水戸黄門 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

貞享4年(1687)に、5代将軍徳川綱吉が発令した「生類憐みの令」には、江戸の市民は苦しんでいた。しかし、水戸光圀でさえ、表立っての政治批判は憚られた。かつて綱吉の将軍継承の際には、強力な後ろ盾になった光圀であったが、綱吉が長男を世嗣にしようとすると、「本来は綱吉の兄綱重が5代将軍になるはずだったのだから、世嗣は綱重の子にすべき」と主張した。以来、18歳下の将軍とはしっくりしない関係が続いた。

 尾張藩、紀州藩と並び、将軍家の血統を保持する役目を担った徳川御三家の一つである水戸藩。その2代藩主、徳川光圀は、寛永5年(1628)、徳川頼房と側室久子の間に生まれた。実は、久子のこの懐妊を頼房は喜ばず、堕胎を命じたという。それを哀れんだ家臣の三木之次(これつぐ)は、久子を水戸城下の自宅に引き取り、ひそかに光圀を出産させた。このため、光圀は、頼房の三男でありながら、幼年期を三木邸で過ごした。その光圀が、世嗣選抜を一任された家老の中山信吉の強い推薦で、正式に水戸徳川家の世嗣(よつぎ)として、江戸の水戸藩邸に移ったのは、寛永10年、6歳のことであった。しかし、少年期の光圀は、父親に出生を歓迎されなかったにもかかわらず、兄を差し置いて世継ぎになってしまったことから、屈折した心情を抱くようになり、放埓な言動を繰り返した。その悪評は、旗本の間にまで広まっていたという。

 しかし、18歳の時、中国前漢時代の歴史家、司馬遷の『史記』にある「伯夷伝(はくいでん)」を読み、光圀は目覚めた。「伯夷伝」は、王の位を兄の伯夷と弟の叔斉(しゅくせい)が譲り合う話である。長兄を差し置いて自分が世嗣になったことに負い目を感じていた光圀は、この話に、放蕩三昧の自己を反省する。その後、水戸徳川家の血筋を兄の血筋に戻すため、兄頼重の息子綱條(つなえだ)を養子に迎えた。

 寛文元年(1661)、34歳で2代藩主に就任。祖父家康や父から受け継いだ生来の向学心や実行力で、種々の施策を進め、水戸藩を治めた。

「位山にのぼるも くるし老の身には麓の里ぞ 住みよかりける」これは、元禄3年(1690)、世嗣綱條に家督を譲った光圀は、権中納言に任ぜられた時の心境を詠んだものである。後年、「水戸黄門」と称されるようにいなるのは、この中納言という官位に相当する中国唐代の官職名が「黄門」であったことに由来する。

 引退の翌年、64歳の光圀はわずかな数の供を連れ、水戸領内の久慈郡新宿(あらじゅく)村(現・常陸太田市)の簡素な西山荘に入った。しかし実は、この隠居は、執拗に綱吉や幕府を批判する光圀を疎ましく思った幕府が要請したもので、光圀が望んだことではなかったと言われている。光圀はこの隠棲を機に、明暦3年(1657)から進めていた、南朝正統の立場を強調した『大日本史』の編纂に、一段と力を注いだ。そして、この修史事業は、水戸徳川家の一大事業として継承され、やがて、一つの学風を生み、天保年間(1830~44)に「水戸学」となって結実した。

 光圀は、身近な薬草で作ることが出来る397種の薬を紹介した『救民妙薬』を作らせるなど、家臣や領民に対し慈しみの心で接した。また、藩主時代、領内の宗教の乱れに着目した光圀は、大規模な寺社整理を敢行し、水質の悪かった水戸に、上水道を完成させた。

 筋を通すと、煙ったがられます。原理原則で、物事を押し通すと、堅物と嫌がられます。しかし、人間社会においては、「なー、なー」だけで人間関係を続けていけば、いつかは崩壊することになる可能性が高いと言えましょう。したがって、昔から「頑固おやじ」「分からずや」がいたのではないでしょうか。しかし、現代では、そのような人間は大切にはされません。「適当に対応する人間」の方が世に受け入れられやすいのは、仕方がない事なのでしょうか。