いきょくのまねーじゃーのブログ

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市立砺波総合病院の整形外科医です

「無理ですね」

 

 「私の腰まっすぐなりますか?」と言われた時、「無理ですね。」と言ったら、患者さんはどんな気分になるだろう。そんな自問自答をすることがある。書くまでもないが、若返らせることは無理である。間違ったことを伝えているわけではないのだが。

 

 話は変わる。3月23日から、電子カルテが新しいものに変わった。今時、電化製品は進化していて、新しいものは、使い勝手がよくなっているのが当然のように思ってしまう自分が間違っていたのかもしれない。新しい電子カルテは、一言で言うなら使い勝手が悪すぎるのである。使う側の私の劣化は棚においての話と言う面は否定しきれない。

 

 看護師さんに質問してみた。「どうですか、電子カルテの調子は?」というと表情が曇る。「元の方が良かったわ。疲れてしまって。」と言う。「じゃあ、言えばいいのに」と言うと、「そんなの言えない」とのこと。(これを「心理的安全性が低い」というのかも)リハビリスタッフにも聞いてみた。「入力しにくくて、見たいカルテが探しにくい」と悪評が聞こえてくるが、「言ってもどうにもならないから」と諦めの様子だった。

 

 「じゃあ、見方を変えよう。何かよくなったところを教えて」と質問してみた。「えーっと…」と言って答えが返ってこない。しばらくして、若いスタッフが、「フォントが好きですよ」と言ってくれた。フォントが若い人好みになっているのかもしれない。

 

 毎日、午前中の外来が終わるのが、今までより遅い。患者さんの数は、増えてはいない。となると待ち時間が伸びているはずである。「先生も大変ですね」と同情される始末である。大変なのは、患者さんであり、それを治療するのが仕事のはずなのに、こちらが心配されている。そして、外来が終わって医局に戻るとふらふらである。「電カルに体力奪われた」と呟くことが続いている。

 

 電カルの使い勝手の悪さは、医療の安全性を低下させる。なぜなら、集中力は低下につながり、診断の見落としや処置のミスにつながらないとも言い切れないだろう。さらには、電子カルテに労力を奪われ、モチベーションの低下に繋がることも想像に容易い。いずれにしても電子カルテを使うことは、手段のはずなのに、足手まといになりつつある。

 

 不具合を申し出たところ、メーカーの係の人からアプローチがあった。不具合の状況を確認させて欲しいとのことだったので、具体的に電子カルテを動かしながら、不具合を説明した。詳細は書かないが、古い電子カルテでできていたことが、できないのである。

 

 「なんとか今までのように使えるようになりませんかね」と質問すると「無理ですね」との愛想のない返事だった。ユーザーの気分を想像してくれていたかは、確認の術がない。正直がっかりした。他人は変えられないが自分は変えられる、なんていう。なんとか変わりたいが。

 

 話を戻す。冒頭書いた患者さん(架空です)の質問、「私の腰まっすぐなりますか?」と言われた時には、「治るといいね。」と言うの。そうすると、患者さんの腰が少し伸びるのよね。

スポーツ推進審議会にて

 

 富山県庁の正面の駐車場に車を停めた。予定より少し早くついた。写真と撮ろうと、正面玄関にカメラをむける。「あっ、半旗だわ」とつぶやいていた。頭に浮かんだ言葉をすぐ口にしてしまう癖がある。3月11日朝のことである。

 

 3年前から、富山県知事から諮問を受ける富山県スポーツ推進審議会に参加させていただいている。一言でスポーツ推進といってもいろんな要素があり、研究者、地域のスポーツクラブの代表の方、県スポーツ協会の方、経営者まで立場がいろんな人が集まり、議論する。私に求められているものがまだ掴みきれずにいるが、日頃感じていることを発言させていただいた。内容は、議事録となって後日ホームページに公開される。

 

 今回の会議で、盛り上がったのが、部活動の地域移行の問題である。少子化、教員の働き方改革、地域性など様々な要素があり、一筋縄ではいかない問題である。どちらかというと私自身は、議論のかやの外にある感じは否めない。議論を聞いていて、親御さん、指導者の役割、信頼関係、責任問題(部活動は学校内であるためけがしても保障されることなど)、経済的問題というのがキーワードのように思う。その中でも、コストの問題は避けて通れない。今までは(今でも、かも)教員は無償で部活動の指導をされることが多いだろう。部活動に参加するための子供の送り迎えは親御さんがされている場面が多いだろう。いずれも大きな負担となるが、委託するにはコストがかかる。そのコストの負担は?…などなど、結論はでない。

 

 私の発言の順番が回ってきた。先日のミラノコルティナ五輪のアルペン競技におけるアメリカのリンゼイ・ボン選手の怪我をモチーフに個人的な意見を口にした。準備していたわけではなく、思いついたことをそのまま呟いた。(悪い癖だとは認識している)リンゼイ・ボン選手は、大会前に膝をけがしていた。医学的には、リスクが高い状態で出場を強行されたが、スタート13秒後に転倒して骨折を受傷した。チームドクターが緊急手術を行ったと報道されている。

 

 怪我をした選手を出場させるかどうか、医学的な意見を求められることがある。明らかに危険な場合(脳震盪後など)は、ドクターストップだが、多くの場合はそうではない。リスクはあるが出場できなくはない、という場面である。

 

 こういう時の私のスタンスは、決まっている。出場するかしないかは、リスクを説明した上で選手、チームが決めれば良い。私は、その場面にできれば立ち会いたい。そして問題が起きれば、医学的に対応させていただく。だから、私の出番はない方がいいです、と発言した。(少しだけ笑いあって、うれしかった)

 

 そして冒頭書いたことを口にしていた。「今日は3.11ですね。半旗が掲げられているのに気づきました。今日はあの日とはちがい、雲ひとつない青空ですね。スポーツができる、スポーツに携われることに感謝しています。」と最後に呟いていた。「議事録に書かないで」とお願いした。だから、ここに書いておくわ。

 

たのしみは…

 

 「こんなの書いてきた。」Tさんの「独楽吟」。「先生は福井出身だから…」と言われた。私の実家から車で5分ほどのところに橘曙覧記念文学館がある。今までに5回以上行ったことがある。「たのしみは 朝起きいでて 昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき」が、文学館の一番目立つところに書かれていたように思う。日頃の小さな「たのしみ」を歌にしたもので「〜とき」で終わるのがお約束である。

 

 

 今回、Tさんが書いてきてくれたのは、私の様子を歌にしてくれたものである。ちょっとお上手に表現されすぎていて、申し訳なく思う。最初の歌の「めおと」は私と妻のことだと理解する。「素敵な」かどうかのあやうさを感じる。相変わらず、家庭内別居、院内同居を続けているから。(わかる人だけでよい)

 

 最近、凍結した路面での骨折患者さんが続出して、ちょっと疲れている。元気がみなぎってはいないように思う。しかし、私が元気でなければ患者さんを元気にすることは難しいことを教えられる。

 

 縁があって今日も仕事をして、生きている。その当たり前のことが「たのしみ」である。疲れてくると小さな「たのしみ」に気づかずに過ごしているように思う。「たのしみ」に目を向けることの大切さを改めて教えられた。

 

 「たのしみは 素敵な患者さんとのご縁に 感謝の気持ちを忘れないとき」

これを返歌とさせていただくことにする。