歴史管理局

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西園寺さいこは生まれてこのかた、スーツは二着しか買ったことがない。夏物と合い着ーー合い着という時、さいこはいつも淫らなことを考えてしまう、愛技、ああしてこうしてとつい想像してしまうのだ。彼の少ない経験とたくさんの雑誌からの印象でーーそれはどうでもいいことで、とにかく彼は二着しかスーツはもっていない。
そもそも着ける機会がないのだ。彼はサラリーマンとしてネクタイをして仕事場へ行ったことがない。彼は自由業なのだ。
と言っても、フリーターでも、アルバイトをしているわけではない。
自由でいること、それが彼の仕事なのだ。しかもある自由業会社と専属契約を結んでいる。月XX万の固定給プラス○○万の成功報酬だ。しかも、全く時間は拘束されない、時々痛いことはあるけれど。
仕事の内容は次のようなものだ。紋付袴で東京駅から駒込まで歩いてください、ただし誰とも話さず、何も食べず飲まずに。コーラを飲むとか、31アイスクリームを食べるかご法度です、というようなものだ。
時にとんでもない指示がくる。裸の上に藁の腰巻きを巻いて新宿御苑で踊ってください。ペニス、ああ、出ても構いません、ただし警察に捕まらないように注意してください。こんなものだ、とても楽である。一度痛かったのは、着物を着けて、お腹を出して、カミソリで血が滲む程度にお腹を切ってください、切りすぎないように注意して。あの時は痛かった。
仕事の指示は電話でくる。報酬は銀行振り込みだ。
さいこのスーツを使ったことがある。指示は、ひとつは、国会議事堂を観に行き、そこで「バカヤロー」と叫ぶことだった。もう一度は銀座の古いバーで椅子に右足を乗せ、酒を飲むことだった。まだスーツを使うかもしれないので、大切にしてとっておくようにという指示だった。
これでXX万いただけるのだからありがたいことだ。

ある朝さいこが目をさますと、布団の回りに二十人ほどの厳めしい男たちが立っていた。
「きみたちはなんだ!」
「まあ、お静かに。私たちはあなたに罪があるとは思っていません。ただ利用されているだけでしょうから」
利用?なんのことだろう?先日、大人のお遊びの店の研究生のテスト台になったことか?マクドナルドの店で大声で「まずいなー」と言って回ったバイトのことかな?
「そういうことではありません。もっと重要なことです。あなたは先日、太宰治の振りをして、銀座のルパンでお酒を飲みましたね」あー、あれは太宰治の真似だったのか。
「また先日、眼鏡をかけて国会議事堂で吉田茂の真似をして、『バカヤロー』と叫びましたね」
あっ、そうか、あれは吉田茂の真似だったのか。何か見たことがあると思った。
こちらの心を読む彼らのリーダーらしき人物が、「そうです。思い出しましたか」と言った。その間、他の男たちはロシア語とインドネシア語と混ぜてミキサーに入れ、タバスコとワサビとレモンをミックスしたような言葉でぺちゃくちゃおしゃべりしていた。
「実は、さいこさん、重要なお話です。あなたに仕事を頼んでいたのは、歴史管理の仕事をしていた宇宙行政局の人間たちなのです。彼らは世界の過去の歴史を管理しているのですが、間違えて何ヶ所か消去してしまったのです。それを隠すために過去の歴史を作り出しているのです。今度、連絡がありましたら、ここに電話ください」
渡された名刺はピンクでスナックのママからの名刺のように艶めかしい感じがした。
翌日、書店で日本の歴史の本を開いた。さいこが驚いたのは、吉田茂と書かれている写真はさいこであり、銀座ルパンで丸い椅子に足を上げているのもさいこである。それだけではない、太宰治の心中のニュースの写真もさいこだし、切腹する赤穂浪士の写真まで載っていてそれもさいこなのだ。
顔を隠しながら店を出た。
アパートに戻ると、テーブルにメモがあった。ーー歴史管理局の逃亡者たちは逮捕しました。しかし、これからはわたしたちの仕事を受けていただけますでしょうか。最初の依頼は電話でご連絡いたします。報酬はこれまで通りでお願いします。なお、読み終わると、このメモは焼けてしまいますーーメモはメラメラと燃えた。さいこは思わずもののけ姫の歌をハミングした。
翌日最初の依頼電話がきた。内容は、ETの人形を抱いて物干し台で泣いてほしいというものだった。その後、ひとりで泣きながらカップヌードルを食べるようにという指示だった。
明くる日また電話がきた。
「次の仕事です」
「ありがとうございます。ところで、ひとつお尋ねしたいのですが、昨日のシーンはなんのためですか?」
「本来ならお答えしないのですが、さいこさんですから、お答えしましょう。あれは100年後に歴史になるシーンです。わたしたちは未来創造部門ですので」
100年後もカップヌードルがあるんだ、良かった。しかし、生きているのかな、さいこは次の仕事内容を聞いた。東京湾で煤だらけになって壊れた車から出てこいとのこと、多分タイムマシンが壊れて墜落したのだろう。さいこは、明日の競馬のシーンを撮ってほしいなと考えていた。




