争いを起こさないためには自分の物差しで相手を測ろうとしないこと | 愛情料理研究家 土岐山協子の 『食べることは生きること』を発信するブログ

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愛情料理研究家の土岐山協子と申します。私は元々教職に就ておりました。その時に教育における母親の役割の重要性に気付き、日本の国力を上げかつ愛情に溢れた幸せな日本国を作るためには女性が愛情に溢れ、賢く美しくある必要があるのだという考えに至りました。

世の中で争いが起こる理由はたった一つ。
それは「自分の意見は正しいから他の人もそうあるべきだ」という心の在り方による。
この考え方は、実はウォーズマン理論よりも無茶苦茶だ。

「自分の意見」は、自分の世界の中だけで絶対的な正しさを持つ。それが「自信」というやつ。自分の意見を持つことは間違っていないどころか、むしろ心穏やかに生きていくためには必要な要素である。

しかし「自分の意見」を他人に押しつけた時点でそれは「自信」ではなく「過信」となる。やり過ぎ、ってこと。
過信はいつの時代もどんなシーンでも醜い。「俺、いけてる」「自分は仕事ができる」「私は美人だ」という類のものは全て「過信」である。なぜなら、この意見には全て「〜と比べて」という、他人との比較対象があるからだ。

少し整理したい。
自分の意見を「物差し」に例えると
つまり、自分に自信のある人は自分の物差しは過去の自分と今の自分を測るためにしか使わない。
しかし自分に自信のない人は自分が持っている物差しを人にあてて測ろうとする。人が持っている物差しはその相手の人仕様になっていて目盛りも単位も長さも違うことが、頭から抜けている。
争いを起こすタイプの人は、自分の物差しで人との比較をしたがり、かつ自分の物差しが「正しくて素晴らしい」と、人に認めて欲しがる。自分の物差しが世間ではどう見られているのかが気になるのは「自分で自分の物差しを素晴らしいと思えない自信のなさ」からきている。その不安を払拭するために自分の物差しは世の中での絶対正義だと思い込みたがり、人を自分の物差しに合わせようとする。こうした人がいわゆる「自己中」と呼ばれる人。「自己中心的」ではなく、正確には「自分が中心じゃないと気が済まない」の略である。自己中な人ほど自分に自信がない。

最近、天真爛漫な方と知り合った。
世の中には天真爛漫と自己中を履き違えている人が多いが、本質は間逆だ。
天真爛漫な人は、自分にも他者にも愛がある。
見分け方は、簡単。
天真爛漫な人は、自分の言いたいことを好きなタイミングで言い、したいことを好きなタイミングでする。しかし、自分の要望が叶わなかった時にも、素直にそれを受け入れる。タイミングは天から与えられているという大前提がわかっているからだ。教養人。

自己中な人は、相手が自分の思い通りにならないと不機嫌になる。人を自分の思う通りにコントロールしたいくせに、人にコントロールされることを極度に嫌う。自分の物差しを信用していないから、人の言いなりになったら自分が無くなりそうで怖いので常に相手を攻撃するための戦闘態勢になっている。いらんこといったり、人のアラを探したりする人は、攻撃による最大の防御をしているに過ぎない。それが結果、優しい人を遠ざけ、自分の人生に愛がなくなっていくことに繋がるところまで考えが及ばない。無教養。

優しさとは、心の強さだ。
強い人は常に優しい。人を自分から攻撃したりはしない。ましてや泣き言や愚痴も言わない。今の生活に満足をしているからだ。
要は、心に感謝があるかどうか。

その天真爛漫な方の言葉を、私自身が肝に命じておきたいので書き残しておく。

「世の中で、不満を持って生きている人いるじゃない?社会が間違ってるとか、パートナーが間違ってるとか、会社が間違ってるとか。それさ、全て、そんなことを口にするお前の生き方が間違ってるよ、ってことなんだけど、これに気づくかどうかが豊かな人生を送れるかどうかだね。私たちも気をつけようね。」

最後、人ごとにしないところが、彼女らしい。

ところで最近風呂場に蛇口がついた。ありがたい。
風呂には蛇口があって当たり前、なんて傲慢なことを自分の物差しで口にしたらバチ当たるで!(╹◡╹)

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土岐山拝