雇用機会均等法施行の2年前に女性記者の二期生として入局、名古屋報道部に赴任した。雇均法が始まると、地元警察署の婦人警官を取材してリポートを出した。女性も「泊まり勤務」、つまり男性と同じ夜間の当直勤務が出来るようになった。が、採用時から賃金も男性と同じだったため、法律がやっと現実に追いついた感じがした。

あれから40年、私は定年をとっくに越えた。今や雇均法の存在なんて意識した事すらない後輩の方が多いはず。それでも「女性だったから苦労した…」的な感想を聞く事が多い。声高には言わないけど、活躍出来る環境を守るために結婚や出産を泣く泣く避けた後輩たちもいたはずだ。

私も色々後回しにし続け、既に管理職だった41歳11ヶ月で娘を産んで、舅姑と同居、母にも子育てを随分手伝ってもらった。ほぼ丸投げで育った娘はこの春、院生になる。

負け惜しみかもしれないけど、男性だったら、否、独身だったらもうちょっと出世できたのかしらね?資産がある人と結婚するべきだったなぁ〜と思うことは多々あるけれど、娘を産んだことに不思議と後悔はない(笑)。

雇均法でも変えられなかったのは何か。そろそろ引退。潮時かなとしみじみ思う。

娘が卒業の記念品の一つとして、OBOGたちから
名刺入れをいただいた。
入学時には六法をくれた人達が、
またお祝いをくれた。
そのお気持ちが、
親としてはとても嬉しい。
涙が出る。

翻って私は、昔は
JAL(上智、青学、立教) などと
もてはやされた
言わゆるおしゃれな難関大学の
卒業生ではある。が、正直、
就職に関して、
同層の先輩に助けて
いただいた記憶は皆無だ。

マスコミには弱いうちの大学、
相談できたのは当時TBSにいらした
人気アナの三雲さんだけだった。
三雲さんは1人業界に
挑んだだけあって、
どうしたらマスコミに
うかりますかあ?などと
ゴチャゴチャ言う私に呆れて、
「受かる人は、受かるのよっ!」と
電話の向こうでおっしゃった。
いまは、その意味がよくわかる。
でも当時の私にはキツイ一言だった。

ダメ後輩に優しかったのは、
フジの田丸美寿々さんだった。
当時は女性は正規雇用が
極めて少なく、
何が女性の実力なのかすら、
よくわからない時代だった。

否、いまもそれは、同じかな(笑)。

講演会の後、
廊下で田丸さんを
無理やり捕まえた私に,
田丸さんはおっしゃった。
「あなたなら、
受かるかもしれないわ」。

何しろ、雇用機会均等法前の話だ。
女性の社会的評価は
極めて低かった時代だ。

単細胞の私は
田丸さんの励ましを胸に、 
就職活動に挑んだ。
私なら受かるかも⁈。

おバカな私を良く知る人ほど
信じないからあえて言わせてもらうが、私はNHKの前に
民放二社から
内定をいただいている。
コネ皆無で。

田丸さん,お元気なのかしら?
いつかお礼をいいたいけど、
もう40年もたっている。
どなたか田丸さんご存知なら
よろしくお伝えください。

そりゃあ昭和の時代とは
違うとは思うけれど、
先輩って、やはりかけがえのない
人達なのだと思う。
娘はいつか、先輩の偉大さに感謝し、後輩たちのなんらかの
道標になってくれるのかなあ。
卒業したのは娘だけど,
私も一皮剥けたような気も……。笑

娘が卒業の記念品の一つとして
OBOGたちから名刺入れをいただいた。
入学時には六法をくれた人達が、
またお祝いをくれた。
そのお気持ちが、
親としてはとても嬉しい。涙が出る。

翻って私は、昔はJAL(上智、青学、立教) 
などともてはやされた
言わゆるおしゃれな難関大学の卒業生ではある。が、正直、就職に関して、
同窓の先輩に助けていただいた記憶は皆無だ。