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犀のサイコロー(後編)

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さいかがいなくなって(多分、旭川にいると思われるが)、驚くニュースが流れた。全国の動物園の犀が、一晩でいなくなったのだ。5月10日の朝に気づいたというのだから、5月9日の夕食を食べ、シャワーを浴びて、テレビを観て(犀は観ていないが、動物園の飼育員たちは観ていたと思う)翌朝までの間に、日本からすべての犀がいなくなったのだ。
犀は重さが2トンから3.5トン、簡単に背負って運べるものじゃない。
10日のニュースは「消えた犀」でもちきりだった。「みなさん、あの大きい犀がすべて一晩でいなくなったのです。あの大きい犀がですよ。全国の動物園から綺麗に消えてしまったのです」
さいこは、ふーんという冷静さでニュースを観ていた。ドアをノックして帝国ホテルのドアマンのように話す犀を見てから、犀には何でも起こりうると思っている。
するとテレビニュースのアナウンサーの後ろの犀の檻を棒タワシで掃除している女性がいる。あれはさいかに違いない。一瞬後ろ姿が見えただけだったが、あの身体つきはさいかだ、さいこは確信した。
ニュースが変わって、国際ニュースになった。
「こちらはケニヤ、ナイロビのニュースセンターです。間も無く犀の国の外務大臣からの発表があります」
テーブルの真ん中のマイクの向こうにサイコローがいた。犀はみんな似ているが少しずつ違う。あの鼻の曲がり具合と眼の垂れ方はサイコローだ。
「えー、今日はお忙しいなかお集まりいただきありがとうございます。私は、犀の国の外務大臣を務めていますサイコローと申します」やはり!
「本日発表させていただくのは、犀の国の独立です。しかし、人類の国境に変化はありません。わが国民は2キロから100キロを家庭の庭にしています。国民全体ではアフリカ東南部をすべて庭にしています。その権利を護っていただくためにご協力をお願いしたく、鰐族、象族、人類の皆様の協力をお願いしたいと思い、本日の発表を行うことにしました。私たちは、英語、フランス語、中国語、スワヒリ語、ロシア語、日本語を話しますので、コミュニケーションには問題ないと思います。共存していくために友愛の心をもって互いを尊重していくことを望みます」
人類の政治家より誠実さが伝わる演説だった。
サイコローがアフリカに戻ってしまったら、さいかはどうするのだろう?全世界の動物園の犀の檻は閉鎖するしかないだろう。それとも、蛇とか鰐とかを飼育するかもしれない。
旭川に行くと、その時旭川動物園にはさいかの痕跡はあってもさいかはいないだろう。これまでも待ち合わせ場所には、足跡と大好きなキューイジュースのペットボトルとアーモンドチョコレートの箱が残っているだけだった。
いづれにしろサイコローは新しい出発をした。さいかもまた新しい出発を計画しているだろう。
さいこは部屋の掃除を始めた。痕跡を残さないように。最後にキッチンのテーブルにキューイジュースとアーモンドチョコレートを並べた。さいかが来た時のためだ。
夜になると、そのふたつは歴史的遺跡のように見えた。




