【映画評】スパイダーマン: ノー・ウェイ・ホーム 不覚にも感動した マルチバース→そう来たか!
「エンドゲーム」以来、MCU作品からは離れていたのですが(エターナルズとか、ちらっと観たんだけど、ちょっとねえ…)、アマプラで無料だったので、時間が出来た時に観ました。
このところのMCUは、”マルチバース"がネタになっているようで(多元宇宙と言いますか、今自分がいる世界に似たような世界が無数に存在するという理屈)、これ観た直後に「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」も観たんですが、同じマルチバースネタでも料理の仕方が全く違っており、その料理の仕方は、監督や脚本など作り手にある程度ゆだねられているのか、と感じました。
で、「スパイダーマン: ノー・ウェイ・ホーム」でございます。ピーター・パーカー、MJ、ネッドの3人組は健在。これまでの2作は高校生ノリというか、映画自体がティーンエイジャー向けと言った感じで今一つ馴染めないものを感じていたのですが、今回はシリアス目の展開です。
自身がスパイダーマンであることが世間に知られてしまったことで、MJやネッドにも少なからぬ不利益を生じてしまったことを後悔し、ピーターはドクターストレンジに依頼、すべての人から、自分がスパイダーマンであるという記憶を魔術で消してもらおうとする。
しかし、魔法をかける最中にピーターがいらんちょっかいを出してしまったために、魔法が完結せず、マルチバースからスパイダーマン=ピーター・パーカーを知る多数のヴィランを呼び込むことになってしまう。
彼らを元の世界に戻せば、すべてのヴィランが死ぬ運命であることを知ったピーターは、仲間の力を借り、ヴィランたちをまっとうな人間に戻す方法を模索することになる…(「星雲仮面マシンマン」思い出した)。
マルチバースの別世界を、2002年から続くスパイダーマンの各作品、と捉えるアイデアが、まず秀逸。各作品のヴィラン、そしてスパイダーマンたちを集合させるというアイデアが楽しい!
しかも単なる顔見世興行で終わらせず、旧作のスパイダーマンたちが今のスパイダーマンと、スパイダーマンであることで経験するつらさや痛みを共有する、この流れが実に実に感動的。
2012年から2作作られた「アメイジング~」版のピーターパーカー役、アンドリュー・ガーフィールドは、映画の方が2作で終わって中途半端な印象があったんですが、出てきた時は頭モサモサのイケてないオジサン風に見えたのが、すごくいい芝居をしてて感動したんですが、芝居の方でトニー賞取ってるような方なのね。失礼…
トビー・マグワイアも、大人の立場からピーターを理解し力づけるような役どころで、すごくいい。 最後のバトル、多数のヴィランと3人のスパイダーマンが戦ってて、ごちゃごちゃしてて良く分からない。最後こんな感じで進んじゃうのか~…と、ガッカリしたところで、あの展開!いや、一本取られました。お見事! |
また個人的にはグリーン・ゴブリン役のウィレム・デフォーの出演がうれしい。この人って、なんとなく弱っちいというか、情けない芝居がすごく上手いんだ。情けないところが上手いから、後半で別の人格に変わる、その切り替わりがお見事。
でもこれって旧作知ってる人でないと楽しくないよね~(^^;)
エンドゲームの時にも思ったけど、あれは完璧にファン・ムービーで、それまでのMCU作品を見続けている人でないと楽しめない作りになってる。そんな風に観客を狭めてしまって大丈夫なんだろうか??といらん心配をしてしまいます(そんなエンドゲームが売れに売れ、一時は興行収入で歴代一位を獲得したってんだから、実に不思議)。今回のスパイダーマンも旧作からリアルタイムで観てる人なんて、もう50代だろ…MCUファンって、そんな年代なのか???