マスコミには弱いうちの大学、
相談できたのは当時TBSにいらした
人気アナの三雲さんだけだった。
三雲さんは1人業界に挑んだだけあって、
どうしたらマスコミにうかりますかあ?などと
ゴチャゴチャ言う私に呆れて、
「受かる人は、受かるのよっ!」と
電話の向こうでおっしゃった。
いまは、その意味がよくわかる。
でも当時の私にはキツイ一言だった。

ダメ後輩に優しかったのは、
フジの田丸美寿々さんだった。
当時は女性は正規雇用が極めて少なく、
何が女性の実力なのかすら、
よくわからない時代だった。

否、いまもそれは、同じかな(笑)。

講演会の後、廊下で田丸さんを
無理やり捕まえた私に,
田丸さんはおっしゃった。 
「あなたなら、受かるかもしれないわ」。

何しろ、雇用機会均等法前の話だ。
女性の社会的評価は極めて低かった時代だ。

単細胞の私は田丸さんの励ましを胸に、
就職活動に挑んだ。私なら受かるかも⁈。

おバカな私を良く知る人ほど信じないから
あえて言わせてもらうが、
私はNHKの前に民放二社から
内定をいただいている。コネ皆無で。

田丸さん,お元気なのかしら?
いつかお礼をいいたいけど、
もう40年もたっている。
どなたか田丸さんご存知なら
よろしくお伝えください。

そりゃあ昭和の時代とは違うとは思うけれど、
先輩って、やはり
かけがえのない人達なのだと思う。
娘はいつか、先輩の偉大さに感謝し、
後輩たちのなんらかの
道標になってくれるのかなあ。
卒業したのは娘だけど,
私も一皮剥けたような気も……。笑


実家が半世紀もお世話になった日本板硝子が大変なことになっている。会社大好きで社歌が十八番だった父は1970年頃から当時はまだ珍しかった海外駐在員としてマレーシア、イラン、ハワイで勤務。私は10代のほとんどを父にくっついて転校した帰国子女だ。板硝子のお陰で育ったと言っても過言ではない。父は建物や車に使われる強化硝子とお酒などを呑むクリスタルガラスのクオリティには厳しく、子供の私を捕まえて鉛の量など作り方を熱く説明していた。昭和の典型的な猛烈社員だった。父が亡くなって20年。下がり続けた株も売らずに私としては応援して来たんだけれど。草葉の陰で父はさぞ嘆いているだろう。私の中の昭和が終わった。

1979年のイスラム革命で追い出されるまでの3年半、

イランに住んでいた。

そう、今まさにアメリカと戦争になっている中東の国だ。

もう47年も前、私が高校生の頃の話だ。

 

そのイランの首都テヘランで

唯一のアメリカ系インターナショナルスクールに通っていた。

校長や先生たちはほとんどがアメリカ人。

授業で「アメリカ史」も履修して、

ジョージ・ワシントンからの歴代の大統領の名前も暗記した。

私がイランにいた頃は

38代のジェラルド・フォード大統領だった。

 

イランに住んではいたけれど、

私は英語による教育を受けていたわけだ。

家にはイラン人のメイドさんがいて、

ペルシャ料理をよく作ってくれたし、

私も拙いペルシャ語で会話していた。

が、朝スクールバスに乗った瞬間、

英語一色の生活になるという毎日だった。

 

イランは他のイスラム諸国とごっちゃにされがちだが、

イラクやサウジアラビアの「アラブ」と違って「ペルシャ」である。

人々の言語はペルシャ語、ファルシーだ。

「アラブ人」ではなく「ペルシャ人」なのだ。

細かく言えばキリがないが、

私の記憶の中のイランは四季のあるとても美しい国だ。

ペルシャ料理は羊がメインで、

臭いという邦人も多かったが、私は大好きだった。

2〜3年おきに転勤していた父にくっついて

転校ばかりしていた10代の私にとっては

3年半住んだイランが一番長い。

 

