いきょくのまねーじゃーのブログ

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市立砺波総合病院の整形外科医です

人なり

 

 「芸は人なり」。録画してあった日本の話芸で、柳家花緑さんの「井戸の茶碗」をきいた。まくらで祖父にあたる小さんさん(なんか変だが)のこんな言葉を紹介されていた。さらに「音楽は人なり」、「書は人なり」とのこと。芸、音楽、書に表現者の「人」が出るというのだ。

 

 

 入院中の患者さんの治療方針に関して、スタッフとのカンファレンス中にこんな言葉が頭によぎった。たまたま実習に来ていた学生さんに意地悪な質問をしてみた。医療には限界がある。完全なものではない。しかし、病を治してもらえると期待している患者さんも少なくない。そんなときどうしたらいいだろうかと問いかけてみた。周りで聞いているスタッフに対して聞いてみたかったが、学生さんの前で恥をかかせるわけにもいかない。医療技術や能力より、人間力が試されることを伝えたかった。

 

 「治りません」と言えば済むだろう、と言われるかと思ったが、言葉は返ってこなかった。治らないことをそのまま伝えることも大切なこと。現状を正確に伝えることは、基本だろう。嘘をつくことはよくない。「井戸の茶碗」ではないが正直者でありたい。しかし、その伝え方には、工夫が必要だと思っている。

 

 書くまでもないが、医療知識や技術を手にしておく必要がある。そのためには、勉強する必要がある。それでも解けない問題がたくさんあるのが医療というもの。以前、産業医の資格取得の講習で、石川雄一先生は、「How to doは教えることができるが、もっと大切なのはHow to be」だと言われていたことを思い出す。

 

 医療を行うとき、特に患者さんを治せないとき、患者さんの力になれないとき、「人」が出るように思う。「医学は科学に基づいたアートである」とカナダの医学者ウイリアムオスラーはいう。「芸」や「音楽」や「書」と同様に、そういう意味でも「医療は人なり」だと思うのよ。

 

 

誕生日を迎えて

 

 昨日、無事に誕生日を迎えた。(以前にも書いたがお釈迦様と同じ日。)こんなことがあたりまえのようであたりまえではない。そんなことを考える今年の誕生日。

 

 甥っ子から、朝一番で「おめでとう」とメッセージが届いた。夜には、別の甥っ子が留守番電話に「ハッピーバースデートゥーユー♪」という歌を残してくれた。今までなら、何がめでたいんだ、この年になって、なんてぼやいていたかもしれない。

 

 昨日は、午前と午後とに手術があって、手術の合間に外来に行くと、外来の看護師さんは、待っていましたとばかりに「おめでとうございます」と声をかけてくれた。私の誕生日を覚えていてくれた。今年は、誕生日がうれしいというより、ありがたいと思った。誕生日がありがたいと思ったのは初めてかもしれない。

 

 話は変わるが、昨日の新聞のお悔やみの欄に、大切な先輩の名前があった。4月4日に亡くなったとの知らせがあったが、家族葬とのことでお別れもできずにいるのだが。

 

 大学病院時代に一緒に仕事をした時期がある。いろんな思い出がある。大学病院で夜遅くに病棟にお菓子の差し入れがあると、一番最初に手を出すのがこの先輩、それに続くのが私。ということで「甘いものクラブ」というものを結成し、クラブの部長がこの先輩で、副部長が私、部員は2人きり。そんな関係だった。

 

 砺波に来てからも、お付き合いいただいた。仕事上での問題があると、秘密会と称して、二人きりで食事することが何度もあった。今年1月に「先生には、以前から話しておかないといけないことがあると言っていましたが…」という長文のメールをいただいた。そこには、病気の経過と現状が詳細に書かれていた。そして「なんとか生き延びたいです」と。涙しながら読んだことを覚えている。

 

 その後、「治療に行ってくる」との連絡をいただき、新たな治療を受けられていると聞いていたので、いつの日かまた一緒に仕事できるものと信じていた。外は桜が咲いていた。強い風が吹いていた。先輩は、空に舞い上がって逝かれた。

 

 私は、誕生日を迎え、新たな1年が始まった。まだまだ仕事をしたかったであろう先輩の分まで仕事をしますね。                                  合掌

「無理ですね」

 

 「私の腰まっすぐなりますか?」と言われた時、「無理ですね。」と言ったら、患者さんはどんな気分になるだろう。そんな自問自答をすることがある。書くまでもないが、若返らせることは無理である。間違ったことを伝えているわけではないのだが。

 

 話は変わる。3月23日から、電子カルテが新しいものに変わった。今時、電化製品は進化していて、新しいものは、使い勝手がよくなっているのが当然のように思ってしまう自分が間違っていたのかもしれない。新しい電子カルテは、一言で言うなら使い勝手が悪すぎるのである。使う側の私の劣化は棚においての話と言う面は否定しきれない。

 

 看護師さんに質問してみた。「どうですか、電子カルテの調子は?」というと表情が曇る。「元の方が良かったわ。疲れてしまって。」と言う。「じゃあ、言えばいいのに」と言うと、「そんなの言えない」とのこと。(これを「心理的安全性が低い」というのかも)リハビリスタッフにも聞いてみた。「入力しにくくて、見たいカルテが探しにくい」と悪評が聞こえてくるが、「言ってもどうにもならないから」と諦めの様子だった。

 

 「じゃあ、見方を変えよう。何かよくなったところを教えて」と質問してみた。「えーっと…」と言って答えが返ってこない。しばらくして、若いスタッフが、「フォントが好きですよ」と言ってくれた。フォントが若い人好みになっているのかもしれない。

 

 毎日、午前中の外来が終わるのが、今までより遅い。患者さんの数は、増えてはいない。となると待ち時間が伸びているはずである。「先生も大変ですね」と同情される始末である。大変なのは、患者さんであり、それを治療するのが仕事のはずなのに、こちらが心配されている。そして、外来が終わって医局に戻るとふらふらである。「電カルに体力奪われた」と呟くことが続いている。

 

 電カルの使い勝手の悪さは、医療の安全性を低下させる。なぜなら、集中力は低下につながり、診断の見落としや処置のミスにつながらないとも言い切れないだろう。さらには、電子カルテに労力を奪われ、モチベーションの低下に繋がることも想像に容易い。いずれにしても電子カルテを使うことは、手段のはずなのに、足手まといになりつつある。

 

 不具合を申し出たところ、メーカーの係の人からアプローチがあった。不具合の状況を確認させて欲しいとのことだったので、具体的に電子カルテを動かしながら、不具合を説明した。詳細は書かないが、古い電子カルテでできていたことが、できないのである。

 

 「なんとか今までのように使えるようになりませんかね」と質問すると「無理ですね」との愛想のない返事だった。ユーザーの気分を想像してくれていたかは、確認の術がない。正直がっかりした。他人は変えられないが自分は変えられる、なんていう。なんとか変わりたいが。

 

 話を戻す。冒頭書いた患者さん(架空です)の質問、「私の腰まっすぐなりますか?」と言われた時には、「治るといいね。」と言うの。そうすると、患者さんの腰が少し伸びるのよね。