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『自炊力は人間力』おだしプロジェクト土岐山協子の〜「自炊はじめよう」ブログ

おだしプロジェクト代表の土岐山協子と申します。
日々の徒然を書いております。『ゼロからはじめる自炊塾』という、大学生以下無料の料理教室をやっております。料理をする人が少しでも増えたら嬉しいなあ、と思っています。

皆さんこんにちは。
土岐山です。

なんだか自分のブログに全くログインできなくなり
まあいいかとそのまま放置をしておりましたところ

アメーバブログのアカウント等を作成してくださいましたおじさんが、もしかしてパスワードわかんないの、と昨日メールをくれまして。
パスワードを入力したらログインができましたため

久方ぶりに記事を書こうと思った次第です。

昨日久しぶりに付き添いで病院に行き、待合室で料理がたくさん載っている主婦の方向きの雑誌を手にしました。

私が社会人になりたてぐらいのころの記事とあんまり変わらない、節約術や、料理のレシピ。そして大手食品企業の広告。

雑誌の内容自体は変わらないままでも、今この時代を取り巻く環境は著しく違う。

まずはSNSが一般的になり身近な人々と情報の共有がより簡単に出来るようになったこと。

全く知らない人の流す情報しかなかった昔と

実際に会って信頼できる人の情報をいつでも手に入れられる今

ご存知の通り、雑誌の広告にはスポンサーがいて
スポンサー会社の商品が売れるように内容を練らなくてはならないわけです。

それはもう今更言うことでもないのですが

確実に時代は変わってきている
ということだけは言えるわけで

例えば土岐山は昭和47年生まれで46歳
土岐山の時代は第二次ベビーブームで
とても人数が多い上に
偏差値重視教育の全盛期だったもので

成績の高いものは勝ち
低いものは残念

のようなわかりやすいヒエラルキーがあり

その熾烈な争いについていけないでドロップアウトする人達が盗んだバイクで走り出したり校舎の窓を割り続けたりと行き場のない気持ちをわかりやすくアウトプットしていた時代でありました。

あれから30年ぐらいが過ぎ

時代は明らかに変わってきています。

一つは偏差値重視教育の見直し
まあ、色々ろくなことが起きてない上に
実は高校までしか行ってない人達がわりと今若手社長さんとなって時代を引っ張っているケースが多いことから

あれ、大学卒業の肩書きって、就職に必要なくね?
みたいな気づきが都内を中心に起きています。

現に、土岐山の友人達には若いベンチャー企業の社長が多くおりますが
会社のエントリーシートには、学歴の欄がありません。

今、何ができるかだけが重要なのだとか。
あとは面接時に感じる生命力。

これ、半ばプー太郎の土岐山が、どんなに若いお母さんに口頭で言っても伝わらないので
もう、そうした社長さんとの対談を載せた本を出した方が早いのかなとも思う。

未だに、大学ぐらい出していないとよい就職にありつけないと本気で思っている土岐山と同じ年代のお父さんお母さんはいて

それは、自分が過ごしてきた時代しか知らないからなのではないかなと思うのです。

もう一つは、食卓の見直し

この偏差値重視教育に連動して
子どもを塾に行かせるお金を捻出するためにパートやフルタイムで働いては疲れたと言ってごはんを作らない家庭が増え、塾が終わるとコンビニエンスストアで買い食いをする習慣がついて
結果身体の免疫力が下がり、今土岐山の年齢ぐらいの人は、ものすごく病気が多い。

ちなみに土岐山は塾に通ったことがない。
ごはんは家族揃って毎日食卓を囲んだよ(╹◡╹)そのおかげかわからんけど、未だに病気知らずやん(╹◡╹)軽く風邪かなと思っても生姜湯飲んだら翌日には治る(╹◡╹)

食卓って、人生をつくるステージと言っても過言ではないほど
重要と思う

今大活躍の大谷翔平さん
その料理雑誌にて特集されており


こんなに素晴らしい人間をどうやって育てたのかというインタビューを大谷翔平さんの親御さんにされた結果が

一番が「食卓の時間を楽しく」ということだったんだよね。

食卓の時間を楽しくすることが人間形成において何より優先すべき重要なことだと、大谷翔平さんのお父さんお母さんはおわかりだったのですね。

もう、若い世代はわりと気づいていて
大学に行ったところで、安定して生きることができる保証なんてどこにもないんじゃないの?って。

だったらこれからどんなことがあっても踏ん張りがきくように、丈夫な身体を作ることが親ができる最大限のことなんじゃないの?って。

化学調味料の時代は実は終わろうとしていて
なぜならそれは一昔前の調理法だから。

これからの時代は健康な身体を作るために

農薬の使われていない野菜を選び
遺伝子組み換えの餌を食べさせていない食肉を選び
なんでもかんでも化学調味料で味を均一にしようとしない、自然の調味料のシンプルな味付けで
みんなで美味しく楽しく食卓を囲む

