動に直面し、民主的で新しい市民文化を創造しようと意欲に満ちた世代。彼らが子供を持つ年代にさしかかり、「いい絵本が欲しい」という実生活に根ざした思いから、創作活動が始まったといわれています。

代表作としてあげられるのが、「ソリちゃんのチュソク」(セーラー出版)。日本のお盆にあたる「秋夕(チュソク)」を描いたお話で、韓国絵本としては初めて日本の課題図書に選定されました。映画や俳優と同じように、絵本は、外国の文化を知る一つのきっかけです。まだ歴史や政治的背景を知らない子どもたちにこそ、読んでもらいたいですね。
上記の文章はすべて、朝日新聞:2005年8月10日夕刊からの転載です。


過去、大竹聖美さんに聞く「韓国の絵本」と題して、

3月24日に同様の記事を書きましたので、ご参照ください。

http://ameblo.jp/tonton1234/day-20050324.html

暑い夏はやっぱり「チャナ」のカレーだ!


東京は30度以上の真夏日が15日連続で続いています。「こう暑くちゃ、やっぱりお昼はカレーかな!」ということで、久しぶりに「チャナ」へ行ってカレーを食べてきました。三軒茶屋駅から世田谷通りを約8分ほど下って行って、環状7号線と交差する少し手前右側にあるカレー専門店「チャナ」です。お店が出来た頃からの、僕の行きつけのお店です。無垢の木を使った店内は落ち着いたカントリー調で、温もりのある空間です。族で経営しているらしく、いわゆるチェーン展開のお店にはない、真心や温もりの感じられる丁寧な応対で、実に気分が良いお店です。なぜか漫画もたくさんあります。



僕がいつも注文する品は、店名と同じ「チャナ」です。これは辛口のポークカレーです。メニューにはこれ以外に、「チキン」や「野菜」などがあるようですが、僕はなぜか「チャナ」以外には頼んだことがありません。ただ、「チャナ」ちょっと辛いので、辛口では困るという方には辛くないものもありますが。この「チャナ」という名のカレー、ソースは粗挽きされたスパイスに、タマネギ、トマトを溶かし込んだものです。それに豚バラ肉を柔らかく煮込んだいわゆる「角煮」が入っています。これはスプーンで簡単に切れます。付け合わせに、キャベツを大きく切ったコールスローサラダが付いてきます。これがサッパリして実に美味しい。そうそう、他に福神漬けと、なぜか小粒の梅干しがあります。(2段重ねのステンレスの容器に入っている)



振り返ってみると、このブログではほとんど「食べ物」を話題にしたことがないことに気が付きました。カレーについては過去に「祐天寺のナイヤガラ」の記事を書きました。これは、お店が鉄道関連の飾り付けで面白いということで、カレーが美味しいというお店ではありませんでした。と思って見直してみると、その記事にしっかり「チャナ」のことを話題に出していました。また、「チャナ」について書かれた記事にリンクが張ってありました。僕も、今までいろんなカレーを食べましたが、ここのお店「チャナ」のカレーの美味しさは、やはりひと味違います。三軒茶屋に来られる方や、近隣にお住まいの方でまだ「チャナ」のカレーをご存じない方は、是非一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。


チャナ」東京都世田谷区若林1-17-1 TEL:03-3411-7259 チャナ980円


過去の記事:祐天寺の「ナイヤガラ」のカレーを食べた
http://ameblo.jp/tonton1234/entry-10001260138.html

長崎原爆忌・安置された被爆マリア像

1945(昭和20)年8月9日午前11時ごろ、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」がプルトニウム原爆「ファットマン」を投下し、長崎市松山町の500m上空で爆発した。約7万4千人の市民が死亡、約7万5千人が重軽傷を負いました。8月9日原爆犠牲者慰霊平和祈念式が行われ、原爆投下の時刻とされる午前11時2分から1分間黙祷が捧げられます。僕の母親が長崎県出身なので、母親が里帰りをした折りに、長崎市の平和公園・平和祈念像を訪ねたことがあります。いつもこの時期、なにもできない自分が気になります。 今日あった長崎関連のニュース、特に浦上天主堂関連を、以下に掲載します。