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犀のサイコロー

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西園寺さいこは土曜の午前中は寝て過ごした。夢は三つの物語を見た。覚えているのは、歪な野球場で試合をしてライト線にヒットをはなったが、ファールという、審判に抗議に行くと、「よく見なさいよ、ライトのラインは間違えて外側に引いたんだ、だから今のはファール」それなら、どれを信じて打てばいいんだと思ったが、退場になってはいけないので黙った。3-1で負けた。
そこで、扉を砲丸投げの砲丸で叩くようなノックがあった。重い身体を立たせて扉まで行くとそこには、灰色の巨大な犀がいた。
「何のようですか?」
「まことに申し訳ございませんが、さいかさんはいらっ、いらっしゃいますでしょうか?」犀の舌は長すぎるのか短いのかわからないが、話し辛そうだった。
「さいか、妻は出かけていますが」
「どちらへお出かけかわかりませんでしょうか?」犀の言葉は帝国ホテルのドアマンレベルの丁寧さである。
「今日は銀座の新しいショッピングモールへウィンドウショッピングだと思いますが」
「わかりました。どうもありがとうございます」犀はお辞儀をした。
「すいません。どちらのーーーー犀さんで?」
「サイコローといいます。もしさいかさんが帰られたら、よろしくお伝えください」
サイコローは右足でドアを閉めようとして、止めて、「さいかさんは携帯をお持ちですか?」
「持ってはいますが、初めてのあなたにお教えするのもーーーー」
「初めてではありませんーーしかし、わたしの右手、右足ですが、携帯のキーを押せないですね。携帯を潰してしまうでしょうね。いや、昔は角を柔らかいハンカチで拭いてもらったものです。失礼します」
サイコローーーーー彼はそう言ったーーーーは最初から最後まで丁寧だった。
角をハンカチで拭くーーわたしのペニスを拭いたことがあったかな⁈さいこはどうしても思い出せなかった。
夜、さいかが帰ってきた。サイコローの話しをすると頰を赧らめ、「サイコローさんがきたの?」と言う。サイコローさん?犀だよ。
その夜、わたしは犀に踏み潰される夢を見た。
翌朝私が起きた時、さいかはすでにでかけていた。私は嫌な予感がしたが、なーに相手は犀だと自分をなだめた。
翌日も、その翌日も、一週間後もさいかは帰ってこなかった。

しばらくしてテレビのニュースに私は驚いた。
ーー旭川動物園で、犀が女性の飼育員にとても従順で、観客の話題になっているーーというニュースだった。そこには、犀、いやサイコローの上に傘をさすさいかとサイコローが映っていた。サイコローはあたかもさいかに話しかけるように首を上へ向けていた。
そこで私は思い出した。さいかが、「あなたより以前に好きになった人がいる、その人はあなたより強くて、あなたより優しくて、でも結ばれるわけにはいかなかったの」
あれがサイコローか。
テレビの画面を観ていて、これはもう戻せないとさいこは覚悟した。何しろ私は角を拭いてもらったことなんかないんだから。さいこはようやく事態をのみこめた。犀にさいかを奪われたんだ。
相手が人間なら、私が交渉に行ってもまわりも正常なことだと受けとめるだろう。しかし犀では、誰も正気だと思わないだろう。
テレビで、サイコローがブルブルーブーとないた。続けて、アナウンサーが「これは犀が愛情を表現する言葉です」と説明する。それにさいかが同じようにブルブルーブーブーと答えた。
布団のなかでさいこはブルブルーブーとないた。どこからも返事はなかった。
さいこは真っ白いサイコロが2個転がり、何にも幾らもかけていない自分に気づいた。




