千住 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 千住は品川、板橋、内藤新宿と並ぶ江戸四宿の一つで、奥州道中、日光道中、水戸街道などが重なる要衝であった。本陣、脇本陣は勿論、最盛期には旅籠が50軒以上も並んだ宿場町であった。また、隅田川に架かる千住大橋を渡った千住河岸近辺には、天保年間(1830~44)、青物市場(ヤッチャバ)が開かれ、「ヤッチャー」とセリの声が飛び交った。周辺から運び込まれた蓮根や芋などの野菜は、江戸庶民の台所を潤し、また、将軍に献上されることもあった。

 この地の裕福な飛脚宿の主人、中屋六右衛門は、文化12年(1815)、還暦の祝いに、「千住酒合戦」を催した。狂歌師の太田南畝や画家の谷文晁ら江戸の文化人を招き、100人余りが参加。7升5合飲んだ者もいたという。

 将軍家の鷹場としても知られた千住で、水戸街道は奥州道中、日光道中と分かれ荒川を渡ると、街道の南には堀切菖蒲園、さらに新宿の渡しで中川を渡れば、南には柴又の帝釈天がある。帝釈天信仰は、江戸時代後期、天明の大飢饉や信州浅間山の大噴火など、世の不安を背景に流行した。憤怒の形相で悪魔を降伏(ごうぶく)する帝釈天は、病気や災難を払う厄除け本尊で、庚申(こうしん・かのえさる)の日を縁日とする。この日の夜を寝ずに過ごす庚申待ち信仰と結びついたのである。年6回の庚申の夜には、千住から柴又帝釈天まで、お参りの提灯が一筋の帯となって、葛西田園に輝いたと言われる。

 北千住の町はなぜか人気があるようです。それは、街角の小さな店の人気のようで、「なぜこんな店に」と言うような古びた小さな店の前に人が列をつくって並んでいるのを見ます。少し前までは、地元の人は見向きもしなかった店で、突然の人だかりには驚きます。ただ、そのような店は、だいたい「飲み屋」のようで、北千住に多いのは、「飲み屋」と「美容室」、それに「ラーメン屋」ということが言えると思います。