安置された被爆マリア像

長崎・浦上天主堂新設の祭壇に安置された「被爆マリア像」。戦後、同天主堂のがれきから発見された。平野勇主任司祭は「戦争と被爆を体験した像を反戦・反核のシンボルにしたい」と話した。
時事通信社:8月9日



被爆マリア像公開

長崎市本尾町の浦上天主堂で、終戦後にがれきの中から見つかった「被爆マリア像」が、60回目を迎えた長崎原爆忌の9日から公開される。
時事通信社:8月7日



独唱するコロンえりかさん

長崎市本尾町の浦上天主堂で一曲だけのコンサートが開かれた。曲は「被爆のマリアに捧げるアヴェマリア」。瓦礫の中から見つかった被爆マリア像がこの日、天主堂の祭壇に60年ぶりに安置されるのを記念したものだ。企画したのは東京都文京区の岩波智代子さん(57)。目を閉じて聞き入った岩波さんは「記憶を摘む悲劇は長崎で最後にしなければ」と静かに祈った。天主堂は爆心地からわずか約500メートル。原爆は浦上で暮らしていた信徒1万2000人のうち、8500人の命を奪ったとされる。


岩波さんの父親は市外にいたが、3日後に市内に入って被爆し、19年前に他界した。岩波さん自身は天主堂近くで生まれ育った被爆2世。実家は代々の信徒で、原爆の犠牲になった祖母たちは、明治初期の信徒迫害「浦上四番崩れ」が語り継がれ、記憶に残っていたはずの世代だ。「記憶の継承を理不尽に断った原爆を憎みます」と岩波さん。やがて「被爆のマリアに捧げるアヴェマリア」という、ベルギー人の作曲家エリック・コロンさんの曲に出合い、4年前から、この曲のコンサートを長崎県内の教会で開き始めた。「伝承されていたはずの歴史、原爆で失った『文化』を取り戻したい」一心だった。


被爆マリア像は原爆投下2か月後に見つかった聖母像の頭部で、右ほおに黒く焦げた跡が残る。小聖堂に復元された祭壇に、マリア像を納める式がこの日行われた。「天主堂で歌いたい」。コロンさんの娘で、日本人の母親を持つ声楽家のコロンえりかさん(東京都世田谷区)から相談を受け、岩波さんが橋渡しした。式の後、えりかさんのソプラノは、パイプオルガンの伴奏が流れる中、堂内にこだました。マリア像をたたえる曲に、信徒たちは聞き入った。歌い終えてまもなく、午前11時2分、原爆犠牲者を悼むアンゼラスの鐘が鳴った。
読売新聞:8月9日


旧浦上天主堂

おじいちゃんが建てた教会こちら

旧浦上天主堂は、大正14年、建設の時にも参加しましたが、双塔は鉄川与助が作りました。浦上天主堂は、長崎市の浦上にあり、原爆の爆心地から北東に約500mしか離れていません。旧浦上天主堂は、着工してから実に31年という月日をかけて完成しましたが、20年あまりで、原爆によって一瞬に壊れてしまいました。現在の浦上天主堂は昭和34年に再建されたもので、与助の長男与八郎の設計施工です。

鉄川与助のつくった天主堂は、50以上と言われています。特に五島列島にある小さな教会が建築的にも優れていて地域に馴染んで印象的です。

環境にやさしい「ヴェロタクシー」!