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うさぎのラビット

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今日、スターバックスでカフェオーレのショートを頼んで待っていた。どうしてショートなんだ?俺の何を知っていて、あの女性は「ショートですか?」と言ったんだ?つい、「はい、ショートです」と答えてしまった。ボクサーパンツの上にスーツズボンを着けているわたしのショートさがわかったんだろう。ついズボンのジッパーを点検した。
隣のレジで真っ白い大きなうさぎが、「カフェ、オレーオーレオーーーレ」と騒いでいる。「承知しました。ショート、ーー」「ノンのん、ノーショート、わたしはロングロング」と言っている。ちらっとわたしを見た気がした。
支払う時、うさぎは「ラビットペイ」と言った。お店のひとは「デビッドですね」と言うが、うさぎは譲らない。「いいえ、ラビットです。ラビット、ラビット、ラビットです」
うさぎが取り出したのは、うさぎのぬいぐるみだった。お店のひとは、ぬいぐるみを無理にスキャンさせた。「ありがとうございますございます」デビッド端末にはうさぎの毛が野球ボールほど丸くなっていた。
うさぎはニコニコしながら、あたかも待ち合わせしていたような笑顔でわたしのテーブルへ来て、椅子を白い右足で動かして座った。
椅子に座るとうさぎの腿は椅子から溢れて、まんまるの白いボールになっていた。
「ねぇー、トモさん、ひとつ取引しませんか。わたしはあなたにいくらでも使えるラビットペイに使えるみみをあげます。あなたはわたしに、右耳をください」
「わたしの右耳が役にたちますか?」
「そうですねー、役にたつかどうかはあなたからはわかりません。でも役に立つのです。日頃は絶対に明かさないことですが、あなたはわたしの好みの右耳をもっていますので、お話ししましょう。わたしたちの国、ラビットランドでは右耳が大切なんです。ヘッドフォーンも右側しかありません。車のウインカーも右側しかありません。ハンドルも右側しかありません。ギターも左手なして弾けるようになっています。頭が思ったところをギターは自動的に押さえてくれます。レストランでもナイフで切ろうとすると、肉は黙って切られるのです。インベーダーゲームも右手だけで行います。トマトを切るのも右手だけで行います。トマトが黙って切られるんですね。アァー、話しすぎました。つまり、右耳右手は大切なんです。しかし、いつも右耳を使っていると、すり減ってしまうんです。レコード盤のように。タイヤのように」
うさぎは話しをぴょんぴょんと続けた。
「すると右耳がレコード盤のようにすり減ってくるんです。時々、ターンテーブルの針を換えないといかないように」
俺はだいたい理解した。
「つまりわたしの右耳が必要ということですか」
「お願いします。われわれラビット族の将来のために。ラビットペイの口座にはうさぎの国が現金を振り込みますので」
後ろから、お店の人が「これ、もうよろしいでしょうか?」とシナモンシュガーをもった。「いいですよ」
その瞬間、うさぎは「ありがとうございます」と言った。
窓を見ると、わたしの右耳はうさぎの耳になっていた。首を回すと、うさぎはいなかった。
それ以来、わたしは右のうさぎの耳を時々、撫ぜながら、デビッドカードの契約を考える。ひとびとも慣れたようだ。俺も慣れてしまった。
問題は、スターバックスで支払いをする時、右耳をPOSにもっていかなくてはいけないこと。銀行でお金をおろすとき、耳をATMのカード入れに入れないといけないこと。
さてこれからコーヒーを飲みに行くが、面倒といえば面倒だが、わたしは首を傾け耳をスキャンしてもらってもらう。しかしわたしはこのことにはあんまり気にならない。腹筋が鍛えられたと思えば、良かつたのかもと思う。
あとひとつ悩みは、このままうさぎの耳をもって生きていくとき、耳を低い天井にひっかけないように注意しなければならないこと、なにしろうさぎの耳には慣れていない、それとうさぎの耳がいろいろな獣の足音を聞き分けるので、あまりおびえないことである。東京の駅で、オオカミや狐、熊や栗鼠の足音も聞こえるのである。その時、俺は立ち上がって音を聞き分ける。だが時々、駅やレストランでつま先立ちしてしまう。
それだけでなく、その時わたしは真っ白なうさぎになっている。オレンジのTシャツを着けて。
いつからか俺はぴょんぴょんと通勤して、ぴょんぴょんとスーパーへ向かっている。さて、ぴょんぴょんぴょんーー。
それから、うさぎでもジャイアンツファンではなく、タイガースファンですので、間違えないでくださいね。後楽園を歩く時はいろいろなプレゼントをいただけるのは嬉しいが。