そんな食事が当たり前な時代になるでしょう。

土岐山は、
えっ、今時塾に行ってないの?!
遅れてる!!
と、同級生に驚かれたクチですが

今思えば時代をかなり先取りしていたのだと思います(笑)

母親の作る料理は
魚を焼いて大根おろしとか
肉を焼いて塩こしょうとか
庭の畑から取れた野菜のおひたしとか
いわゆる、料理雑誌に載っているような名前のついたおかずは全くなかったけど

何をつくるかではなく
何を使うか

という観点で食卓を作っていたように思う

丸大豆の醤油や
手作りの味噌
新鮮で安心な食材を使うこと

食卓って
これだけでいーのだという気がする

一日たりとて、同じ味がなくていい
だって食材は人間が一人一人違うのと同じように
同じものは二度とできないのだから

家庭の味は、工業製品ではない
素材の味を引き出してこそ、家庭料理なんじゃないかな。

家庭料理って毎日違う味が醍醐味なんじゃないの?(╹◡╹)
人生と一緒でさ(╹◡╹)
毎日違うことが起きるから楽しいんじゃないか(╹◡╹)

教育もさ
親が世間の尺度で色々と手をかけたら
子どもが他と同じ規格品になる

料理も教育も最後に規格化された化学調味料で均一の味にするんじゃなくて
それぞれが持つ素材の味を最大限に出すことが素材への謝辞じゃないのかな、と思う。


ところで土岐山が小さい時代から
キャラ弁の走りのようなものは存在していて
ひよことか、パンダとか
様々な工夫で同級生のお弁当箱がファンタジックになっている中

土岐山のお弁当はごはんの上に、卵焼き、煮物、味噌漬け、梅干し
と、ほぼ毎日同じ絵面で

思い切って母親に
ちょっとでいいから華やかにしてもらえないかを打診したところ、わりとあっさりオーケーしてくれて

次の日めっちゃ楽しみにお弁当開けたら
サランラップにくるまれたたのきんトリオのプロマイドがごはんの上に乗ってたよね、、。


プロマイドの下はごはんしか無かったよ(╹◡╹)
でもほんのりついてる塩味に
母の愛を感じたね(╹◡╹)

いい思い出を、ありがとう、お母さん、、、(╹◡╹)

まだ生きてるけど(╹◡╹)


沖永良部島は台風一過でよいお天気です。

よい一日、今日もよい食卓を。


土岐山拝


世の中で争いが起こる理由はたった一つ。
それは「自分の意見は正しいから他の人もそうあるべきだ」という心の在り方による。
この考え方は、実はウォーズマン理論よりも無茶苦茶だ。

「自分の意見」は、自分の世界の中だけで絶対的な正しさを持つ。それが「自信」というやつ。自分の意見を持つことは間違っていないどころか、むしろ心穏やかに生きていくためには必要な要素である。

しかし「自分の意見」を他人に押しつけた時点でそれは「自信」ではなく「過信」となる。やり過ぎ、ってこと。
過信はいつの時代もどんなシーンでも醜い。「俺、いけてる」「自分は仕事ができる」「私は美人だ」という類のものは全て「過信」である。なぜなら、この意見には全て「〜と比べて」という、他人との比較対象があるからだ。

少し整理したい。
自分の意見を「物差し」に例えると
つまり、自分に自信のある人は自分の物差しは過去の自分と今の自分を測るためにしか使わない。
しかし自分に自信のない人は自分が持っている物差しを人にあてて測ろうとする。人が持っている物差しはその相手の人仕様になっていて目盛りも単位も長さも違うことが、頭から抜けている。
争いを起こすタイプの人は、自分の物差しで人との比較をしたがり、かつ自分の物差しが「正しくて素晴らしい」と、人に認めて欲しがる。自分の物差しが世間ではどう見られているのかが気になるのは「自分で自分の物差しを素晴らしいと思えない自信のなさ」からきている。その不安を払拭するために自分の物差しは世の中での絶対正義だと思い込みたがり、人を自分の物差しに合わせようとする。こうした人がいわゆる「自己中」と呼ばれる人。「自己中心的」ではなく、正確には「自分が中心じゃないと気が済まない」の略である。自己中な人ほど自分に自信がない。

