週末、突然の雨に見舞われてバスターミナルのベンチで休んでいたときのこと。
「キリストを信じますか?」
と若いインド人女性が話しかけてきました。
聖書を持って伝道活動をしているのですね。
「もちろん!でも、私はキリスト教徒ではないんですよ。」と答えました。
彼女は
「あなたは何教ですか?聖書を勉強したいですか?神様に助けを求めませんか?」と
笑顔で一生懸命話しかけてくれます。
そこで、
「私はキリストもマリア様もシヴァもクリシュナもアッラーもグルナナクも全部大好きで全部信じていて、でも全部一つだと考えています。それらは全部私の心の中にある神で心=神だと思っているので助けがほしいと思ったらすがるのではなく自分の心を鍛えます。私はそんな風に自分教をひとりでやっているので大丈夫よ!!ありがとう!!!」
と笑顔でお答えしたら笑顔で手を振ってバスに乗っていきました。
日本に住んでいたときも自宅まで聖書を持って訪ねてきてくださった方々がいて
「問題の多い現代、いろいろとお悩みがあるでしょう。」と言われ
「もともと問題があるのが人生の面白さだと思っているので特に問題ありません!!」
とお話したら「そうですか!!!よかったです!!」と言って帰っていかれました。
皆さん、自分の信じるものがあって幸せを求めていることに変わりありませんが
面白いですね、この反応。
「この人には問題がなさそうだ」と思ったら早々に退散していきます。
つまり「問題を感じていてつらそうな人」を「神様に助けてもらいましょう!!」ということでお手伝いしているのですね。
けれども、本当にそうなのでしょうか。
神様が問題を解決してくれたらすごいですね!
それが本当なら私もとっくにお金払って神様に助けてもらってます!!!!
何かと苦労の多い母の分もどーんと払っちゃいますっ!!!
って人間、本当にお金払っちゃうんですね。
こんなことが言えるのは以前に会社の先輩に進められてそういう類の宗教に通ったことがあるからです。まだ目尻の小じわとほうれい線の気にならないきゃわいい20代の頃でした。
「良心的なお値段」のお布施とか「良心的な価格設定」のレベルアップ機能とかが充実していて「これくらいなら払える。有難い!」と思わせてしまう組織体制になっております。
飽きっぽい私にしてはがんばって通いました。先輩の顔を立てる意味もあって通いました。
けれども「幸せになりたい」はずの人たちが取り合えずお金を払ってお祈りは必死にするけれど影でいびり合ったり喧嘩したり悪口を言ったりしてるのを見ちゃったんですね。そんでもってその失敗をまた「人間だもの。あるある。」的に簡単に解決してとりあえず祈る。
それを見たときに
あー やめよう。今すぐやめよう。さようなら。と思いました。
そして「神様」が助けてくれるとしたら一生懸命心を磨いて、その心(神)に嘘をつかず日々を生きているときだろう。とそのときにすっとーーんと理解したのです。
そういうことを知る、本当に良い経験でした。
それからは「自分教やってます!!」と公言しています。
私はお寺も教会も大好きだし神様の名前を連呼する歌だって歌えます。
インドは宗教色の強い国ですから「神様を信じますか?」という質問は日常会話のひとつであり、初対面の方にもよく聞かれます。
そのたびに
(わたし、全神様信じてんの。でもって、あたし神。あなたも神!この世界の全部が私にとって神なのよっ!!センキューっ!!!)
って言っています。
生まれたときから所属する宗教が決められている状態の彼らからすると自由を超えて摩訶不思議な世界観でしょうが、どれも否定しないのでもれなくどんな神様の話題でも輪に加われるので楽しいのです。
自宅のホーリースペース
もうすぐ街の大きなお祭りのため、街中では象もリハーサル中。人々ももうお祭りムードです。
Om shanti