以前にアップしたストーリーです。昔読んだ方はどこが変わったか、思い出してください。無駄だと思ったらやめてください。




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宇宙時計

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我が家のリビングにある時計は宇宙時計と呼ばれる。近くのスーパーの大売出しの時、籤で当たったものだ。その時、確かに火星から来ましたと言っても信用されるだろうと思われる真っ赤な大きい眼鏡をかけ、赤いジャケットの男がこう言った。
「これは単純な時計ではありません。衛生から正確な時間を一日一度受信するだけではありません。なにしろ宇宙時計ですから」
銀色の安っぼい丸い金属の時計、裏には単三乾電池二個入れるだけである。リセットボタンを押すと、焼き鳥を焼く時にぱたぱた扇ぐ団扇のように分針がぐるぐる回って
、多分衛星からの電波を受けとっている。受け取り終わると12月の真下にある小さなランプが赤く点滅する。正しく受信したと判断したらーーーー誰が判断するのかはわからない。時計が自分でできるのだろうーーーー緑にかわるというものだ。
私の読書用のソファの背後の壁の高いところにかけてある。
そもそも、ネジ巻き時計の頃を過ぎてから、私たちは時計とは止まらない、狂わないとどこかで信じてきた。ちらっと見るけれど、正しいだろうかとか疑問を持つことはない。それが幸せな時計との関係だ。毎日、大丈夫だろうか、正しいだろうかと疑問に思っていたら朝食も落ち着いて食べれない。もちろんテレビを見れば問題ないといえばないんだが。しかし、例えば、家を出る時、奥さんは突然いなくなるのではないかと不安を持っていたら、昼食のサブウェイのサンドイッチも喉につかえてしまうだろうし、お客さんと打ち合わせしていても、電話して確かめようかなとか考えて仕事もまともにできない、それと同じくらい、時計が正しいだろうかと疑問を持つと悩みは大きい。だから、私たちは時計を通常信頼している。私もそうだ。
しかし、ある日その大きい悩みがやってきた。衛星からの電波を受信しても、ぴったり3時間30分ずれてしまうのだ。3時間30分遅れてしまう。機械が嫌いな妻は、ガラスを割って針を手で動かして合わせたら⁈と言う。
いろいろやっても合わないので、駅の向こうの時計屋へ持っていくことにした。駅手前のスーパーーーーーそう、この時計をもらったところだーーーーまで来ると、真っ赤なサングラス、赤いジャケットの男が腰を曲げて近づいてきた。
「お客さん、どうしました?」
「時計が合わなくなったんですよ。時計屋まで・・・・」
「いえいえ、時計は狂っていません。見方の問題ですよ」私をさえぎって彼は説明を始めた。「これは通常の時計ではございません。宇宙時計です。お客さん、宇宙は膨張しているのをご存知ですよね。そこでは星が光と同じ速度で移動しているところが、荒川と多摩川のようにわたしたちを囲んでいるのです。そこに近づくと徐々に時間は遅くなり、最後は停止します。
相対性理論では、そこでは人間は歳をとらないことになります。どれどれ、3時間30分遅れていますね。この3時間30分は、あなたが通常より余分に持つ人生で、この時間分あなたは他の人よりいろいろ余分なことをしても大丈夫ということです。しかも、その時間にあなたが行なったことは、光よりも速く地球から遠ざかるので、誰も気づかないということです」
「わたしが地球にいても?」
「地球にいるあなたは3時間30分前の幻のあなたで、実際のあなたは3時間30分先にいます」
良く考えてみるためにスーパーでビールを買って帰った。赤い服の男が言ったことを実験することにした。
もし彼が言ったことが正しいなら、今私が飲んでいるビールは、妻から見るとすでに空っぽのはずだ。1ダース飲んだとしたら、私が飲んでいるのは妻は気づかず、妻は空っぽの缶がひとりでに台所の流しに並ぶのを見て驚くことになる。
3缶目のプリングを引っ張った時、シャワー室から出てきた妻が、私の頭を叩いた。
「えっ!見えるのか?」
「なにバカ言ってんの?それが最後だよ」
私は時計を見た。
なんとわたしの3時間30分がなくなり、正しい時間になっているではないか。
急いでスーパーに行ったが、赤いジャケットの男はいなかった。
今度、10時間遅くなったら、是非タヒチ行きの飛行機に乗ると私は決めた。誰にも見えずにタヒチの海岸を散歩するんだ。ゴーギャンの時間に追いついたら、もしかすると彼の上着のはしっこを捕まえれるかもしれない。本人は時間の先に消えていても。でも、その時私が見る夕陽は、彼が何年か先で同時に見ているかもしれない。
「もう夕方よ、晩御飯どうするの?」
「日立の電気釜のご飯とひじき、違った、タヒチの夕陽」
「何、それ?」
「いや、どちらでもいいよ」
その時から、読書をしていても宇宙時計を何度も見上げるようになった。まあ、それで規則正しく食事をとる習慣はできたけれど。






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