幻のお玉ヶ池を探す | tokyoarukiのブログ

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東京町歩きと読書の備忘録です。
東京の城東を中心に、歴史を学びながら歩いて・・・・・のはずが、香川県にお引越し。

突拍子もない海外ネタなど織り込みながら、高松を散策してまいります。

気まぐれかつ浅学ではありますが、
よろしくお付き合いください。

ばぁばブログはいまだに神田界隈で足踏みしています。

 

 

 

実は、どう捉えて良いものか、ずっと頭を抱えている案件?があり、神田を離れられません。

 

 

 

 

 

神田岩本町あたりには、江戸時代から「お玉ヶ池」という通称で呼ばれるエリアがありました。

 

 

 

この界隈で北辰一刀流の道場「玄武館」を開いていた千葉周作は、お玉ヶ池の先生と呼ばれていました。

 

 

 

▼界隈随一のタワーマンション敷地には、

玄武館と 隣接していた東條一堂の私塾・池堂 の両所を記念し「武尚文右」(ゆうぶんさぶ:文を右に武をひだりにす、即ち「文武両道」)の石碑が立てられています。

 

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また、江戸幕末の「種痘所」にも「お玉ヶ池」の名前が冠されました。

 

 

 

▼ビルの壁に「お玉ヶ池種痘所跡」の案内板が埋め込まれています。

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ここに安政5年(1858)、江戸の天然痘予防・治療研究の場所が開かれ、それが「西洋医学所」、「東京大学医学部」へと発展していったそうです。

 

 

そう言えば、立花登のドラマの中で、「種痘が始まったそうですね」という台詞が出てきました。ここは登の仕事場のご近所です。

 

 

 

 

 

 

 

お玉ヶ池について、「江戸名所図会」には次のように書かれています。

 

 

神田松枝町の人家の庭にお玉稲荷という小祠がある。里の言い伝えによるとお玉の霊を祀っている。傍に小さな井戸のような形が残る。その昔は、大きな池だったが、江戸の繁昌に従って小さくなった。

 

昔この地は奥州への通路で、桜の木が美しい桜ヶ池と呼ばれたそうだ。

桜の木の下で旅人に茶を勧める玉という娘がいた。

 

美しい玉はある時、人柄も外見も同じような男二人に求愛された。

思い悩んだ末に、玉は池に身を投げてしまった。

 

これを哀れと思った人々は池の畔に亡骸を埋め、柳を植えて形見の柳とした。

その旧地も明暦の頃に無くなってしまい、お玉ヶ池の名だけが残っている。

 

 

 

 

 

江戸名所図会(1834年刊)の時点で既に伝説として語られるお玉ヶ池

 

 

 

 

これは果たして真実なのか?この「証言」を裏付ける確証、言わば「物的証拠」が欲しいのです。

(ドラマ「イチケイのカラス」を見ていたらすっかり感化され、裁判用語が使いたくなるばぁばです)

 

 

 

 

ずばり!!玉ヶ池そのものが描きこまれた古地図」を見たいのです。

 

 

 

 

 

でも、ばぁばが探すことができた江戸古地図の最も古いものは「正保元年御江戸絵図」(刊年不詳)

 

 

「正保元年御江戸図」東部 (国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

赤く囲ったあたりが「お玉ヶ池」と呼ばれたエリア。

 

 

地図左上の黒く着色された池は不忍池

 

 

右上は、浅草寺北西で後に一部が新吉原となる 千束池&湿地帯。

上の写真では上部が切れていますが、原本を拡大すると「日本堤」の文字が読み取れます。▼

 

 

(ドローンもGoogle Earthもない江戸初期にこんな地図が描かれたことに感服。

かの伊能忠敬の登場にも、あと150年以上待たなくてはならない・・・)

 

 

 

▼こちらは「正保年中江戸絵図」

嘉永6年(1853)に「御江戸絵図」を模写して作った正保年間の江戸全体図。

(国会公文書館デジタルアーカイブより)

 

 

同じく赤く囲んだあたりがお玉ヶ池エリアです。

 

 

 

 

この二つの地図(正保年間: 1645〜48の江戸図)には、

既にお玉ヶ池はありません

 

 

 

 

 

「江戸期に埋め立てられ幕末にはすっかり無くなった」と記述された文章をたまに見かけます(先の種痘所跡の案内板にも)が、幕末どころか、古地図によれば江戸初期から池はありません。

 

 

 

 

調べた限りでは、これ以降どの江戸古地図にもお玉ヶ池は描かれていません。

「お玉ヶ池アト」、「お玉イナリ」の文字が書き込まれた地図はありますが、実際そこにあるのは江戸の町並みばかりです。

 

 

 

 

桜咲く風光明媚な池、娘が身を投げるほどの大きな池が、神田界隈にあったのか?

そんな美しい景色が簡単に埋め立てられ、町並みに変えられてしまったのか?

それはいつのことなのか?

 

 

 

 

神田明神を調べた時に、現在の内神田(浦安稲荷神社の旧地)あたりは日比谷入江が入り込んでいて、漁師村があったという記述を見かけました。

神田山が削られ(お茶の水駅がある峡谷はこの掘削による)、日比谷入江は埋め立てられました

 

 

 

 

その入江の北東に、大きな池が?海水湖?

入り江と同時期に埋め立てられたのでしょうか。

 

 

 

 

 

今、岩本町界隈を歩いてみれば、ビルの隙間に小さな公園があり「この辺りがお玉ヶ池の跡」と説明する碑が立っています。(どうせなら、江戸名所図会の伝説通り、柳を植えて欲しい・・・)

 

 

 

 

 

町中には江戸名所図会」の記述によく似た小祠と鯉が泳ぐ水場も見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

お玉ヶ池伝説に因むお店の名前もちらほら。

 

 

 

 

ただ、案内碑も祠も、江戸の古地図にある「お玉ヶ池アト」の文字も・・・・・・

物的証拠のようでいて、「昔々ここに」の証言につじつまを合わせた結果のようにも思えてしまいます。

 

 

 

このままだと証拠不十分につき存在の訴え棄却みたいな感じになります。(「イチケイのカラス」を引っ張り過ぎ😓)

 

 

 

 

 

まぁ、そうは言っても、これだけ状況証拠が揃っていれば、限りなく「クロ」なのでしょうね。

なんといっても、江戸名所図会は、江戸好きのバイブルみたいなものだし。

 

 

 

 

 

 

だから、ずっと現在の地形図(デジタル高低図)と睨めっこしています。

 

 

 

もっと地学を勉強していたら・・・(地学・・・吐きそうなくらい苦手でした。赤点取ったことあります。出来る人、リスペクトです。)

 

 

 

そう!地学的考察をしたら、

現在の地形から、かつての地形が読み解けるような気がします。

掘割や埋め立てや色々いじられる前、江戸よりも前の地形も、きっとわかるにちがいありません。

 

 

 

 

 

とりあえず、地学得意な尊敬すべき方が作った?と思われる「お玉ヶ池」入りの「江戸以前の推定地図」(▲)を見て、なんとか理解しようとしています。

地形図とすり合わせて、イメージを膨らませようと試みています。

 

 

 

それでも未だに 「幻のお玉ヶ池」です。

 

 

 

 

どなたか、お玉ヶ池が描かれた「古地図」をご存知でしたら、教えて下さいね。