最近、天真爛漫な方と知り合った。
世の中には天真爛漫と自己中を履き違えている人が多いが、本質は間逆だ。
天真爛漫な人は、自分にも他者にも愛がある。
見分け方は、簡単。
天真爛漫な人は、自分の言いたいことを好きなタイミングで言い、したいことを好きなタイミングでする。しかし、自分の要望が叶わなかった時にも、素直にそれを受け入れる。タイミングは天から与えられているという大前提がわかっているからだ。教養人。

自己中な人は、相手が自分の思い通りにならないと不機嫌になる。人を自分の思う通りにコントロールしたいくせに、人にコントロールされることを極度に嫌う。自分の物差しを信用していないから、人の言いなりになったら自分が無くなりそうで怖いので常に相手を攻撃するための戦闘態勢になっている。いらんこといったり、人のアラを探したりする人は、攻撃による最大の防御をしているに過ぎない。それが結果、優しい人を遠ざけ、自分の人生に愛がなくなっていくことに繋がるところまで考えが及ばない。無教養。

優しさとは、心の強さだ。
強い人は常に優しい。人を自分から攻撃したりはしない。ましてや泣き言や愚痴も言わない。今の生活に満足をしているからだ。
要は、心に感謝があるかどうか。

その天真爛漫な方の言葉を、私自身が肝に命じておきたいので書き残しておく。

「世の中で、不満を持って生きている人いるじゃない?社会が間違ってるとか、パートナーが間違ってるとか、会社が間違ってるとか。それさ、全て、そんなことを口にするお前の生き方が間違ってるよ、ってことなんだけど、これに気づくかどうかが豊かな人生を送れるかどうかだね。私たちも気をつけようね。」

最後、人ごとにしないところが、彼女らしい。

ところで最近風呂場に蛇口がついた。ありがたい。
風呂には蛇口があって当たり前、なんて傲慢なことを自分の物差しで口にしたらバチ当たるで!(╹◡╹)

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土岐山拝
お店はじめて、忙しいでしょう、という労いのお言葉をかけていただくことが多くなった。
確かにすることが増えた分、他のことをついつい後回しにしてしまっている。親しい方優先で甘えてしまい、ご挨拶やお礼などが後手になっている。いかんと思いながらも、一日は24時間しかないわけで、本当に私は時間の使い方が下手だなあと痛感する。

なので私の場合は「忙しい」のではなく、単に「処理能力が低い」のだ。

能力の高い人は分刻みのスケジュールも笑顔でゆとりを持ってこなす。ゆとりとはこの場合心の余裕を指す。そして能力の高い人はそもそも自分のことを「忙しい」と人に言ったりしない。これは私の尊敬する経営者のKさんから学ばせていただいた。

Kさんは元々銀座時代のお客様で、とても素敵な方。なるべくお店に長くいらして欲しいのに、私のお店に来ても20分足らずで次のお店に行ってしまう。一度銀座に出たら先代からお世話になっているお店を全て回るためだと、後から秘書さんに聞いた。
「親父の教えでね、一人で飲む時は長っ尻はするなって言われてね」と、Kさんはいつも笑顔でいらした。お忙しいのにいつもありがとうございますというと、とんでもない!こちらこそ楽しい時間をありがとう、と、黒服さんにまでお金を包んでくだすって帰られた。翌日も「昨日は楽しい時間をありがとう!」とメールをくださり、振込は請求金額よりも必ず多めに入っていた。

「忙」という字は、「心を亡くす」と書く。
Kさんは常にたくさんの方に心を向けていらした。「心が有る」わけだから、なるほど「忙しく」は無いのだ。

Kさんの秘書さんは私と同い年の女性で何度か一緒に食事をしたが、Kさんのスケジュール表を少し見せてもらったことがある。(Kさんの許可済み)
本当に、分刻みなのだ。打ち合わせが8分、とか、移動車中に、〜に確認の電話3分とか。
Kさんは「秘書が全部してくれるから、僕は従ってるだけだよ」と仰っていたが、秘書さんは、社長は朝スケジュールを見たら、それをほとんど自分で管理される、と言っていた。

「忙しい」という言葉はむやみやたらに使うべきではないのかもしれぬ。「心を亡くす」ということは、人間として「命を亡くす」こととほぼ同義だと私は思うからだ。

だがしかし、「命を亡く」しても、「心は生きている」ことは世の中には往々としてある。
今日は東日本大地震が起きた日だ。たくさんの方が命を落とされた。
しかし、津波の最中でも自分を後回しにして他の人を助けた方や、町を守りながら殉職された方など、亡くなった方々の「心」や「意思」は生き続けている。

命ある私が、ちょっとのことで「忙しい」などとは、それこそ死んでも口に出来ない。

鹿児島空港で撮った、噴火の様子。
人間も自然の一部だが、自然の驚異的な力には太刀打ち出来ない。

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