そして今、ほんのちょっと前から

アメリカという私にとっては第二の母国が

もう一つの第二の母国のイランを攻撃。

まるで47年前に離婚した両親が

お互いを罵り合う戦争を始めた感じ。

 

私もイスラム革命で、

高校3年生、18歳でイランを追われた身だから

イランとアメリカの長年の敵対関係は理解している。

でもアメリカだけの肩は持てない。

自分の存在はイランとアメリカを抜きにしては

成り立たないと思っているからだ。

 

本当に、戦いはやめて欲しい。

ただただ、やめて欲しい。

 

ここまで来てしまうと、アメリカを止めることも

イランを止めることも日本にはできないだろう。

でもせめてアメリカを手伝うことだけは

やめて欲しいけど。

 

沖縄普天間など、日本の米軍基地から

イランに向かっているとも報じられている。

日本が戦いの足場や補給地になるのは

同盟国であり、敗戦国である日本にとっては

政治的に避けられない事情があるのも頭ではわかる。

日本は立場上、アメリカ側につかなければならない。

 

が、感情的なおばさんの戯言と

言われるかもしれないけれど、

日本には今こそ「中立」でいてほしいと願う。

どっちが私のお父さんで

どっちが私のお母さんかわからないけれど

日本にはどちらにも加担して欲しくない。

 

周りの日本人と話していると、

イランと隣国のイラクの違いすら

よくわかっていない人がほとんどで.......

イランは悪い国だ!みたいな。

 

もちろん、誇り高いペルシャ民族の国が

核兵器で武装しようとしていたのだから

この際、アメリカがイランの息の根をとめるのを

世界中が見守るのだろうか?

 

日本はこの戦争を「傍観」してほしい、

なんていうと、

専門家たちから叱られるかもしれないけれど。

戦争だけはやめて欲しい。###

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被災地の人間でない私は

あの震災の事を語る資格はないとは思う。

が、15年がたち、

改めて記録のつもりで、書いている。


あの日私は渋谷のNHK放送センター近くの

関連会社のビル4階にいた。

とにかく揺れた。

足元から揺れて、どこにも 

掴まるところがないような、

まさに天変地異とは

あんな揺れを言うのだろうと思った。

揺れた瞬間は棚のCDや、DVDが激しく揺れて

ガチャガチャと言う、

無機質な音があちこちから聞こえた。

NHKの広報誌ステラの編集長だった私は

東京についに大地震が来たのだと思った、が、

巨大な揺れに見舞われたのは東北だとわかって、

本当に、ほんとうに、びっくりした。

東京であれだけ揺れた。

東北はどうなっているのか?


渋谷でも揺れに驚いて

泣き出したりした若い女性もいたようだが、

東京の人間は、東京が震源地ではなく、

もっと大変な人達がいるとわかったためか、

パニックにはならなかったと思う。

渋谷駅は大混乱だったが、皆、一晩たえた。


私も携帯が不通ななか、

緊急時対応で無料開放になった

緑の公衆電話で娘の無事を確認した。

今更だが、NTTの配慮に感謝。

娘さえ無事なら良し!って事で、

私は職場に泊まり込む事にした。


東京はとりあえず大丈夫だった。

が、東北からはどんどん津波の映像が

入ってくるではないか。


リアルタイムで、人が巨大な津波によって

危険に晒される映像が次々に放送された。

私はただ、呆然とテレビ画面をみていた。


間も無く、福島第一原子力発電所が

爆発したことも分かり,

このまま日本に住めるのか?疑ってしまった。


ほぼ無傷の私にとっても、

大変な経験だった。

ましてや被災地にいた方はどうだったのか?


