ムスカと又八のブログ(仮) -21ページ目

どんな石橋なら叩いて渡るべきか

ぼくは、石橋を叩いて渡らない性格である。

本当に叩かない。大丈夫だろ!と思って、楽観視して、渡る。

短い橋の場合、これは割と良い方に作用する。短い橋だったら、「これはやばい」と思っても、ダッシュで駆け抜けられる。

結果的に、向こう岸に渡れるのでオッケーなのだ。


でも、とても長い橋の場合、駆け抜けられない。やっと橋の真ん中まで来た。すると、なにやら音が聞こえる。


みしみし


足元を見る。ヒビか入っている。川底に落ちる。


向こう岸にもいけない。落ちて怪我をする。時間もかかる。これは良くない。



長い橋の場合、叩いて渡るべし。時間はかかるけど、一歩進んだら、後ろを振り返り崩れていないか確認、そして、おもむろにしゃがんで、ハンマーでコツコツと叩いてみる。この方が、結果、効率がよい。




長い石橋は叩いて渡るべし
短い石橋はBダッシュ



付加価値アップの最後のチャンス

好きな仕事をするのは、あるいは、嫌いな仕事をしないのは、人生を楽しむためではないぞ。


生き残るためぞ。


ルールは絶対ぞ。サッカーでも野球でもバスケでも。ルールは絶対ぞ。


この世にもルールあるぞ。資本主義ぞ。すべてにプライスタグがついてるぞ。



おまえにも。おれにも。ぞ。




プライスあげるためには、好きな仕事して、努力しないといけんぞ。それ以外にない。



プライスなんて知るか、だって?

いいぞ、いいぞ、それは自由というやつぞ。

でも、資本主義のルールは存在してるぞよ。お前の価値が小さいということは…リアルに言うと、給料が『小』ということぞ。


商品は買えんぞ。車。家。子供への教育サービス。親への介護サービス。旅行。


優位には生きれんぞ。


優位に生きることに興味がない?ほんとか?まじか?わかった。






良い本と悪い本

本には二種類あるんではないかと思う。楽しい本と、つまらない本だ。

なんてのは嘘で、

知性を与えてくれる本と、知識を与えてくれる本だ。

以前までは、知識を与えてくれる本も、大事に読んでいた。でも、それは、専門的な教科書とネットに任せよう。その方が、早いし、まとまった知の体系をそっくりそのまま脳に移せるから効率もいい。知識を与えてくれる本はもう不要だ。


久しぶりに知性を与えてくれる本と出会った。これが真の本だ。読んでも読んでも全然先に進まないのには驚いた。まず、書いてあることが、新鮮すぎて、じぶんの過去を遡っても同じ知識がなかった。だから、改めて解釈していかなければならなかったから時間がかかる。

そして、一つ一つの文に含蓄がありすぎて、『これをじぶんに置き換えると…』とか考え、考えたことをノートにまとめたりをほぼオートマチックにしてしまっていた。ぼくが主体的に考えたのでなしに、明らかに、本に考えさせられた。ぼくが日頃から無意識に考えていることが、噴水のように、梨汁のようにブッシャーっと意識の領域まで昇ってきた。これには、ワクワクした。


良い本、良い著者に出会いたい

疑い始めればきりがない

ぼくは、優柔不断だと思う。少なくとも、決断をする人間ではない。

決断をする人間には、信念がある。その信念に基づいてるから、即、決断ができる。

ぼくには、信念がないということだ。もちろん、反論の余地はない。ぼくには、信念がない。


正直なにが正しいのかわからない。だから、これが正しい!という自信を持って言う人にすぐに魅かれてきたのだろう。この先もその危険がある。新興宗教にのめり込み、金を使い出したら、どうか止めてほしい。


商売は、宗教だと思う。アルバイトをしていて、思う。経営者は、信念を語る。理想を語る。ぼくはそれが信じられないから、したがえない。


その信念ってほんとに正しいの?と思う。


だから、一般企業の就職に向かなかったのかもしれない。研究者になって、右往左往して、ああでもないですよね、こうでもないですよね、ああ分かりません、もう少し調べてみます、とか言うことにぼくの性分はあっているように思う。



学習塾の存在の前提になっているのは、『成績が高いが正義』であると思う。ほんとにそうなの?ぼくの周りに成績は振るわなかったけど、幸せそうなやつ、知性のあるやつ、金を稼いでるやつ、いっぱいいるんですよね。学習塾の語る正義…って?そこにお客さんがいるから?需要があるから?お客さんが間違ってるかもよ、子供に成績要求して、上がらなかったら怒るとか。


こんな疑問を持ちながら、教わる生徒は不幸かもしれない。ごめんね。でも、信念を語るのはかっこいいけれど、世の中割り切れることばかりではないんだよ。


数字の11は、1と11でしか割れ切れない。12は1,2,3,4,6で割り切れる。数字の世界でもそんなん。現実の世界は、もっと曖昧模糊としてる。


疑い始めればきりがない。



時事問題への無関心のわけ

周囲の人と同じように、いつしかぼくも時事問題に関心がなくなった。しばらく粘ったが、ついぞ関心は途絶えた。つまり、最初からなかったのだろう。それを無理矢理関心あるっぽく頑張っていた。で、疲れ、やめた。


こんなことを書くと、憲法や政治情勢に関心のある人は、


政治に関心がないだと?!戦争に行きたいのか!!


とか言うかもしれない。いや、行きたくないわ、アホか。行きたいわけないわ。



じゃあ、なんで政治に関心がないのだ!!



とか言うかもしれない。なぜだろう?たぶん、無力感だろう。政治に関心を持ち、遊びや休息、目前にある仕事を犠牲にして政治を勉強しても、投じられるのは一票。


反論大いにけっこう。でも、この一票よりも価値のあることが山ほどあるのだ。きっとぼくを含める『今時の若者』も同じ気持ちのはずだ。

なにが正しいかわかんね