環境共生都市推進協会:森田記行さん

僕が「ヴェロタクシー」を初めて見たのは、たぶん3年前の秋神宮外苑の銀杏並木だったと思います。カラフルでユーモラスな車体が5~6台勢揃いしていました。今まで見たことのない乗り物なので、ビックリしたのを憶えています。その後、表参道や六本木ヒルズの近辺で何度か走っているのを見かけました。そして先日、愛知万博へ行ったときに初めて乗る機会がありました。体格のいい男が二人乗っても、楽に動きました。「補助電動アシストがついているから楽なんですよ」という若い運転手さんとの会話が、また楽しいひとときでした。




ドイツ・ベルリン生まれの「ヴェロタクシー」は、排気ガスを出さない環境に優しいタクシーとして、ヨーロッパでは11カ国・20都市で市民に親しまれているそうです。日本では2002年5月に京都に上陸し、2002年10月に東京へ進出しました。東京進出後、当初の10台ではお客様の要望に答えきれず、3月に倍の20台に増車したそうです。「ヴェロタクシー」を開発したドイツの会社とパートナーシップを組んでいる京都のNPO環境共生都市推進協会」が母体となって、「ヴェロタクシー」は運営されています。


ヴェロタクシー」は1997年に誕生しました。特徴は何といってもこの卵のようかわいらしい形です。空気抵抗を少なくし、できるだけ早く走れるようにするためです。車体はポリエチレン製で、再生可能な素材で作られているのも、排気ガスゼロと共に、環境にやさしい車と呼ばれる由縁です。重さ144キロ。全長305センチ、幅110センチ、高さ175センチ。補助電動アシストを装備し、21段変速、前輪リム、後輪ディスクブレーキです。




前列にドライバーが座り、乗客は後列の2人がけ座席に座ります。定員は大人2名+小人1名。初乗り料金は大人300円、小人200円で、地図上で計った直線距離500mまでが初乗り、その後は100mごとに大人50円、小人30円が加算されます。1人より2人の方が重くて負担が大きいということで、一般のタクシーと違って、バスのように人数単位の課金となります。


かわいらしい形に、カラフルな広告がプリントされています。派手な「ヴェロタクシー」が表参道や六本木を走ればみんなが注目します。この「ヴェロタクシー」は単なる移動手段だけでなく、見て楽しい優れた広告塔です。他の交通広告に比べ、走行速度や目線が歩行者に近いという特徴もあります。一方、ドライバーは典型的な肉体労働だ。しかし、ファッショナブルなイメージで、女性のドライバーも多く、不思議と楽しそうに働いているように見えます。ヴェロタクシーの運転手は青いシャツと黒いパンツが制服です。




世界の台数は、600台以上。ベルリンには約80台ある。ロンドンやスイスのチューリヒ、オランダのアムステルダム、スペインのバルセロナなどに広がっています。日本は直営の4都市で32台業務提携の7都市で41台です。全国合わせてもまだベルリンより少ない。自転車タクシーを広め、地域再生にと考えたのは「環境共生都市推進協会」代表の森田記行さん(30歳)、雑誌の写真を見て目がくぎづけになったと言います。「雑誌で写真を見て、かっこええなあ、と思ったんです。運営手法にも驚いた。広告の収入で経営を支え、運賃は運転手に渡す。これなら事業として成り立ち、環境を大切にしようというメッセージも発信できる」、そして「株式会社にして利益を上げるより、まず普及させたい」と、NPO(非営利組織)での運営にこだわりました。


森田記行さんは1974年京都市山科区生まれ、2000年にドイツのヴェロタクシー社と1年ぐらいメールでやりとりし、01年9月にベルリンの本社を直接訪ね、何とか日本での独占販売権を獲得でき、02年に「環境共生都市推進協会」を設立し、契約しました。京都で営業運行を始めたのは02年5月です。貯金や家族、仲間の金を集めて、1台約100万円のヴェロタクシーを10台購入しました。京都、東京でヴェロタクシーを運行、04年には大阪でも運行、そして05年「愛知万博」に参加しました。また名古屋でも運行を開始しました。




愛知万博では「ブリジストンサイクル」と「ヤマハ発動機」、「ナショナル自転車工業」の国内3社が、助成金を受けて自転車タクシーの試作品を計20台開発しました。「環境共生都市推進協会」は各地で営業運行の実績があるので、その20台とヴェロタクシー2台の運行を任されたそうです。


*「Velotaxi Japan」は こちら