15年経っても、遺骨さえ見つからない人も

多数いるそうだ。

皆様、大変な15年だったでしょう。

改めて、家族全員、無事でいられた事に

感謝しています。

そして、亡くなられた皆様のご冥福を

お祈りします。






カルチャーセンターで担当している

英語講座の教材として、

馴染みのある作家や作品が良いかなと考え,

アガサ・クリスティAgatha Christieの

「And then there were none

そして誰もいなくなった」を選んだ。

ある小さな島に呼び寄せられた10人が

何者かに殺されていくミステリーだ。


まずは英語学習者のための短縮版を購入した。

14500語とある。

読むと流石に見慣れた単語ばかりで

若干物足りない…そこでオリジナルの

バージョンを改めて購入した。


短縮版(左)は新品で950円。

オリジナル(右)は中古で1000円だ。

とどいてみると

オリジナルはなんとまっさらだった。

最初のページをめくった形跡もない。


誰かさんのツン読本なんだろうか?


私自身、本を買って並べるのが大好き。

この本も棚にツン読になるのか?

売る日も早いのか?


しばし想像する。

ツン読はやめるかなーw






張り切って職場に向かう途中、

地元駅の入り口付近で転倒した。


自分もびっくりの前のめりの転倒。

凄い音とともに

私は万歳をしたまま

アスファルトの路上に腹這いになった。

目の前にカバンとスマホが飛んでいた。


周りの人の視線を浴びていた。

自転車の小学生が、

振り返ったのがわかった。


おばさんが転んだんだもん。

そりゃ見るよね。


なるべくかっこよく立とう、

なんて見栄を張る自分。


立ってみる。とりあえず。


その途端、左腕に振動が…。

母親から電話?こんな時に?


と思ったら、Apple Watchに文字が出ている。


あなたはいま、転倒したようです。

Emergency call をしますか?

とある。


え〜!これってCMで見たヤツ⁈

倒れたら通報してくれるってヤツ⁉️


ひぇー時計に心配されちゃったー


振動はブルブルつづいている。

ん?これってどうやって止めるのさ?


慌ててあちこち押したらキャンセル出来た。

いくら何でも転んだだけのおばさんが

救急車呼んじゃいかん。


いや、そうそう!

救急車呼ばなくて平気。

立てるぞ、と気を取りなおす。

手と膝が痛いけど、骨は折れていない模様。


なんか、腕時計に励まされた?

嬉しいような。

思いっきり年齢を感じたような。

複雑。


体はなんとか大丈夫で良かったけど、

シニアを痛感。

心が折れた朝だった。

###



 

去年、ついにシニアになって以来、

自分の心身にいろんな変化が起きている。

今回は眼の話だ。

 

数年前から手元の文字が見えづらくなり、

流行りのメガネの量販店で

いわゆる「老眼鏡」を10本近く作ってきた。

ところが2〜3年すると、

手元が綺麗に見えるようになった代わりに

今度は遠くが見えなくなってきたのだ。

 

周りの先輩や友人に聞いたところ、

どうも「白内障」らしい。

年齢のせいで目のレンズの形が

膨らんだり歪んだり曇ったりして

見えづらくなるのだ。

失明することもある緑内障ほど深刻ではないものの、

白内障は老化が大きな原因で、

薬などが全くない。治らない。

 

手術を受けて爽快になった人も多いと聞き、

私も近くの大学病院に行ってみた。

その病院は6年前の今月、

義母が亡くなった直後に角膜を提供した

アイバンクが併設された病院だ。

そうだ、あの時のTドクターに

診察をお願いしようと思いついた。

 

義母の両目は東京と埼玉の

二人の女性に移植されたと聞いている。

私もいつか誰かのお役に立てるかしら?