映画の最後、ピーターは重大な決断をする。その内容は映画で確認してほしいですが、これまで無かった過酷な運命が彼を襲います。これからどうなるんだろう?!目が離せない状況で映画は終わります。映画の最後には「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」の長めの予告も流れ…ポチ。
こうしてまたMCU沼にはまっていくのだ!!(笑)
【書評】というか… 『ソラリス』を読破したぁ!ってだけの話
「人生の宿題」というものがありまして… まあ極めて個人的なものでありますが。
ワタシも人生の折り返し地点をとっくに過ぎ、目も悪く体力気力も落ちてるなあ…と思う中、これまでに「いつかはやっておこう」と思ってきたこと、小さなことから大きなことまで様々ありますが、ぼちぼちやっておかないとヤバ目だなあ、と思っている次第。
そんな人生の宿題の一つが、この『ソラリス』を読む、ということでありました。
ポーランド出身の作家スタニスワフ・レムによる1950年代の作品で、SF小説の、いわゆる”名著”とされる作品です。
映画化も2回されてますが、有名なのはかのアンドレイ・タルコスフキーによる「惑星ソラリス」1972年の映画であります。
これがね…難関で…ワタシは10分で挫折しましたよ…
ロシアとか東欧の小説なのでエンタメ方面に振られてはいないことは予想出来、ましてやこの映画版のハードルの高さから、これまで読む機会を逸していましたが、なんと新訳が出てしまった!この機会を逃しては一生読むことはかなうまい…と、1100円をはたいて(最近の文庫本て高いのね…)いざ勝負。
…読みにくい。
ワンセンテンスが長くて、表現も回りくどい。気を抜くと無意識に字面だけを追っていて、「今何書いてあったっけ?」と戻ることが頻繁にあり、また寝落ちすること数度。進まない進まない。
それでも何とか本日、遂に読了を果たした次第でございます。
エベレストに登頂を果たした登山家が、山頂にたどり着いた瞬間に思うのは、登頂の喜びではなく、「あ~もうこれで登らなくていいんだ」という安堵だそうですな…
宇宙の彼方にある星「ソラリス」には地球人が宇宙ステーションを築き、長い間探索を続けていた。
陸地はわずかしか無く、大半が粘液のような海で占められたこの星で特異なのは、海自体が一つの生命体であること。
ソラリスに赴いた心理学者ケルビンが目にしたものは、変わり果てた研究者たちと、そこにいるはずの無い人の姿。そしてケルビンの目の前に現れたのは、数年前に亡くなったはずのかつての恋人ハリーだった…
海が一つの生命体、という設定は極めて斬新で、驚きをもって受け入れられたことは想像に難くなく、また本編のストーリーと同時進行で、「ソラリス学史」が詳細かつ延々と語られる構成は、当時まだ一般的ではなかったであろうSF小説ファンにはマニア心をくすぐる内容だったかもしれんです。またラブロマンス&悲劇の話にもなっていて、ケルビンとハリーの徐々に緊張感を増すやり取りにはひきつけられるものがあります。
しかしながら、ロシア文学の系譜をも汲むであろう文章の独特の長さと回りくどさは読み手を辟易とさせるもので…(訳者があとがきで、本編の一部を「相当読みづら」いと語るぐらい)、読み進める作業は苦行とも言えるもので…やっぱり古典てこんなもんかなあ…
多彩な要素を含むこの小説は様々な読み方が出来て、個人的には解説にもあった、ファーストコンタクトものとして、他の生命体が人類に似た姿をしていたり、人類と同じ思考回路を持っているといった思い込み、人類が無意識のうちに「人間に似たものが優れたもの」だとする勝手な解釈(本文にある人間形態主義)への皮肉であるという見方が面白かった。今風に言えばポリコレじゃん。
読み手が様々に解釈し、考察を深めていくことのできる懐の深さを持った作品の一つではあります。
まーでもシンプルに読むのが大変だったので、同じ時間で楽しい本読んだ方が良かったんではないかと、ちょっと考えてしまいました。