 

ところが、いろんな検査のあと

T先生は言い放った。

「あなたの場合は角膜の細胞が

普通の人より極端に少ないんです。

白内障の手術をしても、

効果が出るかは微妙です」と。

 

その時は事の深刻さがよくわからず

「私も角膜移植のために提供しようと

思っていたのですが」と先生にいうと、

「う〜〜ん、あなたは無理ですね〜

むしろ角膜移植が必要になるかも」と

一瞬で、夢が飛んだ..... (;;)

 

「昔から脳細胞は少ないと思ってきましたが、

目の細胞まで少ないのですか」と

思わず、ボケてしまった。笑

 

私の白内障はなぜか左だけで、

右目はまだよく見えるため、

また数ヶ月後に診察しましょう、と言われ、

計3回、診察を受けた。

が、普段見えないわけではないため、

左目の手術に踏み切れない。

悶々と悩むばかり。

特に私は160キロ離れた伊豆の実家に

最低毎月一回は車で通っている。

運転の時だけは「視力」が必要なのだ。

 

大学病院はメガネやコンタクトの処方は

行っていないそうで、

T先生に紹介された

ソフトコンタクト専門の眼科に行ってみた。

 

また細胞数を調べてもらったら

正常な人の3分の1以下の

800ちょっとしかない・・・

ソフトコンタクトに頼る望みは

即、却下された。

コンタクトをしていると、

どうしても細胞が減ってしまうそうだ。

 

 

診察した眼科医は

「なんでこんなに細胞が減ったんだろう?

目を打ったりしました?」と驚いていた。

300くらいにまで減ると、

全く見えなくなるそうだ。

つまり私は死ぬまでこの800の細胞を

死守するしかないわけだ。

 

「僕は絶対に手術したくないなー。

手術しても効果が出ないタイプだー。」と笑った。

つまりコンタクトも手術もNG。

メガネで最大限、

なんとかしようと言うことになった。

検査をしてくれた技師も

「コンタクトは無理で、

手術もリスキーですから、

メガネで最大限になんとかしましょう」と

クールに言った。

 

メガネ屋さんはあの有名な

「めめ」が宣伝しているあそこでは

ダメなのだそうだ。

私の場合は乱視がひどく

右目と左目のずれ方もひどい。

レンズの凹凸が逆らしい。

なので、もっと高度なレンズを作れる

メガネ屋を紹介された。

 

これまではメガネ量販店で

一番高価なメガネを作ってはきたが、

それでもまぁ2万くらいで、

今回の新しいメガネは

なんと8万を超えた。

背に腹は変えられないとは

まさにこのことである。

 

目に優しい加工もつけてもらって

出来るまでに10日かかるそうだ。

楽しみ❤️

なんとか、目の違和感がなくなって

外に出るのが楽しみになるといいなぁ。

 

私の左目が悪くなった

原因はわからないけれど、

みなさん、スマホやゲームに集中して

目を酷使しないように

普段から気をつけてお過ごしください。

###

 

かつてテヘランに住んでいた。父は当時のパーレビ(Pahlavi )王の国営企業で技術援助をしていた。

四季があるテヘランは高地にあり、とても美しく住みやすかった……最初の3年間は。

私は市内南部のアメリカンスクールに通う18歳、高校3年生だった。1978年の夏頃から市内で暴動が始まり、ハロウィンのイベントが中止になってそのまま学校に通えなくなった。12月、父を残し、母と私はエア・フランスでパリに逃げた。事の重大さがわからず、私は3年半ぶりの一時帰国のつもりだったが、イスラム革命が起きたのはその2ヶ月後だ。以来、イランには帰れていない。

あれから延々と48年も宗教指導者によるイスラム政権が続いていたわけである。テレビで私と同い年のレザ皇太子を久々に見たが、父親のパーレビ王に気味が悪いほど生き写しだ。怨念を感じる。

イスラム革命で国を追われた皇太子は当時はティーンエイジャーだった。アメリカに亡命していた彼に政治の経験はないため、いまさらパーレビには戻れないし、戻る必然性はないだろうが、とにかく、とにかく、平穏に問題を解決してほしいと切に願っている。